フーコーのビオ・ポリティック

Michel Foucault)(1926.10.15~1984.6.25)

フーコー

2010-07-17 21:24:05 | 日記
194 一九七六年一月十四日の講義 石田英敬・石田久仁子訳
 フォンタナ(A・)とパスキーノ(P・)編『権力のミクロ身体学―政治論集』、トリノ、エイナウディ書店、一九七七年、179-194ページ。

「じっさい、主権と規律、主権法と規律力学は私たちの社会において権力の一般的メカニズムを決定的に構成している二つの部品なのです。本当のことを言えば、諸々の規律だとか、というよりむしろ規律権力と戦うために、非規律的な権力を探求するとすれば、私たちが進むべき方向は、旧い主権法の方へ向かうべきではありません。そうではなくて、新しい司法、反規律的だが同時に主権原理から解放された新しい司法の方向へ向かうべきなのです。」(本文より)

195 権力の眼 伊藤晃訳
 (J-P・バルーおよびM・ペロとの対話)、J・ベンサム『一望監視装置』、パリ、ベルフォン、一九七七年、9-31ページ。

「「《諸》空間の歴史」―これはつまり「《諸》権力の歴史」と同じことになるでしょうが―をたっぷり書く必要があるでしょう。地政学の大きな戦術、経済的政治的な設置をへて住居、学校建築、教室、病院施設の戦略に至るまで。空間の問題が、歴史的政治的な問題として見られるようになるまでにどれほど時を要したか、驚くべきものです。」「ベンサムはルソーの相補者だと私はいいたいですね。実際、多くの革命家たちを鼓舞したルソーの夢とはいかなるものでしょうか。そのどの部分をとっても見てとれ、かつ読みとれるような透明な社会の夢です。暗い地帯はもはや存在しなくなること、王権の諸特権によって、あるいはしかじかの団体のもつ特典によって、あるいはまた無秩序によって配備された地帯が、もはや存在しなくなることなのです。おのおのの人間が、自分の占めている点から社会の全体を見ることができるようになることです。」(本文より)

196 社会医学の誕生 小倉孝誠訳
 「中央アメリカ保健科学評論」誌、第六号、一九七七年一-四月、89-108ページ(一九七四年十月、リオ・デ・ジャネイロ国立大学で社会医学講義の一環として行われた二回目の講演)。

「一回目の講演で私は、根本的な問題は医学と反医学の対立のうちにあるのではなく、一八世紀以来の医療制度の発展と、西洋の医学や保健衛生の「テイク・オフ」のために採用されてきたモデルの発展のうちにあることを証明しようとしました。その際、私には重要と思われる三点を強調しました。」といってその3点を再び挙げ(1回目の講演とは本書所収「医学の危機あるいは反医学の危機?」(No.170)のこと)、そのあと「医療化の歴史」「国家医学」「都市医学」「労働力の医学」という章立てで話が進む。

197 身体をつらぬく権力 山田登世子訳
 (リュセット・フィナスとの対話)、「キャンゼーヌ・リテレール」誌、二四七号、一九七七年一月一日―十五日号、4-6ページ。

「社会体のそれぞれの場所、男と女のあいだ、家族のなか、教師と生徒のあいだ、知るものと知らざるもののあいだ、それぞれの場に権力の関係がつらぬいておりますが、そうした権力の関係は、ただたんに大いなる支配権力が諸個人のうえに純粋に投射されたものではありません。むしろそうした権力の関係は、支配権力がそこに根を下ろしにくる、可動的で具体的な土壌なのであり、支配権力が機能しうるための可能性の条件なのです。」(本文より)

198 汚辱に塗れた人々の生 丹生谷貴志訳
 「カイエ・デュ・シュマン」二十九号所収。一九七七年一月十五日、12-29ページ。

「この「無名性」の問題は、六〇年代のフーコーにとって喫緊の重要性を持っていたブランショ=マラルメ的な「非人称性」の主題を受け継ぎつつ、それとは少なからず異なった色彩を帯びて七〇年代に急速に浮上してきたもので、あの晩年の「危機」とも深く関わり合っていたと思しい。それを端的に語りきっている決定的な文章は、七七年一月、『カイエ・デュ・シュマン』誌に発表された「汚辱に塗れた人々の生」(no.198)だろう。これは、一般施療院からバスティーユ監獄に至る、閉じ込めの古文書記録のアンソロジーの序文として書かれたものだが、そこには「もっとも卑小な生が権力と交わした短く金切り声のように鋭い言葉たち」をそのなまなましい軋りとともに聞き届けたいという、ほとんど生理的と言ってもいいような欲求が表明されている。ドゥルーズはこの小さなテクストを、「紛れもない傑作」「フーコーの作品中、もっとも荒々しく、同時にもっとも愉しい文章の一つ」と呼んだ。」(「編者解説」より)

199 社会の敵ナンバー・ワンのポスター 國分功一郎訳
 「ル・マタン」紙、六号、一九七七年三月七日、11ページ(J・メスリーヌ著『死の欲動』、パリ、ジャン=クロード・ラッテ社、一九七七年、について)。

 一九七七年三月二日、ジャン=クロード・ラッテ社が立入捜索を受けた。その目的は、ジャック・メスリーヌの執筆した『死の欲動』の原稿が、ラ・サンテ刑務所から持ち出されるに至った経緯を調査することだった。

「メスリーヌは実在するらしい。『死の欲動』が私にそう思わせたのではない。この文章のために、彼の命が危険に晒されるとでもいうのだろうか?そんなことを耳にするが、私はそうならないことを願っている。いずれにせよ、彼は既に自分の顔をかき消してしまった。」(本文より)

200 性の王権に抗して 慎改康之訳
 (B.H・レヴィとの対談)、「ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」誌、第六四四号、一九七七年三月十二―二十一日、92-130ページ。

「そうではなくて、この時代において重要だったのは、子供と、大人や両親や教師とのあいだの諸関係を、再び組織しなおすことであり、家族の内部の関係を強化することでした。子供こそが、両親、教育制度、公衆衛生機関にとっての共通の争点となり、未来の国民を養成する苗代となったのでした。身体と心、健康と道徳、教育と訓育、そうしたものが交叉する地点において、子供の性は、権力の標的にされると同時にその道具ともなりました。特殊で、不安定で、危険で、常に監視しなければならないものとして、子供の性現象が構成されたのです。」(本文より)

201 寛容の灰色の曙 森田祐三訳
 「ル・モンド」紙、九九九八号、一九七七年五月二十三日、24ページ、(一九六三年製作、一九六五年イタリア公開、ピエル・パオロ・パゾリーニの「愛の集会」について)

「そぞろ歩いたり、日なたぼっこをしている集団に、パゾリーニはたまたま通りかかったかのようにマイクを差し出し、誰にともなく、セックスや夫婦、快楽や家族、婚約とその習慣、売春とその料金といった諸々のことが交錯する、未決定の領域である「愛」について質問をする。」(本文より)

202 境界なき精神病院 原和之訳
 「ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」誌、六四六号、一九七七年三月二十八日―四月三日、66-67ページ(R・カステル、『精神医学的秩序』、パリ、ミニュイ社、一九七七年、について)。

「カステルの著作は二巻からなる。第一巻では、十九世紀における大精神医学の誕生が取り上げられる。栄光に包まれ、征服者然として登場したこの科学は、精神異常者の身分規定を明確にし、医師の(厳密な意味における)「常ならぬ」諸々の権力をはっきりと示している精神病院の城壁を高々と築き上げた。第二巻では、あるか以前から計画されながら、この数年でやっと現実的な問題となった地区化(セクトリザシオン)の政治学が取り上げられる。そこでは一世紀を経て、精神病院への監禁を解き、精神異常者を他から切り離す諸分割線を消し去って、一八三八年の古い法律により成立した医学・行政的複合体を解体することが問題となるだろう。/要するに、精神病院の誕生と死である。/しかしカステルの仕事はそれ以上のものである。」
「この点を間違ってはいけない。十八世紀に夢見られていたような普遍的かつ平等な法が、不平等な搾取社会の道具として役立ったというのは本当だが、われわれはむしろ、法が個人に対する拘束的で規制的な介入を権威づける役割をもつようになる、超法律的な社会へと急速に向かっているのだ。精神医学は、(カステルの本が完璧な厳密さで示しているとおり)この変容の、大きな要因の一つとなってきたのである。」(本文より)

203 プレゼンテーション
 西宮かおり訳 パリ、バスティダ=ナヴァゾ画廊、一九七七年四月。
 マクシム・ドフェール展の紹介

「マクシム・ドフェールは、それとは別な方法をとる-わたしが絵具を置くこの表面、あたかもそれが存在していないかのように振舞うことにしよう。マネ以来、多くの画家たちが拘泥してきたこの〈キャンヴァスという事実〉を、この上なく淡々と扱おう。」(本文より)

204 事実の大いなる怒り 西永良成訳
 「ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」誌、六五二号、一九七七年五月九―一五日(A・グリュックスマン『思想の首領たち』(グラッセ社、一九七七年、パリ)について)。

「『思想の首領たち』の鮮やかさ、美しさ、激昂、曇り、そして笑いなどは、そこでは気質ではなく、不可避の結果である。グリュックスマンは素手で闘おうとする。ある思想を別の思想によって反駁するのではない。ある思想を自己撞着に陥らせるのではない。事実によってある思想に反論するのでさえない。思想を模倣する現実に思想を直面させ、思想が排斥し、赦し、正当化するあの知のなかに思想の首を突っ込ませるのだ。」(本文より)

205 裁くことの不安 西宮かおり訳
 (ロベール・バダンテール、ジャン・ラプランシュとの鼎談)、「ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」誌、六五五号、一九七七年五月三十日―六月六日号、92-96、101、104、112、120、125、126ページ。
 パトリック・アンリは、身代金目的で男児を誘拐したが、その後、精神に恐慌を来たし、同児の首を絞めて殺害した。犯人がごく普通の青年であったこと、彼の自白、そして、自らを極刑に処すように求める彼の訴えは、世論を騒がせた。トロワでの彼の訴訟は、死刑制度支持派と反対派との対立を煽り、国民的な関心事となった。P・アンリの弁護士R・バダンテールの口頭弁論が功を奏し、被告は断頭台から救い出された。フランスで死刑が廃止されたのは一九八一年、時の法務大臣はバダンテールであった。

「実際、精神科医は犯人の心理を話題にはしません。裁判官の自由に、精神科医は訴えかけるのです。犯罪者の無意識ではなく、裁判官の意識〔=良心〕こそが問題なのです。われわれがここ数年にわたって集めてきたいくつかの精神鑑定を公表すれば、精神医学の鑑定報告が、どういった点で同語反復を成しているか判るでしょう。「彼はか弱い老女を殺害したのか。ああ、それは攻撃的な人物だ。」そんなことを気付くために、精神科医を必要とされていたのでしょうか。いいえ。そうではなく、裁判官は、自分が安心するために、精神科医を必要としていたのです。」(本文より)

206 ミシェル・フーコーのゲーム 増田一夫訳
 (ドミニック・コラス、アラン・グロリシャール、ギィ・ル・ゴフェ、ジョスリーヌ・リヴィ、ジェラール・ミレール、ジュディット・ミレール、ジャック=アラン・ミレール、カトリーヌ・ミヨ、ジェラール・ヴァジュマンとの座談会)、「オルニカール? シャン・フロイディアン機関誌」、第十号、一九七七年七月、62-93ページ。
 『知への意志』刊行後まもなく、ミシェル・フーコーを招待して夕べをともに過ごした。そこで展開された丁々発止の議論から、一部をここに収録する(A・G)。

「J-A・ミレール-前の本は犯罪を扱っていました。性現象は、見たところ、異なったタイプの対象です。あるいは同じだと証明する方が面白いならば別ですが。どちらの方にしますか。
M・フーコー-同じものにならないかどうかやってみよう、と言っておきます。それはゲームの賭金なのです。そして巻が六つあるのは、それがゲームだということなのですよ!この本は、標題が何になるのかを知らずに書いた唯一の本です。」
「アメリカの同性愛運動もまたその挑戦(脱性化〔desexualisation〕)から出発しました。女たちのように、彼らは共同体の、共存の、快楽の、新たな形態をもとめた。しかし女たちとは違って、同性愛者たちの、性的特殊性に対する固着は、はるかに強くて、彼はすべてを性に引き戻してしまう。女たちは違うのです。」
「公私すべての役職を辞任します!何と恥ずかしいことだ!悔悟の灰を頭からかぶりたい!哺乳びんの誕生を知らなかったなんて!」(本文より)

207 文化動員 國分功一郎訳
 「ヌーヴェル・オプセルバトゥール」誌、六七〇号、一九七七年九月十二-十八日号、49ページ。
 「共同綱領」の再活性化を目的とした左派連合のサミットを目前にひかえた一九七七年九月はじめ、「ヌーヴェル・オプセルバトゥール」誌と「フェール」誌(両誌共、自主管理社会主義の立場を取る)がシンポジウムを企画した。(中略)フーコーは、地域医療に関する討論にのみ参加するという「専門知識人」の役に留まった。彼は絶えず、自主管理という戦略に対する懐疑、「共同綱領」のレーニン主義的国有化と、国家と市民社会の対立という戦略上の射程の狭さとに対する嫌悪を表明していた。(…)

「革新というものは、もはや、党、労組、官僚組織、政策といったものを介して起こるのではないのです。革新は個人的な、精神的な不安に属しているのです。もうだれも、何をすべきかを政治理論に訊ねたりしません。もうだれも後盾を必要としていません。この変化はイデオロギー的なものであり、根本的なものです。」(本文より)

208 真理の拷問 原和之訳
 「巡回路」誌、第一号「拷問」、一九七七年第四期、162-163ページ
(「巡回路」誌の同号一五八-一六一ページに掲載された、F・ルーレの著作、『狂気の道徳的治療』、パリ、バイエール、一八四〇年の第二二考察、同四二九-四五三ページについて)。

「狂人自身によってなされる、自分は事実狂っていたが、いまやそうではなくなろうと固く決意している、という宣言によって、この真理は承認=再認されるのである。/しかしおわかりのとおり、これはわれわれの社会において、拷問の慣行と真理に達する方法の間に織りなされてきた関係の長い歴史の中でも、ほんの短い挿話に過ぎないのである。」(本文より)

209 監禁、精神医学、監獄 阿部崇訳
 (D・クーパー、J.P・ファイユ、M.O・ファイユ、M・ゼッカとの対話)、「シャンジュ」誌、第二十二-二十三号・特集「囲い込まれる狂気」、一九七七年十月、76-110ページ。
 この対話は、レニングラードの特殊精神病院に収容されたウラジミール・ボリソフの解放のため、ヴィクロール・ファインバーグによって行われたキャンペーンののちに行われた。このキャンペーンは「シャンジュ」誌をはじめ、デヴィッド・クーパーやミシェル・フーコーを含む数多くの知識人、さまざまな団体が支援した。

「結局のところ、この時導入され、十九世紀の精神医学や犯罪学において理論化されたもの-そして、ソヴィエトの法律においていま再び見出されるもの-、それが「危険」という概念です。ソヴィエトの法はこう言うことでしょう-あなたがたは、われわれが病人を監獄に(あるいは、囚人を病院に)入れていると仰有るのですか?とんでもない!当方は「危険」だった人物を監禁しているだけですよ、とね。彼らは、〈危険だと感受される〉という事実を、犯罪としてコード化しおおせているのですよ……。」
「知識人たちが、百五十年にわたって果たしてきた役割を-「そうあるべきこと」「起こるべきことがら」についての予言者の役割を-もし再び演じようとすれば、それはあの〈支配〉という効果を継続することになり、また全く同じように機能する新しい種類のイデオロギーを生み出すことになるでしょう。/何らかのポジティヴな条件がはっきりと描き出されるのは、ただ闘争それ自体においてであり、また闘争を通じてなのです。」
「とはいえ、次のような理論的言説によって答えることは可能でしょう-いずれにしても、性(セクシュアリテ)はいかなる場合にも処罰の対象とはなり得ない。そして強姦が罰せられる場合は、ただその身体的暴力のみが罰せられるべきだ、と。そしてそれはひとつの身体的な襲撃でしかなく、それ以上のものではない、だから誰かの口に拳骨を突っ込むのと、性器の中にペニスを突っ込むのとではなんの違いもないのだ、と……。しかしあらかじめお断りしておきますが、女性がこのことに同意なさるかどうか、私には分かりません。」(本文より)