フーコーのビオ・ポリティック

Michel Foucault)(1926.10.15~1984.6.25)

フーコーのポリティック

2010-07-17 21:21:36 | 日記
178 ミシェル・フーコーの「ヘロドトス」誌への質問 國分功一郎訳
 「ヘロドトス」誌、三号、一九七六年七-九月号、9-10ページ。

知と戦争や権力、医療についてのいくつかの質問を4つにまとめている。

「これは、私が手にし得る知の側からあなたがたに向かって提起する質問なのではありません。これは、私が自らに対して提起し、そしてあなたがたに投げかける問いかけです。というのも、私は、あなたがたは恐らく私よりもこの道に通じていると考えているからです。」(本文より)

179 〈生物-歴史学(ビオ・イストワール)〉と〈生物-政治学(ビオ・ポリティック)〉 石田英敬訳
 「ル・モンド」紙、九八六九号、一九七六年十月十七日―十八日号、第五面(J・リュフィエ『生物学から文化へ』、パリ、フラマリヨン書店、「新科学」叢書、No.82、一九七六年刊の書評)。

「先史学と古生物学とをつきあわせてクロスチェックし研究することで、ひとは人類において「人種」などあったためしはないということを証し立てることが出来るのである。(中略)諸々の人口群、すなわち諸々の変異の集合が、人類においては、形成されたり、解消されたりしていると考えるべきなのである。そうした集合を描いては消し去っていくのは歴史であって、「自然」の奥底から歴史を有無をいわせず決定しているような生の決定的な生物学的事実をそうした集合に見てはならないのである。」(本文より)

180 ミシェル・フーコーとの対話 鈴木雅雄訳
 (P・カネとの対話)、「カイエ・デュ・シネマ」誌、二七一号、一九七六年十一月、52-53ページ(P・カネがR・アリオの映画『私ことピエール・リヴィエールは、母と妹、弟を殺害しましたが……』に関して製作した短編映画の中での対話を書き取ったもの)。

「ご存じの通り、農民に関する文学というのは沢山あります。しかし農民の文学、農民の表現というのは多くはありません。ところがここにあるのは、一八三五年に一人の農民によって書かれた、農民自身の言語によって書かれたテクストです。これはつい今しがた読み書きを覚えた一人の農民の言語なのです。そして今、現在の農民たちに、自分自身で、自分自身の方法で、結局はごく近い世代のものであるドラマを演ずる可能性が与えられました。(中略)そして農民たちに農民のテクストを演ずる可能性を与えるということは、政治的な意味でも重要だと言ってかまわないでしょう。」(本文より)

181 西欧と性の真理 慎改康之訳
 「ル・モンド」紙、九八八五号、一九七六年十一月五日、24ページ。

「性現象の歴史を、権力=制圧、権力=検閲という考えにもとづいてではなく、権力=煽動、権力=知という考えにもとづいて書かなければならないだろう。抑制するものとしてではなく、性現象という複雑な領域を構成するものとして、強制、快楽、言説などの体制を見極めるよう試みなければなるまい。/「性の科学」についての断片的な歴史研究が、権力の分析論の素描としても価値を持ちうること。これが私の願いである。」(本文より)

182 なぜピエール・リヴィエールの犯罪なのか 鈴木雅雄訳
 (F・シャトレとの対話)、「パリスポッシュ」誌、一九七六年十一月十日―十六日、5-7ページ(一九七六年のR・アリオの映画『私ことピエール・リヴィエールは、母と妹、弟を殺害しましたが……』について)。

「彼は不可視の存在になったかのようですね。彼はその殺人とその物語を携えてやってくるのに、誰にも彼が見えないのです。さらにこの人物の不可視性という点で奇妙なのは、彼は町の人間には見えなくなったのに、逆に農村の人々は彼をちゃんと見分けるのだけれど、その罪を見ないということです。「行っちまいな。憲兵たちが追っかけてくるよ。」彼らはそんなふうに言ってやるのです。」(本文より)

183 彼らはマルローについて語った 丹生谷貴志訳
 「ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトワール」誌六二九号、十一月二十九日―十二月五日号、83ページ(アンドレ・マルローの死去に際して一九七六年十一月二十三日に行われた電話インタヴュー)。

「たぶん、彼らの人生が如何なるものだったのかを理解するには、私たちはあまりに注釈につき合わされすぎている。」(本文より)

184 知識人の政治的機能 石岡良治訳
 「ポリティック・エブド」誌、一九七六年十一月二十九日―十二月五日、31-33ページ。
 イタリアで一九七七年に発表されることになる「ミシェル・フーコーとの対話」からの抜粋編集。〔No.192参照〕

「私には、特定的知識人の機能が練り上げ直されるべき時点に我々がいるように思われる。ある人々の偉大な「普遍的」知識人へのノスタルジーにも関わらず(「我々は哲学を、世界観を必要としている」と彼らは言う)、この機能は放棄されるべきではない。」(本文より)

185 ピエール・リヴィエールの帰還 鈴木雅雄訳
 (G・ゴーチエとの対話)、「ラ・ルヴァ・デュ・シネマ」誌、三一二号、一九七六年十二月、37-42ページ(一九七六年のR・アリオの映画『私ことピエール・リヴィエールは、母と妹、弟を殺害しましたが……』について)。

「もしかしたらこれを読むのは私ではなかったかもしれません。他の誰かだったかもしれない。こうした話題には、興味が集まりはじめていますからね。でもおわかりでしょうが、やっぱり一連の驚くべき偶然があったわけです。その土地の医師の一人でヴァステルという名の男が、もしパリの著名な精神科医たちとのあいだに師弟関係を持っていなかったら、この話がこれほどの反響を呼ぶことがなかったのは間違いないでしょう。こういったちょっとした何かがつながっていかなければならなかったのです。だから全体としては理解できるとしても、ピエール・リヴィエールやその母親、父親から私たちのところまでつながっている事実の流れは、相当の数の偶然から成り立っているわけで、それこそがリヴィエールの帰還に大きな強度を与えているのです。」(本文より)

186 ディスクールとはそんなものではなくて… 鈴木雅雄訳
 『自分の飼い主の声』、一九七六年、9-10ページ(R・アリオの『私ことピエール・リヴィエールは……』への協力者であるG・モルディヤとN・フィリベールの映画企画、『自分の飼い主の声』に関するタイプ原稿)。

「『自分の飼い主の声』はこんなことを思い起こさせる。すなわちディスクールとは、人が言っていることの総体や、それを言う言い方であると考えるべきではない。そんなものではなくて、それは人が言わないこと、仕種や態度、生活様態、行動方式や空間の使い方などから読み取れるものの中にも、ひとしく存在する。ディスクールとは、社会関係の中で作動している、強制された、かつ強制する意味作用の総体である。」(本文より)

187 社会は防衛しなければならない 石田英敬訳
 『コレージュ・ド・フランス年報』、第七六年度、「思考システムの歴史」講座、一九七五―一九七六学年度、361-366ページ。

「-だが、まず問われるべきなのは次のような問いである。すなわち、どのように、いったいいつから、ひとびとは、権力諸関係において機能しているのは戦争であり、中断することのない闘争が平和を動かしており、市民秩序とは基本的に戦闘秩序である、と思うようになったのか。/この最後の問いこそ、今年の講義で問われた問いである。ひとびとはいったい、いかにして、平和の透かし模様をとおして戦争を知覚するようになったのか。誰が、戦争の喧噪と混乱の中、戦闘の泥沼の中に、秩序や諸制度や歴史を理解する原理を求めたのか。だれが最初に、政治とは他の方法によって継続された戦争のことだ、と考えたのか。」
「今年度の演習は、犯罪精神医学における「危険な個人」のカテゴリーの研究にあてられた。「社会防衛」のテーマに結びついた諸概念と、十九世紀末に登場した市民的責任の新理論に結びついた諸概念との比較研究を行った。」(本文より)

1977
188 『我が秘密の生涯』への序文 慎改康之訳
 パリ、レ・フォルム・デュ・スクレ社、一九七七年、1-3ページ。

「しかし『我が秘密の生涯』の作者が語るのは、彼の生涯のうち性に捧げられた部分についてばかりである-そして、実際に彼の生涯は、完全に性に捧げられたものであった。生イコール性。 J.P・ブリッセでもしないような言葉遊びを許していただけるとするなら、それはひとつのセグジスタンスsexistenceであったと言える。しかし同時に、この書物が性を語るのにふさわしいものであると言えるのは、そこでは性が、それについて書くという快楽のなかでそれを多様化しその強度を増すためにのみ、むさぼるように探求されているからである。」(本文より)

189 ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』への序文 松浦寿輝訳
 (F・デュラン=ボガエルによる翻訳)、ドゥルーズ(G・)及びガタリ(F・)著『アンチ・オイディプス-資本主義と分裂症』、ニューヨーク、ヴァイキング・プレス、一九七七年、・・―・・ページ。

「こう言おう、『アンチ・オイディプス』とは(その著者たちがどうか私を赦してくれんことを)倫理の書だ、ずいぶん長い時を経てフランスで書かれた初めての倫理の書だ(恐らく、そうだからこそ、この本の成功は特定の読者層に限定されることがなかったのだ。つまり、反=オイディプスであることが生のスタイルになったのだ、思考と生の一様態になったのだ)と。自分を革命の闘士と信じているときでさえ(むしろ、とりわけそのときに)ファシストにならないためには、いかにしたらよいのか。(中略)ドゥルーズとガタリはと言えば、身体の中に残るファシズムのもっとも微細な痕跡にさえ監視の眼を向ける。」
「『アンチ・オイディプス』の罠とは、ユーモアの罠である。ドアをばたんと閉め、テクストときっぱり縁を切りたまえ、きれいさっぱりおさらばしたまえと招く声がいたるところに響いている。」(本文より)

190 性現象と真理 慎改康之訳
 M・フーコー、『知への意志』独訳、フランクフルト、ズアカンプ社、一九七七年、7-8ページ。『知への意志』への新しい序論。

「(4)「性」そして「性現象」という概念は、大きな強度と過剰な意味とを担い、「うかつに手を出せぬ」概念であり、そのため、隣接する諸概念はおろそかにされがちである。だからこそ私は、性現象が、今や十五年以上にわたって私が追い求め、十五年以上にわたって私につきまとってきた、より一般的な問題の一例に過ぎないのだということを強調したい。西欧社会において少なくともある特定の時期に真理の価値を負わされた言説の生産が、どのようにして、権力の様々なメカニズムや制度と結びついているのか。この問題こそ、私のほとんどすべての著作が扱ってきたものなのだ。」(本文より)

191 『カーキ色の判事たち』への序文 久保田淳訳
 M・ドゥバール、J-L・エニック著『カーキ色の判事たち』、パリ、A・モロー、一九七七年、7-10ページ。
 『カーキ色の判事たち』は八つの常設軍事裁判所(TPFA)の一九七五年から七七年にかけての法廷の記録である。平時にも機能していた軍法会議を廃止することは、一九七二年以来政治的な問題になっていた。(…)

「国家の静謐な力は、周知のように、その暴力を包み隠す。その法は違法行為を、その規則は身勝手な振る舞いを包み隠すのである。ごった返すほどの濫用や越権や不正は、不可避的な逸脱ではなく、「法治国家」の本質的で恒常的な生命を形成している。(中略)これらの遊びの要素は、そこに含まれるすべての不確実性、偶然、脅威、罠とともに、恐怖〔terreur〕などではなく、ある平均的で日常的な水準の不安〔crainte〕を組織する-これは諸個人によって体験される法治国家の裏面であり、「恐れ〔peur〕の国家」と呼ぶことができるだろう。」(本文より)

192 真理の権力 北山晴一訳
 「ミシェル・フーコーとの対話」(聞き手―A・フォンタナ、P・パスキーノ、一九七六年六月、仏訳者C・ラゼーリ)、A・フォンタナ、P・パスキーノ編『権力のミクロ力学―政治への参加』(トリノ、エーノディ社、一九七七年、3-28ページ)所収。

「であるからこそ、象徴の領域だとか意味する構造の領域だとかに依拠するような分析は拒否しなければならないのであり、逆に力関係、戦略的展開、戦術といったものを系譜学的な方法で分析していく必要が出てくるわけなのです。その際準拠すべき主要なモデルをあえてあげるとすれば、それは、言語(ランガージュ)と記号を扱うモデルではなく、戦争と戦闘に関わるモデルではないかと思います。われわれの力を圧倒し、われわれを規定する歴史性、それは、きわめて好戦的なものです。」
「単純ないい方をすれば、精神病院への強制入院、個人の精神矯正、刑事制度などは、たんにその経済的意味だけを追究するのなら、おそらくごく限られた重要性しかもち得ないものでしょう。ところが、いわゆる権力機構の機能のしくみという点からみれば、以上のような事柄は、逆に、きわめて本質的な意味をもってくるわけなのです。」
「「権力は、ひとつの戦争タイプの支配形式にすぎないのではないか」、と。もしそうであるならば、権力の問題はすべて、力関係の問題として設定すべきものではないのか。権力とは、全面戦争の一種なのであり、それがたまたま歴史のある時期に平和とか国家とかいう形態を帯びるにすぎないのではないか。平和とは、戦争の一形態にすぎず、国家とはそれを遂行するにあたっての様式にすぎないのではないか……。」
「真理をいっさいの権力システムから解放せよといっているのではありません-真理はそれ自体が権力なのですから、それは幻想です。真理がいまのところその内部で機能せざるをえないでいるさまざまなヘゲモニー形態(社会的・経済的・文化的)から、真理の権力をひき離すことが課題なのです。」(本文より)


193 一九七六年一月七日の講義 石田英敬訳
 フォンタナ(A・)とパスキーノ(P・)編『権力のミクロ身体学―政治論集』、トリノ、エイナウディ書店、一九七七年、163-177ページ。

「したがって、今年の講義の見取り図は次のようなものです。まず抑圧の概念の再検討を一回か二回の授業でおこないます。それから、この市民社会の中の戦争の問題を始めます-場合によっては、来年以後にもそれを続けてやるかもしれませんが、まったく未定です。(中略)その後で、戦争を権力の作用の歴史的な原理とみなすこの戦争の理論を、人種の問題をめぐって再検討したいと思います。というのも、西洋において最初に、政治権力を戦争として分析する可能性がみとめられたのが人種の二項対立においてだったからです。そして、私はそれが、人種の闘争および階級の闘争が、十九世紀末に、政治社会の内部における、戦争の現象と諸々の力関係を見て取る二大図式になるまでを辿ってみることにします。」(本文より)