新選組というのは調べれば調べるほど、人殺ししかしていない。
しかも仲間内での争いばかりだ。
そんな新選組の前身壬生浪士組で起きた暗殺事件。
壬生浪士組、新選組で最初の粛清者。
殿内義雄。
そんなわけで、勝手に新選組。
名前
殿内義雄(とのうち よしお)
別名
大二郎、第二郎
生誕
1830年
死没
1863年5月12日
出身
上総国武射郡森村(現在の千葉県山武郡)
性格
人格者と言われているが、芹沢鴨や近藤勇とかとの小競り合いも多く、意外とカッとしやすかったのかもしれない。
ニックネーム
画像なし。
だいたい殿内なんて珍しい名前だ。
自分は殿内なんて名字の人にあったことも無い。
ということは、幻の名字である。
仕方ないので『シーラカンス』にしよう。
逸話
上総国武射郡森村の名主、土屋忠右衛門の末子として生まれたようだ。
江戸では昌平坂学問所でお勉強したりしたようだ。
その後、結城藩に仕えたみたいだ。
1863年に清川八郎が浪士組を募集。
殿内君も浪士組に参加。
目付役に任命されたようだが、ある日平隊士に降格。
殿内君が平隊士に降格したその日、芹沢鴨が取締役に移動になっているのでおそらくなにか殿内君と芹沢さんお間でなにかやらかしたのだと思われる。
そして、浪士組が京都に着くと、清川八郎の嘘が発覚。
浪士組は江戸に帰ることになるが、殿内君は京都に残る。
芹沢さんとか近藤さんとか京都に残る人の取りまとめを任されたようだ。
ちなみに、京都に残った人の名簿に名前が残っていないようだが、責任者という立場だったためだと思われる。
そして、会津藩お預かりとなり、壬生浪士組が結成。
壬生浪士組の筆頭局長は芹沢鴨で局長が近藤勇、新見錦だったようだ。
本来、責任者の殿内君が組の一番上に立つのものと思われるのだが、殿内君の名前がなぜか無いのである。
それどころか、殿内君は壬生浪士組内での立場はほぼ一番下だったと思われる。
壬生浪士組では芹沢派と近藤派の派閥争いが繰り広げられていようで、殿内君はどちらの派閥にも所属していなかったため、派閥争いに乗り遅れて、立場を失ったと思われている。
ただ、自分は浪士組では芹沢さんと小競り合いを起こしたと思われ、その後平隊士に降格しているワケで、本当は芹沢さんにビビりまくって影が薄くなったんじゃないかと思う。
勝手な想像だが・・・。
そんなこんなで、殿内君も「ボクだって、もう少し意見を言ったっていいじゃないか」みたいなことを言って隊内での立場を回復しようとしたようだ。
しかし、それもにんともかんともいかなかったようだ。
それどころか、芹沢派、近藤派の人たちには「あいつ、生意気だ!」と言われる始末。
どちらの派閥にも所属していなかった根岸友山まで芹沢さんや近藤さんに同調したようで、殿内君は完全に孤立してしまったようだ。
それどころか「あいつ生意気だから殺してしまえ!」と命まで狙われてしまう。
しかしまあ、生意気だから殺すなんて穏やかじゃない。
完全にどうかしている。
そんなこんなで、殿内君は「こんなとこもう嫌・・・」と京都から離れようと考える。
そんなある日、壬生浪士組と会津藩士の本多四郎が懇親の場を設けたようだ。
その日の夜、殿内君は京都から去ろうとしたようだが、誰かに暗殺されてしまったようだ。
「後ろから斬られた」とか、「2人組にきられた」とかいろいろ言われているようだが、殿内君が刀を抜いた様子が無いためにおそらく仲間内での暗殺であろうと思われている。
あと近藤勇が多摩に送った手紙に「仕事やらなんやらに失敗した人は、すぐに天誅します。それから、すでに殿内君とか打ち果たしました」なんて書いてあるから、近藤たちが暗殺犯だとも言われている。
なんかやらかしただけで殺してしまうとか、酷い話である。
完全にどうかしている。
しかも、殿内君がなにをやらかしたかはハッキリしていない。
おそらく生意気だったのだろう。
殿内君が仲間に嫌われていただけのようだ。
嫌われて殺されるなんて、どうかしてるどころではない。
そもそも、殺すぐらい嫌いになるって、殿内君は一体全体どんなことしたのだろうか?
これが、壬生浪士組の初めての粛清のようだ。
新選組が現代で人斬り集団と言われても、この事件をみれば仕方ないのかもしれないと勝手に思うのである。
しかも仲間内での争いばかりだ。
そんな新選組の前身壬生浪士組で起きた暗殺事件。
壬生浪士組、新選組で最初の粛清者。
殿内義雄。
そんなわけで、勝手に新選組。
名前
殿内義雄(とのうち よしお)
別名
大二郎、第二郎
生誕
1830年
死没
1863年5月12日
出身
上総国武射郡森村(現在の千葉県山武郡)
性格
人格者と言われているが、芹沢鴨や近藤勇とかとの小競り合いも多く、意外とカッとしやすかったのかもしれない。
ニックネーム
画像なし。
だいたい殿内なんて珍しい名前だ。
自分は殿内なんて名字の人にあったことも無い。
ということは、幻の名字である。
仕方ないので『シーラカンス』にしよう。
逸話
上総国武射郡森村の名主、土屋忠右衛門の末子として生まれたようだ。
江戸では昌平坂学問所でお勉強したりしたようだ。
その後、結城藩に仕えたみたいだ。
1863年に清川八郎が浪士組を募集。
殿内君も浪士組に参加。
目付役に任命されたようだが、ある日平隊士に降格。
殿内君が平隊士に降格したその日、芹沢鴨が取締役に移動になっているのでおそらくなにか殿内君と芹沢さんお間でなにかやらかしたのだと思われる。
そして、浪士組が京都に着くと、清川八郎の嘘が発覚。
浪士組は江戸に帰ることになるが、殿内君は京都に残る。
芹沢さんとか近藤さんとか京都に残る人の取りまとめを任されたようだ。
ちなみに、京都に残った人の名簿に名前が残っていないようだが、責任者という立場だったためだと思われる。
そして、会津藩お預かりとなり、壬生浪士組が結成。
壬生浪士組の筆頭局長は芹沢鴨で局長が近藤勇、新見錦だったようだ。
本来、責任者の殿内君が組の一番上に立つのものと思われるのだが、殿内君の名前がなぜか無いのである。
それどころか、殿内君は壬生浪士組内での立場はほぼ一番下だったと思われる。
壬生浪士組では芹沢派と近藤派の派閥争いが繰り広げられていようで、殿内君はどちらの派閥にも所属していなかったため、派閥争いに乗り遅れて、立場を失ったと思われている。
ただ、自分は浪士組では芹沢さんと小競り合いを起こしたと思われ、その後平隊士に降格しているワケで、本当は芹沢さんにビビりまくって影が薄くなったんじゃないかと思う。
勝手な想像だが・・・。
そんなこんなで、殿内君も「ボクだって、もう少し意見を言ったっていいじゃないか」みたいなことを言って隊内での立場を回復しようとしたようだ。
しかし、それもにんともかんともいかなかったようだ。
それどころか、芹沢派、近藤派の人たちには「あいつ、生意気だ!」と言われる始末。
どちらの派閥にも所属していなかった根岸友山まで芹沢さんや近藤さんに同調したようで、殿内君は完全に孤立してしまったようだ。
それどころか「あいつ生意気だから殺してしまえ!」と命まで狙われてしまう。
しかしまあ、生意気だから殺すなんて穏やかじゃない。
完全にどうかしている。
そんなこんなで、殿内君は「こんなとこもう嫌・・・」と京都から離れようと考える。
そんなある日、壬生浪士組と会津藩士の本多四郎が懇親の場を設けたようだ。
その日の夜、殿内君は京都から去ろうとしたようだが、誰かに暗殺されてしまったようだ。
「後ろから斬られた」とか、「2人組にきられた」とかいろいろ言われているようだが、殿内君が刀を抜いた様子が無いためにおそらく仲間内での暗殺であろうと思われている。
あと近藤勇が多摩に送った手紙に「仕事やらなんやらに失敗した人は、すぐに天誅します。それから、すでに殿内君とか打ち果たしました」なんて書いてあるから、近藤たちが暗殺犯だとも言われている。
なんかやらかしただけで殺してしまうとか、酷い話である。
完全にどうかしている。
しかも、殿内君がなにをやらかしたかはハッキリしていない。
おそらく生意気だったのだろう。
殿内君が仲間に嫌われていただけのようだ。
嫌われて殺されるなんて、どうかしてるどころではない。
そもそも、殺すぐらい嫌いになるって、殿内君は一体全体どんなことしたのだろうか?
これが、壬生浪士組の初めての粛清のようだ。
新選組が現代で人斬り集団と言われても、この事件をみれば仕方ないのかもしれないと勝手に思うのである。
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