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喪服について

2012-01-31 18:03:31 | うんちく・小ネタ

  喪服について

 『日本書紀』や『隋書倭国伝』などを見ると古代の喪服が白かったということが分かります。しかし、718年に養老喪葬令が出され、「天皇は直系二親等以上の喪には『錫紵(しゃくじょ)』を着る」と定められます。当時の注釈書によると、「錫紵」とは「いわゆる墨染めの色」のことです。これは中国の『唐書』に「皇帝が喪服として『錫衰(しゃくさい)』を着る」と書いてあり、この中国の制を真似して定めたものと考えられます。ところが、唐でいう「錫」とは、灰汁処理した目の細かい麻布のことで、それは白い布のことなのですが、日本人はこれを金属のスズと解釈し、スズ色、つまり薄墨に染めてしまったようです。
 この「錫紵」の色は、平安時代になると貴族階級にも広まって、薄墨だった色合いも次第に濃くなっていきます。これはより黒い方が深い悲しみを表現すると考えられたからで、養老喪葬令の時、喪に重い軽いが定められ、平安になると着る色もこれにより決められたので、『源氏物語』でも、妻を亡くした光源氏が「自分が先に死んでいたら妻はもっと濃い色を着るのに、自分は妻の喪だから薄い色しか着られない」と嘆く場面があります。その後平安後期になると、一般的に黒が着られるようになりました。
 ところが、室町時代に白が復活し、江戸時代に水色が登場したりしますが、基本的には白が続いています。養老喪葬令以降、喪服を黒くしたのは上流階級だけで、庶民は一貫して白のままだったと思われます。昔は人の死を「穢れ(けがれ)」と考えていて、一度着用した喪服を処分していたようですが、白い布を黒く染めるには染料もいりますし、手間もかかります。そんな手間をかけたものを庶民が簡単に捨てたとは考えにくいし、現代よりもはるかに信心深い時代ですから、たたりや災いが起こるのではないかという恐れが強かったために、先祖代々受け継いできた伝統(葬式の形式)を変えるには、相当の勇気が必要だったはずです。
 養老の喪葬令で喪服が黒とされて以来、室町以降も格式や形式を重んじる宮中では「決まり事だから」という理由で頑なに黒のままを守り続け、それと同じように、庶民は貴族の「黒」におされながらも、形式を変えることへの恐れや経済的理由などから「白」という色を守り続けていたのだと言うことです。
 明治維新を機にヨーロッパの喪服を取り入れて黒になり、現代に至っています。
 弔辞でない場合も、宮中で偉い人の装束は「黒」ですが、一説にこの「黒」は、赤を何度も重ねて染め上げた色だと言われています。思うに、昔は、墨を何度も重ねて染め上げた「黒」と、赤を何度も重ねて染め上げた「黒」とが有り、それぞれ使い分けていたのではないでしょうか。そのために、現代でも宮中では、慶事においても鯨幕を使用しているのではないでしょうか。

 参考文献  増田美子『日本喪服史 古代篇──葬送儀礼と装い──』

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