フーコーのビオ・ポリティック

Michel Foucault)(1926.10.15~1984.6.25)

『ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』

2010-07-17 21:18:14 | 日記
『ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』

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Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes
=20001125 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』,筑摩書房,375p. 5500

作成者:橋口昌治(立命館大学先端総合学術研究科1回生)


もくじ
1976
166 容認しえない死 久保田淳訳
167 政治の面相 阿部崇訳
168 一八世紀における健康政策 中島ひかる訳
169 地理学に関するミシェル・フーコーへの質問 國分功一郎訳
170 医学の危機あるいは反医学の危機? 小倉孝誠訳
171 「ポールの物語」について 森田祐三訳
172 ソ連およびその他の地域における罪と罰 國分功一郎訳
173 規範の社会的拡大 原和之訳
174 犯罪としての知識 M.フーコー+寺山修司
175 ミシェル・フーコー、違法性と処罰術 石岡良治訳
176 魔術と狂気 原和之訳
177 視点 久保田淳訳
178 ミシェル・フーコーの「ヘロドトス」誌への質問 國分功一郎訳
179 〈生物-歴史学(ビオ・イストワール)〉と〈生物-政治学(ビオ・ポリティック)〉 石田英敬訳
180 ミシェル・フーコーとの対話 鈴木雅雄訳
181 西欧と性の真理 慎改康之訳
182 なぜピエール・リヴィエールの犯罪なのか 鈴木雅雄訳
183 彼らはマルローについて語った 丹生谷貴志訳
184 知識人の政治的機能 石岡良治訳
185 ピエール・リヴィエールの帰還 鈴木雅雄訳
186 ディスクールとはそんなものではなくて… 鈴木雅雄訳
187 社会は防衛しなければならない 石田英敬訳
1977
188 『我が秘密の生涯』への序文 慎改康之訳
189 ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』への序文 松浦寿輝訳
190 性現象と真理 慎改康之訳
191 『カーキ色の判事たち』への序文 久保田淳訳
192 真理の権力 北山晴一訳
193 一九七六年一月七日の講義 石田英敬訳
194 一九七六年一月十四日の講義 石田英敬・石田久仁子訳
195 権力の眼 伊藤晃訳
196 社会医学の誕生 小倉孝誠訳
197 身体をつらぬく権力 山田登世子訳
198 汚辱に塗れた人々の生 丹生谷貴志訳
199 社会の敵ナンバー・ワンのポスター 國分功一郎訳
200 生の王権に抗して 慎改康之訳
201 寛容の灰色の曙 森田祐三訳
202 境界なき精神病院 原和之訳
203 プレゼンテーション 西宮かおり訳
204 事実の大いなる怒り 西永良成訳
205 裁くことの不安 西宮かおり訳
206 ミシェル・フーコーのゲーム 増田一夫訳
207 文化動員 國分功一郎訳
208 真理の拷問 原和之訳
209 監禁、精神医学、監獄 阿部崇訳
210 クラウス・クロワッサンは送還されるのだろうか 石田靖夫訳
211 今後は法律よりも治安が優先する 石田靖夫訳
212 権力、一匹のすばらしい野獣 石田靖夫訳
213 治安と国家 石田靖夫訳
214 左翼の若干のリーダー達への手紙 國分功一郎訳
215 拷問、それは理性なのです 久保田淳訳
216 権力と知 蓮實重彦訳
217 私たちは自分が汚れた種であるかのように感じた 久保田淳訳
218 権力と戦略 久保田淳訳
日本語版編者解説(松浦寿輝)

内容紹介

1976
166 容認しえない死 久保田淳訳
 B・キュオー『ミルヴァル事件、あるいはいかにして物語は犯罪を消し去るか』(パリ、プレス・ドージュールドュイ、一九七六年)への序文、・―・・ページ。
 一九七四年二月二十二日、アンティル出身の二十歳の頑強な若者、パトリック・ミルヴァルが、フルリ=メロジスの監獄で死亡した。自殺、行政機構はそう発表した。ミショー判事のもとで予審が開かれ、そこでは十人の法医学者が調査に当たった。その二年後、法務省はなお、不起訴処分にするか、看守にリンチ殺人の容疑があるかで迷い続けている。(…)

「司法機構はしばしば非難されてきたように、誤ったことを有効と認めたり、偽りや嘘を作り出したり、命令によってか自発的な共謀によってか黙り込んだりすることがある。しかしそれが、少しずつ、日にちの経過とともに、証拠資料をたどりながら、報告書や証言や手掛かりを通して、「認知しえないもの」を作り出していくやり方は、あまり知られていない。」(本文より)

167 政治の面相 阿部崇訳
 ヴィアズ『偉大なる夕べを待ちながら』、パリ、ドゥノエル社、一九七六年、7-12ページ。

「君主というものは貌を持たないものであった。街道を駆け抜け、御者に姿を変えて宿屋で夜食をとることが王にはできたのだ。何びとも彼の素性を見分けることはなかった、その手に握られた金貨をたまたま見たりするのでなければ。もし気付いてしまったなら、あとはその逃亡者を馬車へと連れ戻し、彼を王座へと引き戻すだけのはなしだ。」(本文より)

「〔1〕挿絵作家のヴィアズ(一九四九― )は、本名をピエール・ヴィアゼムスキーといい、一九七二年以来、「ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」誌に毎週時事の話題を風刺する挿絵を連載している。ここでフーコーが序文を寄せいている著作は、おそらくその連載を単行本化したものであろう。(…)」(注〔1〕より)

168 一八世紀における健康政策 中島ひかる訳
 『治療機械、およびに近代的病院の起源、関係書類と資料』、パリ、環境問題研究所、一九七六年、11-21ページ。

「はじめるにあたっての二つの指摘」「1 幼年期の特権化と家族への医療の普及」「2 衛生の特権化と社会の管理機関としての医学の働き」という構成。
「そして、ここ一八世紀になって新たな機能が現れた。社会を、身体の満足感やできるかぎりの健康、そして長寿にふさわしい環境として整備するということである。この最後の三つの機能(秩序、富の増大、健康)の執行は、単一の機構によってというより、多様な規則と制度の総体によって保証されるが、そうした総体は一八世紀には「公安」という包括的な名をもっていた。」

169 地理学に関するミシェル・フーコーへの質問 國分功一郎訳
 「ヘロドトス」誌、第一号、一九七六年一月―三月号、71-85ページ。
 「地理学は私が取り組んでいるもののまさしく中心に位置することになるはずです」―ミシェル・フーコー

「私は、国家権力の重要性と実効性を低く見積もる気は毛頭ありません。私はただ、国家の役割と、国家にのみに任されている役割とにあまり固執すると、国家装置を直接に介して機能するのではなく、多くの場合国家装置を上手く支え、これを継続させ、これにその最大の実効性を与えるところの権力のメカニズムとその効果の全てを見失う危険性があるのではないかと考えているのです。」
「先に進めば進むほど、私には、諸言説の編成と知の考古学は、意識とか知覚様式とかイデオロギーの形態などといったタイプのものからではなくて、権力の戦術と戦略とから分析されねばならないと思えてきました。戦術と戦略とは、つまり、一種の地政学を構成しうるであろう注入、分配、分割、領土管理、領域の組織化といった諸要素を通じて展開するものであり、そしてこのことによって、私の取り組みはあなた方の方法と合流することになるのです。今後、次のことを研究していきたいと思います。それは、組織と知の母体としての軍隊です。」(本文より)

170 医学の危機あるいは反医学の危機? 小倉孝誠訳
 「中央アメリカ保健科学評論」誌、第三号、一九七六年一-四月、197-209ページ(一九七四年十月、リオ・デ・ジャネイロ国立大学社会医学研究所、生体医学センターにおいて行われた医学誌に関する一回目の講演)。

「したがって私としては、イヴァン・イリイチと彼の弟子たちが選択したような観点、つまり医学か反医学か、医学を維持すべきか否かという観点から問題を提起しようとは思いません。問題は個人的な医学が必要なのか、それとも社会的な医学が必要なのかということではなくて、十八世紀以来、医学がどのようなタイプの発展をしてきたのか、つまり医学の「テイク・オフ」と呼べるようなものがいつ頃起こったのか問うことです。先進世界ではこの保健衛生上のテイク・オフと同時に、きわめて大規模におよぶ医学の技術的、認識論的な解放と、一連の社会的実践が生じました。そしてまさしくこういったテイク・オフの特殊な形態が、今日の危機につながったのです。問題は次のような言葉で提起されるでしょう。(1)この発展モデルはどのようなものであったか。(2)そのモデルをどの程度まで変更できるか。(3)ヨーロッパ社会やアメリカ社会のような経済的、政治的発展モデルを経験しなかった社会や国民の場合、この発展モデルはどの程度まで活用できるのか。要するに、この発展モデルとは何なのか。それは変更したり、他の場所で応用したりできるのか、ということです。」(本文より)

171 「ポールの物語」について 森田祐三訳
 (ルネ・フェレとの対話)「カイエ・デュ・シネマ」誌、二六二-二六三号、一九七六年一月、63-65ページ。

「あなたの映画を見たとき、思わず眼を瞬いてしまいました。眼を瞬いた、というのも、そこに見知った職業俳優が何人か出演していたからです。ところが、私が映画で見たものは、あたかも施療院というより、施療院そのものでした。」(本文より)

172 ソ連およびその他の地域における罪と罰 國分功一郎訳
 (K.S・キャロルとの対話)、「ヌーヴェル・オプセルバトゥール」誌、五八五号、一九七六年一月二十六日―二月一日号、34-37ページ。

「所有権の体制や生産管理における国家の役割に修正を加えてきているとはいえ、残りの部分に関しては、ソビエトは、単に、資本主義下の十九世紀のヨーロッパにおいて開発された管理や権力の技術を自分たちのところに移したに過ぎません。(中略)ソビエトは、テイラー主義や西側で試されたその他の管理技術を利用したのと同様、規律に関する我々の技術も採用し、更に我々が開発した兵器工場に、党の規律という新しい兵器を加えたのです。」(本文より)

173 規範の社会的拡大 原和之訳
 (P・ヴェルネールとのインタヴュー)、「週刊政治」誌、二一二号、「狂気を解放する」、一九七六年三月四―一〇日、14-16ページ。(サズ『狂気を作る』、M・マナン、J.P・コトロー訳、パリ、パイヨ、一九七六年、について)

「精神医学は十九世紀に出現した、社会医学の諸形態のうちの一つです。サズの書いた精神医学の歴史は、―これはまだその長所のひとつに過ぎませんが-規範化社会societe de normalisationにおける医学の社会的な機能を暴き出しました。(中略)しかし、医学がそれほどの力を持って機能することが可能になっているのは、宗教とは反対に、それが科学的制度の中に書き込まれているからです。医学の懲罰的な諸効果を指摘するだけですますわけには行きません。」(本文より)

174 犯罪としての知識 M.フーコー+寺山修司
 (寺山修司との対話)、「状況」誌、一九七六年四月、43-50ページ。

「少なくとも、いつまでも、観客にとどまる人間は歴史にはあり得ない。歴史の中にいる人間は、もし観客になってしまったら、歴史をとらえることが出来なくなってしまうからです。別の言い方をすれば、歴史を作る人間、つまり、歴史の中にいる人間のみが歴史を「観る」ことが出来るのです。」(本文より)

175 ミシェル・フーコー、違法性と処罰術 石岡良治訳
 (G・タラブとの対話)、「プレス」誌八十号、一九七六年四月三日、2ページと23ページ。

「実際、社会は処罰システムによって合法性と違法性のゲームを組織し、整備し、政治的経済的に有益なものにしようとしているのであって、社会はこの二重の鍵盤をとてもうまくプレイしているのです。まさにここに政治運動のターゲットが位置づけられるべきであるように私には思われます。」(本文より)

176 魔術と狂気 原和之訳
 (R・ジャカールとのインタビュー)、「ル・モンド」紙、九七二〇号、一九七六年二月二十三日、18ページ(サズ著、『狂気を作る』、パリ、パイヨ、一九七六年、について)。

「荷厄介な「マルクーゼもどき」や「ライヒ主義」を、どうあってもお払い箱にしなくてはなりませんね。これらはわれわれに、性(セクシュアリテ)とは「ブルジョワ的」「資本主義的」「偽善的」「ヴィクトリア朝的」社会がもっとも執拗に抑制し、抑制に抑制を重ねているものなのだ、と信じさせようとしているのですが、実際には中世以降、これほど研究され、問いかけられ、強いて聞き出され、明るみ引き出され、言説化され、告白を強いられ、表現を求められ、そしてそれがついに言葉を見つけた時には讃えられたものもありません。われわれの文明ほどおしゃべりな性を持つ文明はないのです。」(本文より)

177 視点 久保田淳訳
 「フォト」誌、二四-二五号、一九七六年夏秋、94ページ(一九七六年三月二十九日、モントリオール大学での講演から抜粋。この講演は、監獄に代わるものという主題で囚人週間の一環として行われた)。

「恐怖心に呼びかけることは、探偵小説、新聞、最近の映画において、絶えず行われています。それは非行者(デランカン)に対する恐怖です。一見賛美するようでいて実際には恐怖を呼び起こそうとする壮大な神話が、非行者の人物像や、大犯罪者のまわりに、築き上げられたのです。この恐るべき神話のすべては、民衆の中での警察の存在を、いくぶんか自然なものに変え、定着させてしまいました。」
「監獄とはしたがって、違法行為と戦うため刑法に与えられた道具などではありません。監獄、それは、違法行為の場を再整備し、違法行為の経済を再分配し、職業的違法行為のあるひとつの形式、つまり非行性を生み出すための道具だったのです。それは一方では、大衆の違法行為に圧力をかけ減少させることになりましたが、他方では、工業型の経済になってからは、その「道徳性」が絶対的に不可欠である労働者を前にして、権力階級の違法行為のための道具として役立つことになったのです。」(本文より)