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沖縄戦教科書検定の撤回を求める練馬の会

市民の声を文部科学省へ 練馬区議会から、高校歴史教科書の沖縄戦「集団自決」検定撤回を求める意見書の提出を!

文部科学省への要請行動

2009年05月18日 | 集会・イベント報告
4月16日(木)遠方からの参加者も含めて、全日建、全国一般全国協議会、全港湾の多数の組合員の人たちが文部科学省前に集まった。そのうち20人の要請団が文部科学省への要請交渉に入り、他の参加者は文部科学省前で、アピールとチラシ配布を行った。
要請交渉の参加者は、文部科学省教科書科教科書検定専門官(課長補佐)金沢氏ほか1人、要請団側は3単産14人、沖縄一坪反戦地主会・関東ブロック1人、「市民の会」5人の計20人だった。
要請交渉は午前9時40分に始まった。まず実行委員会連名の要請書を「市民の会」柏木さんが代表して提出したあと、全日建の小谷野書記長の司会で始まった。

参加各団体から要請文の補足ということで、「関東ブロック」吉田さん、「市民の会」柏木さん、全日建・長谷川委員長、全国一般全国協議会・遠藤書記長、全港湾・松本書記長の順で、それぞれが取り組んできたこと、「大江・岩波裁判」における司法の判断等に言及し、「検定意見」の白紙撤回を強く求めた。
これに対して、文部科学省側は概略次のように答えた。
・大江・岩波裁判は、「検定意見」のよりどころではない。一つのきっかけにはなったかもしれないが、それがすべてではない。
・軍がすべてを命令してやったということではないということから、断定的な記述は避けるべきではないかということで「意見」をつけた。
・「大江・岩波裁判」の結果に対してどうこういう立場にない。裁判自体は別の問題であり、検定はその結果とは直接に関係ない。
・軍の関与を否定するものではないことは現在も当時と変わらない。研究結果にもとづいて検定し、その時点、その時点で適切に判断している。今後についても、その時点での適切な判断をしていきたい。
・個人としての考えだが、自分も戦争をするような社会はなってほしくない、あってはならないと考えている。平和な世界にしたい。

そのあと、要請団側から主に次のような観点から質問・追及を行い、やりとりした。要請団:「岩波・大江裁判」上告が棄却されたら、その結果に対してどうするのか
文科省仮定の質問に対してどうこういえるものではない。(検定)審議会にかける必要があればその時点で判断することになる。
要請団:「誤解を与える」という見解はどうして出てきたのか。それまでの「検定意見」判断をくつがえすような新しい学説、重要な史実がでてきたのか
文科省:いろいろな研究者の著書があり(「軍命による集団自決」であったのかどうか)必ずしも明瞭ではなかった。(そのため)断定的な記述は避けようという議論が(「検定」)審議会でされた。
要請団:「検定意見」の根拠となったとされた、林博史さんも宮城さんもそのような使われ方をしたことに対して否定したうえで、抗議もされている。「大江・岩波裁判」では、一審・二審とも原告側主張は完全に棄却されている。であるならば、「検定意見」の根拠は何もないではないか。何を根拠に今日に至るも「検定意見」をそのままにしているのか。

その他、要請団から出た意見の概略を紹介する。
・文科省は2007年当時、安倍内閣の「美しい国」路線の先取りをしたに違いないとわれわれは考えている。
新たな証言がたくさん出てきている。文部科学省は一度でもそのような証言を聞いたことがあるのか。(事務方も審議会委員も)直接、証言を聞きに(沖縄に)行くべきだ。
・とくに「大江・岩波裁判」の上告が棄却されたら、文科省は対応を考えるべきだ。
今から検討の準備を進めることを強く求める。
・実質的に何も論議がされていなかったというように検定審議会のあり方にも問題はあるが、そのベースを作るのは事務局であり、文部科学省のあなたたちは事務方なのだから、あなたたちの仕事のやり方が問われている。新しい証言もたくさん出ていることも積極的に踏まえて、歴史事実をもう一度謙虚に見直すべきである。審議会の責任にしてはいけない。
文科省:ご意見として承る。

約50分の要請交渉を終了した要請団は、文部科学省前で待っていた仲間と合流した。参加各団体の代表者から要請交渉の内容の報告が行われ、最後に文部科学省に対して「検定意見」の白紙撤回を求めるシュプレヒコールをぶつけて、要請行動を終了した。

            のんべえH

参議院議員会館で開催した院内集会

2009年05月18日 | 集会・イベント報告
4月16日(木)文部科学省要請に引き続き、12時20分から参議院議員会館第2会議室において検定意見の撤回を求める院内集会を開催した。会場は、遠方からの参加者も含めて約120人が集まり、熱気にあふれていた。
集会に先立ち11時45分から12時20分まで、DVD「沖縄戦は消せない」を上映した。このDVDは、今回の行動の実行委員会の主体である全日建、全国一般全国協議会、全港湾の3労組が、この問題を広く知ってもらおうということで、独自に製作したものである。
12時20分に集会を開始した。

(1)開会あいさつ 
     沖縄戦教科書検定意見の撤回を求める市民の会・東京 柏木美恵子
さん
市民の会は、この検定意見の撤回を求める決議を東京のそれぞれの地域の議会からあげていこうということで、各区議会・市議会に陳情や請願を行った市民の集まりである。しかし、訂正申請によって一定程度記述が回復されたこともあって、運動も停滞してしまっており、どうしたらよいものか悩んでいた。
そんなときに、このDVDを送ってもらい、文部科学省要請や院内集会の計画があることを知り、現場労働の組合の方たちが、このようなDVDを制作してこの問題に取り組んでいることにとても感動し、ぜひ一緒に取り組みたいと思って実行委員会に加わった。
もともと、なぜこのように歴史の事実が捻じ曲げられなければいけないのかという素朴な疑問からスタートし、自分たちの子どもや孫に事実を伝えたいという思いから運動を進めてきた。
昨日の新宿駅前でのチラシ配りでは、「頑張ってください」と声をかけてくれる人や、カンパまでくださる人がいたりしてとても力づけられた。
今回の取り組みをひとつの機会とし、新たな運動を再スタートしたいと思う。

(2)国会議員のあいさつ
●辻元清美
さん 
国会の中と外とが手をつないで取り組む必要がある。議員のあいだでもこのDVDの上映をぜひ取り組んでいきたい。

●糸数慶子さん 
この問題は与党も野党もなく取り組みたいと思っているが、なかなか困難なこともある。そんななかで、このようにサポートしてくれる人たちがいることに、とても感謝する。
あわせて、摩文仁の丘に名前が刻まれていない犠牲者のこと、朝鮮人などアジアの女性たちのこともぜひ忘れないでほしい。自分が国会に送られている意味は、沖縄戦で亡くなられた方たちの命に代わってということだと受け止めている。

●川田龍平さん 
高校時代に習った「朝日訴訟」が、自分が薬害エイズ問題で実名を公表し訴訟をしたきっかけである。そしてそのこととあわせて、初めて沖縄に行ったとき資料館で見た「集団自決」の写真がやはり、この薬害エイズの問題を伝えていくことを決意したきっかけでもある。
本当の事実を継承していくためには、教育の場というのはやはりとても重要だと思う。次の世代に歴史の真実を伝えていかなければいけない。

●山内徳信さん 
本日の外交防衛委員会のことで大変怒っている。28億ドルもの血税を使って米軍を移転してやらなければならないとはどういうことだ。
文部科学省や政府に対しては、修正能力を持ってほしい、間違いを直す能力を持ってほしい、と言っている。

(3)謝花直美さん(沖縄タイムス記者)
渡嘉敷島の北村トミさんから聞いた証言に衝撃を受けた。自分の娘を手りゅう弾による「自決」で失い、自分は生き残ったことについて、亡くなった娘の命を伝えるために生きている、とのことだった。
それでも、まだ検定意見は変わっていない、文部科学省の調査官に一人でもいいから体験者に会って証言を聞いてもらえば違うはずである。
 この問題は、とにかく「忘れないこと」、そして「ずっと続けること」が必要だと思う。

(4)岡本厚さん(岩波書店編集局部長)
検定意見の大きな理由になった大江・岩波裁判は、現在、原告側が上告中。2月に最高裁に送付され、第一小法廷の係属となった。最高裁の結論がいつどのような形で出るかはまだわからない。
この裁判は「名誉棄損」裁判というが、靖国応援団やつくる会などが原告を説得して、原告の名誉ではなく、日本軍の名誉を守りたいということから起こされた裁判である。
大江さんや岩波書店が訴えられているが、実際には、歴史修正主義者と沖縄の体験者・証言者との闘いであったわけで、勝訴できたのは沖縄の人たちの新たな証言が次々と出てくれたことにある。まさに、沖縄の人たちの怒りが、この裁判を勝たせてくれたものだと受けとめている。

・その他、一坪反戦の吉田さん、今年の平和行進に参加する組合員から発言があった。
(5)閉会あいさつ   全港湾 松本書記長
労働組合が、自分たちの目の前の労働条件などの問題だけに入り込み、国民に見えにくい存在になっていたのではないかということから、このような問題にも取り組むことにした。ぜひ、全国で、家庭の中でも、このDVDの上映運動を広げてほしい。
    (午後2時終了)

         のんべえH

新宿駅西口で沖縄戦ビラ撒き行動

2009年04月19日 | 集会・イベント報告
4月15日(水)夜6時半から7時45分まで、新宿駅西口小田急前で、沖縄戦教科書検定の白紙撤回を求めるチラシを撒いた。 2007年3月、軍の命令・強制による沖縄戦「集団自決」の事実が文科省の検定により教科書から消し去られたことが判明した。沖縄の11万人県民集会をはじめ全国から抗議の声が上がり、12月に教科書会社からの訂正申請という形で記述の一部が改善をみた。そして検定修正の理由の1つは「大江岩波裁判」だったが、2008年3月に大阪地裁で元軍人の訴えが棄却された。10月の大阪高裁控訴審でも再び棄却されたが、文科省はもとの検定を撤回しようとはしない

この日のビラは「教科書検定の白紙撤回」を文科省に求めることと、翌16日の参議院院内集会を告知することが目的だった。
全日本港湾労働組合、全日本建設運輸連帯労働組合、全国一般労働組合全国協議会の三労組に市民15人が加わり、総勢30人ほどが歩道のあちこちに立ちビラを撒いた。車道にはピンクの横断幕を張った労組の街宣車が繰り出し、歩道には3人がかりでないと持てない「沖縄戦『集団自決を強いたのは誰か!?」の黄色の大横断幕を掲げた。
この日の昼はポカポカ陽気、夕方になるとさわやかな風がそよぎ新宿西口の雑踏も、春祭りの夜のにぎわいのように感じられた。セカセカ急ぎ足の人は意外に少なく、声かけはしやすい。水曜なのに気分は金曜夕方のようだ。しかしビラの受取は極端に悪い。ビラを受け取るような場所ではないという心のバリアが歩行者にあるかのようだ。携帯電話中の人や友人と話しながら歩いている人は、周囲への意識が飛んでいるので当然受け取らない。また若い人はまず受け取らない。しかし中高年の女性が受け取ってくれないのは想定外だった。その代わり、ジャンパーやTシャツの定年後の高齢男性の受取りが比較的よかった。なかには裏表とも立ち止まってじっくりながめた後「入らない」と返してくれた方がいた。でも激励の声をかけてもらったり、カンパまでしてくれた方もいたようだ。

ていねいに読まれた理由のひとつは、ピンクの桜の花と珊瑚礁の座間味の海の写真が入った、一見観光用のような親しみやすいデザインのチラシだったからだ。撒いた枚数は2時間足らずで1000枚弱になった。
                 多面体

11.12大阪高裁判決報告会

2008年12月10日 | 集会・イベント報告
11月12日(水)夜、「大江・岩波沖縄戦裁判」大阪高裁判決報告会が文京区民センターで開催された(主催:大江・岩波沖縄戦裁判を支援し沖縄の真実を広める首都圏の会、大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会(大阪)、沖縄戦の歴史歪曲を許さず、沖縄から平和教育をすすめる会(沖縄) 参加100人)。この高裁判決は、出版差し止めや謝罪広告掲載、慰謝料支払い請求を棄却するだけでなく、表現の自由、民主主義社会の存続の基盤、言論の過程の保障にまで言及するものだった。3月の一審判決に続く完全勝訴である。しかし文科省は確定判決ではないことを理由に、いまだに検定意見を撤回していない。一刻も早い最高裁での判決確定が望まれる。この闘いは続いている。

●弁護団からの報告  近藤卓史弁護士
高裁の口頭弁論は2回だけだったが、その間の進行協議などを通して、小田耕治裁判長は細かいことに気づく非常にていねいな裁判官であることがわかった。フタを開けると判決文は全文289pに及び、目配りの利いたしっかりした判決だった。
一審以降、原告、梅澤・赤松側が提出した新証拠に対する裁判所の評価を、判決要旨の「証拠上の判断」を利用し次のような説明があった。
二審で「本部壕の外で、梅澤隊長が自決してはならないと話すのを聞いた」という宮平秀幸新証言(出廷はしていない)について、1992年にビデオドキュメントで語ったのと内容が異なることなどから「明らかに虚言であると断じざるを得ず」と判決にある。普通「信用できない」と書くところだがそれをはるかに越える表現である。
また一審の最後のほうで出た「援護法適用のために,赤松大尉に依頼して自決命令を出したことにしてもらい,サインなどを得て命令書(?)を摸造した」という照屋昇雄証言について、赤松大尉の生前の手記などと細かく照合し「話の内容は全く信用できず」と評価している。
座間味の助役の弟・宮村幸延が1988年に作成した「集団自決命令は隊長でなく助役が出した」という梅澤隊長あて親書は、宮村自身が「私しが書いた文面でわありません」との証言を残しいていることなどから「評価できない」。「梅澤はこの親書の作成経緯を意識的に隠しているものと考えざるをえない」とした。
これらのことから集団自決については「軍官民共生共死の一体化」の大方針の下で日本軍がこれに深く関わっていることは否定でき」ない。しかし「直接的な隊長命令の有無」を断定することはできない。ただ命令が「なかった」と断定しているわけでもない。
沖縄戦大江岩波裁判は、発刊後に新しい資料の出現により真実性等が揺らいだ場合の名誉毀損訴訟である。この判決では、まず真実性の揺らぎはあっても真実でないことが明白とまではいえないこと、そして原告が「別の目的もあった」ことを認めていたため「重大な不利益を受け続けているとは認められない」とした。
出版と名誉毀損の関係の前提となる法律的判断として、新しい資料の出現が直ちにそれだけで違法になるわけではないとしている。「そうでないと結局は言論を委縮させることにつながるおそれがある」からである。さらに「表現の自由、とりわけ公共的事項に関する表現の自由の持つ憲法上の価値の重要性等に鑑み」「事実についてその時点の資料に基づくある主張がなされ、それに対して別の資料や論拠に基づき批判がなされ(略)そのような過程を保障することこそが民主主義社会の存続の基盤をなすものといえる」としている。そして「梅澤及び赤松大尉は日本国憲法下における公務員に相当する地位」にあったのでなおさらそのような過程を保障する「必要性が高い」としている。
このように表現の自由、民主主義社会の存続の基盤、言論の過程の保障にまで言及する格調の高い判決であることに注目すべきである。

引き続き、被告・岩波書店の岡本厚さん(訴訟担当)が「判決は、宮平証言を虚言と断じ『これを無批判に採用し評価する意見書、報道、雑誌論考等関連証拠も含めて到底採用できない』とした。藤岡意見書は妄想に近いものだ。小林よりのり、藤岡信勝、曽野綾子らの歴史観を問うべきである」と語った。

●判決を読んで 中村政則さん(一橋大学名誉教授)
証言重視の判決だった。判決文で座間味、渡嘉敷の集団自決への32軍の関与を示唆している。イギリスのビルマ戦線のオーラルヒストリーにも、大本営の命令で「1発は敵に、1発は自決用」と同じことが出てくる。この問題は、今後沖縄だけでなくアジアの中という視点に広げて研究したほうがよい。
オーラルヒストリーでは、人によっていうことが違うのが普通だ。そこで村全体のなかでその発言はどの位置にあるかコンステレーション(constellation=星座)のなかに位置づけることが重要になる。比較するためには最低3例必要だ。それを宮平証言1つで裁判をひっくり返せると思ったのは愚かである。オーラルヒストリーの方法を使うなら、「もっと勉強して出直してこい」といいたい
歴史学では、A説とB説の両説があるときそれをアウフヘーベンしてC説が生まれる、その後20-30年の間に新証拠などが発見されD説になるというのが普通だ。そして少し違うa説、b説、c説が数多く乱立するのは戦国時代で学問の低迷期を意味する。高裁判決の「新しい資料が発見されたから書籍出版が違法になるとういうことなら言論を委縮されることになる」という部分は学問の自由に関係することで、重要な指摘である。
なお原告は最高裁への上告理由を「名誉毀損の判断がこれまでの最高裁判決と異なる」としている。これに対し理論武装すべきである。

●大阪から 平井美津子さん(大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会)
2005年10月、修学旅行の引率で沖縄にいき、元ひめゆり学徒隊の宮城喜久子さんから「ただガマや平和の礎(いしじ)をみるだけでは沖縄をわかったことにはならない」といわれた。そこで06年4月の修学旅行に向けて準備や学習を始めた。
3月の地裁判決に続き、10月の高裁判決でも旗出しをした。3月は春休みの間なのでまだ年休を取りやすかった。しかし10月はちょうど京都への遠足当日に当たったので校長に「一生に一度の大切なこと」といって午後半休を取らせてもらった。同僚も気持ちよく送り出してくれ、クラスの生徒も「いい子にしている」「ガンバってきてな!」と手を振ってくれた。また卒業生から「先生おめでとう。やっとここまで時代が動いた。教科書に真実が書かれる日がまたきた」という手紙が届いた。

●今後の取り組みについて  石山久男さん(沖縄戦首都圏の会・呼びかけ人) 
文科省は「確定判決ではないから」と言ってまだ教科書の記述を変えない。彼らは地裁判決が出る前に検定意見を出したにもかかわらずそう言う。そこで最高裁へ「直ちに上告人らの請求を棄却し、第二審判決を維持されるよう」求める要請書を提出する。地裁・高裁に提出した2万筆を上回る多数の署名をお願いしたい。要請書の「直ちに棄却」という文言はこうした意味を込めている。
また検定意見はまだ厳然として存在している。教科書の書き換えという点では、彼らは成功している。この高裁判決を踏まえ、文科省への検定意見撤回要請行動を起こす。
また教科書会社が再訂正申請を提出しない。自由な言論を守ろうとする姿勢が見られない。再訂正申請を出せば文科省は受け付けないとは言えないだろう。
そして、わたしたちの学習を進め、より多くの人にこの問題を知らせることも続けたい。

                  多面体

7.5集会報告「なぜ、それでも国は歴史をねじ曲げたいのか?」

2008年07月19日 | 集会・イベント報告
急に蒸し暑くなった7月5日夕刻、石神井公園区民交流センターで「なぜ、それでも国は歴史をねじ曲げたいのか?――沖縄戦教科書検定問題に地域で取り組んで」のタイトルで集会を開催した(参加者93人)。

集会に先立ち、6月20日に完成したばかりのドキュメンタリー映画「未決・沖縄戦」(制作:じんぶん企画)の一部を上映した。これはあまり知られていない北部・山原での沖縄戦をテーマとしたもので、逃げまどう人々、伊江島の22人の「強制集団死」などを、体験者の絵や証言により描いた作品である。
集会は「練馬の会・市民の会の運動経過報告」から始まった。2007年9月に結成した練馬の会は、練馬区議会へ意見書採択を求める陳情、5874筆に及ぶ署名活動、学習のための集会を実施した。また11月には練馬、国立が呼びかけ11の地域の会からなる「市民の会」を結成し文科省や国会院内で要請活動を行った。練馬では意見書採択に至らなかったが、国立・杉並など多くの議会で採択に成功した。今後、地域で何を、どのように取り組めばよいのか、改めて考えるべく、今回の集会を開催した。

● 2007年教科書検定撤回運動の成果と課題――今子どもたちに沖縄戦をどう教えるか
山口剛史
さん(沖縄戦の歴史歪曲を許さず、沖縄から平和教育をすすめる会事務局長、琉球大学准教授)
暮れも押し詰まった昨年12月26日、教科書用図書検定審議会が文科大臣に訂正申請承認を報告した。翌日、全国紙は「軍の関与認める」と報道したが、沖縄の新聞には「『軍強制』認めず」の大見出しが躍った。同時に発表された「基本的なとらえ方」には「様々な背景・要因によって自決せざるを得ないような状況に追い込まれた」という文言があった。手榴弾の配布や壕からの追い出しは、軍の命令を意味していることが沖縄戦研究の到達点である。沖縄以外でも根室、対馬など全国各地に要塞が構築され、「要塞地帯法」という法律によって住民は要塞から排除された。しかし座間味・渡嘉敷島はじめ沖縄では、根こそぎ動員態勢による陣地構築のなか、島は軍民雑居状態で、近隣の島に渡るにも軍の許可を要する厳しい管理体制が敷かれていた。こんな状況での手榴弾配布は、軍命と考えざるをえない。歴史的に教科書の中に「集団自決」が記述されてきたのは、住民虐殺と同根の住民犠牲の例示である。軍が住民に死を強いたことが沖縄戦の教訓であり「集団自決」の本質なのに、「様々な背景・要因」で追い込まれたと書いたのでは本質がみえなくなる。また県議会議長の「80点評価」が報じられたが、その背景には、文科大臣の謝罪会見と総理の談話とセットで政治決着(手打ち)する取決めがあったようだ。しかしそれも果たされなかった。
だから、とうてい納得できない沖縄では27日に700人で抗議集会を開催した。この集会開催が実行委員会解散を阻止する世論をつくるきっかけとなった。
この半年、新聞や雑誌報道から、藤岡信勝らが安倍首相サイドに働きかけを行った政治運動の結果であったこと、文部官僚が安倍らに配慮したこと、など真相が明らかになった。
現在、教科書検定制度の見直しが進行している。ただ「密室検定」を打開するのは容易ではない。教科書発行会社でつくる教科書協会が6月16日の検定審議会の事情聴取に「現状どおり非公開で審議し、執筆者にも守秘義務を課すことを求めた」と報じられている。これに対しても取組みを行うことが重要である。
今年度の沖縄の平和教育の状況の一部を紹介する。6月20日に宜野湾の志真志小学校で「集団自決」をテーマにした平和劇が上演された。ところが事前に上演中止を求めるメールが10通以上寄せられた。大半は県外からのものだったが、なかには地元沖縄からの匿名の攻撃も含まれていた。このように教育現場への攻撃が起こるようになっている。
琉球大学は、6月23日の「慰霊の日」を休講にしている。翌日小学校教職課程を取っている学生84人にアンケート調査をした。20%の学生は「追悼式に参加する」「黙祷した」などなんらかの慰霊活動をしていた。「集団自決」の内容については、「強要された死」であったことを知っている学生は多かったが、その内容は断片的で「なぜ起こったか」ということころまで踏み込んだ理解をしている学生は少なかった。私自身、どう教えていくのかが今後の課題である。
最後に今回の運動の成果を挙げてみたい。第一に、沖縄県民だけでなく、全国的に沖縄戦の実相が深められ「軍隊は住民を守らない」ことをもう一度問い直せたことである。第二に、95年以来の県民運動となり、日本政府を揺るがすものとなったこと、第三に、 高校生をはじめ若い世代が沖縄戦の実相を学ぶきっかけになったこと、最後に、教科書検定制度の矛盾を露呈させ、制度を揺るがしていること、とくに「基本的とらえ方」など、審議会の資料を出させたことは、教科書検定運動のなかで画期的であること、などである。

● 沖縄戦「集団自決」裁判の本質は何か  
岡本 厚
さん(岩波書店編集局部長)
「集団自決」裁判(大江・岩波裁判)は、2005年に提訴された。昨年3月、まだ証人尋問すら行われていない段階で、文科省が高校歴史教科書の検定で「集団自決」から軍の関与・強制を削除させ、その根拠のひとつにこの裁判での原告梅澤の陳述書を挙げたことは驚くべきことだった。今年3月の大阪地裁判決では、その梅澤証言は信用できないとされた。文科省の責任は大きい。
なぜ63年もたったいま沖縄戦が問題になるのだろうか。相手方は隊長の命令の有無に問題を矮小化し、沖縄戦の教訓を「反転」させようとしている。これは、「慰安婦」問題で狭義の強制の有無を問題にしたのと同じ構図であり、南京大虐殺での人数の問題を云々したことと同様である。
沖縄戦は本土決戦の準備のための捨石作戦であり、もともと「勝つことができない戦争」と運命づけられていた。そして中国を侵略した軍隊が沖縄に移動し、司令官もまた中国侵略を指揮していた。そうした軍が住民をどう見ていたか、推測するに難くない。沖縄の民衆に強い不信感をもち、スパイ視し、捕虜になることを禁じた。投降しようとして、後ろから(日本軍に)撃たれたり、方言を使っただけでスパイとして殺された住民は多い。こうした中で「集団自決」は起きた。住民虐殺と「集団自決」を切り離すことはできない。
今年3月28日の大阪地裁判決には「集団自決については日本軍が深く関わったものと認められ」「原告梅澤及び赤松大尉が関与したことは十分に推認できる」と書かれている。
この裁判で問われている問題は何だろうか。軍の行動、方針、命令、住民への対応を「当時は仕方がなかった、当然だ」と認めるのか否か、国家の立場に立つのか民衆(住民)の立場に立つのか、さらに戦時中の反省に立ち、平和・平等・自由を標榜する憲法体制を肯定し、それを推進するのか否か、という問題である。次に沖縄と本土の関係をどうとらえるのかという問題である。年間500万人の観光客が訪れているが、なお米軍基地の島であり、普天間を辺野古にタライ回しにし、少女暴行が頻発する現実を自分の問題として考える本土の人はどれほどいるか。「沖縄ノート」が自己批判した「日本人」は、40年たってどれほど変わったのか、という問題である。また教科書検定制度はこのままでよいのかという問題でもある。
控訴審は、早ければ9月9日に結審し年内にも判決が出る見通しである。

●ディスカッション
2人の講師に練馬の会から柏木美恵子が加わり、練馬の会の渡辺尚人のコーディネートで会場からの質問をベースに3人のパネリストが討論した。11のテーマからいくつか紹介する。

1 6月30日に文科省は新学習指導要領の小学社会科の解説書で「沖縄戦」を明記することを発表した。文科省のねらいは何か。
山口:
解説書を詳しく読んだわけではないが、空襲、広島・長崎への原爆投下と並んで教えるということから、被害の側面に重点が置かれているようだ。これは「日本軍による強制された死」という沖縄戦の本質をとらえたものではないと考える。
2 沖縄戦の報道を通して、本土のマスコミ記者はどう変わったか。
山口:
沖縄支社の記者は両極端に分かれた。非常に熱心な社とまったく取材に来ない社である。たとえば沖縄タイムスに出向していた朝日の記者は30代前半と若かったが、非常に頑張っていた。沖縄で、自分が何を発信するかが問われていると自分の問題として考えてくれる記者もいた。一方、本土では左右のバランスを考えて書く傾向があると感じる。
岡本:記者個人にもよるし、世代でも違う。一般に若い世代の記者は、問題意識が希薄だと感じる。もちろんそうでない記者が多くいることも知っているが・・・・
3 地域の運動で一番しんどかったことは何か。
柏木:
報道が少なく、一般の人が「知らない」「わからない」ことだ。しかし昨年9月10日、金城重明さんの出張法廷での証言がNHKテレビのニュースで報道されたときは違った。その直後、街頭で署名を集めたが、「テレビでみた。こんなひどいことをやったのね」と足を止める人が多かった。テレビの力はすごいと思った。知らない人が多いなか、とにかくいろんな人に知ってもらいたいと考えて始めた地域での運動でもあった。
4 若い世代に魅力のある運動にする工夫はあるか。
柏木:非常に難しい。署名に応じてくれる人は50代以上が中心。20代から40代、とくに子育て世代は「お子さんの教科書の問題」とアピールしても悲しいほど対応が冷ややかだった。ただ高校生は三線(さんしん)の音楽に足を止め熱心に訴えを聞いてくれた。若い世代とつながり合う関係をつくっていきたい。

その他「右傾化する若者にどう向き合えばよいか」「練馬の区議会はどんなところか」「教科書検定をどうすべきか」「大江岩波裁判のマスコミ報道について」など、テーマは多岐にわたった。
ディスカッションの最後に、山口さんから平和教育の課題として「授業で悲惨な写真をみせ、自決の様子を話すだけでは限界がある。歴史修正主義がはびこり若者が同調する背景には、そういう授業への不満や嫌悪感を上手にすくいとっているところがある。どうして戦争が起こったか、どうして止められなかったかというところまで実証的に、構造の問題と結び付けないと、戦争を止める力にはならないと思う。今後の課題である」とのコメントがあった。

最後に、練馬の会・林明雄から「この集会で学んだことをもとに、歴史を歪曲する人たちの真のねらいを見極め、それに対抗するため、地域で歴史の真実を学び・伝え・考える場を設け、具体的な行動を展開していきたい」とのあいさつがあり、会を閉じた。
                         多面体

沖縄戦教科書検定 訂正申請審議結果の問題点

2008年01月28日 | 集会・イベント報告

1月22日、文京区民センターで「教科書検定意見撤回を求める集会『日本軍の強制』文科省はなぜ認めない!」が、大江・岩波裁判支援連絡会(大阪)、平和教育をすすめる会(沖縄)、首都圏の会(東京)の共催で開催された(主催者発表 150人)。練馬からも10人以上が参加。


冒頭、首都圏の会の石山久男さん(歴史教育者協議会委員長)から、昨年11月上旬の6社8冊の「訂正申請」提出以降1月15日の沖縄県民大会代表団の文科省要請までの教科書検定の経過報告があり、そのあと5人の方から報告があった。

1 訂正申請の結果に思う――教科書執筆者として  坂本 昇さん(都立高校教員)
11月1日の訂正申請以降12月18日に再申請するまで、東京書籍の場合、文科省から資料提出指示や「意見」伝達、審議会の「指針」伝達、内諾が6回、出版社から訂正案提示が5回(つまり四訂の末、内諾に至った)、合計11回、平均4-5日に1回の頻繁なやりとりがあった。文科省教科書調査官の意見伝達は取締役クラスの編集者が聞くのみで、執筆者は立ち会えない。調査官は「あくまで意見」というだけで「直せ」と命令はしない。しかし出版社側では「再申請しないと認められないのだろう」と受け止めた。つまり文科省は「誘導」「強制」したのである。
検定の「密室性」はほとんど変わらず、調査官は識者の意見を恣意的に援用する審議会の「指針」を利用し、検定結果は撤回されない結果に終わった。忸怩たる思いが残る。今後も、よりよい教科書作りと検定意見撤回運動を継続したい。

2 今回の訂正申請の問題点  林 博史さん(関東学院大学教授)
教科用図書検定調査審議会日本史小委員会の集団自決に関する「指針」は、軍命を「隊長による自決命令」と狭く捉え、当時の教育・訓練や感情の植え付けなどの「様々な背景・要因」を強調している。しかし一番のポイントは日本軍の存在である。法的行政的な手続きを超え、軍は人の動員や物資調達を区長や住民に直接行っていた。「おかしい」などといえば息子ほどの年代の若い将校や下士官にビンタを張られた。日本軍にいわれたことは、実態としてすべて軍命だった。まず軍の強制・誘導があり、それに「様々な要因」を付加して考えるべきだ。
「沖縄の人の感情を考慮すべき」という考え方があるが、とんでもない。日本軍には「捕虜になるな」「捕虜になるのはひどいやつ」という考えがあり、ここから戦犯裁判で問題になった捕虜虐待が起こり、一方、投降できず餓死したり「玉砕」した日本兵が百数十万人いる。沖縄の「集団自決」(強制集団死)問題は日本の侵略戦争全体にかかわる問題である。

3 「日本軍の強制」を認めない背景  俵 義文さん(子どもと教科書全国ネット21)
われわれが要請した検定意見撤回は実現できなかった。要因として、検定意見撤回を求める意見書採択は本土では50の自治体(1月17日現在)に留まり本土の声が足りなかったこと、マスコミ報道も乏しかったことが挙げられる。しかし最大の要因は右派組織の猛烈な巻き返し運動である。
もともと昨年3月の検定問題は右派政治家の政治介入から始まった。文科省担当者も「安倍政権に配慮して検定を行った」ことを自民党文教族議員に認めた(共同通信が07年12月に配信した記事)。また昨年10月以降、文科省への「訂正申請に応じるな」との要請はすさまじく、「私たちより数倍上回」ったと文科省も説明した(藤岡信勝「史」08.1月号)。そして平沼赳夫、中川昭一ら衆参の国会議員(自民、民主)で構成する日本会議議連は11月28日の総会で「教科書記述の変更に断固反対する」ことを決議し文科省への働きかけを確認した。その結果、文科省の姿勢はガラリと変わった。11月半ばまで文科省・布村幸彦審議官は「検定制度に『撤回』の規定がないため撤回できない」と述べていたが、12月に入ると「検定意見は学問的・専門的立場から公正に付けられたものであり、撤回できない」と6月までの強硬な姿勢に戻った。この状況では、いずれ住民虐殺や壕追い出しの記述も削除されかねない。

4 高校生は何を考えているか――学校現場から  平井美津子さん(大阪・中学校教員)
わたしが勤務する中学では7年前から沖縄に修学旅行に行っている。琉球処分から現代の辺野古の問題まで取りあげた「中学生の沖縄ノート」をつくり事前学習をしている。そんな修学旅行を経験した卒業生たち33人に、昨年12月21日、クラス便り「イーハトーブ」を発送した。内容は沖縄戦教科書検定の問題、県民大会の高校生の発言、大江・岩波裁判についてなどで、「いま教科書問題は大詰めだが、君達はどう考える?」と問いかけた。いままでに20人から返信があった。
当時社会科嫌いの生徒は「現代社会で、クラスのみんなは731部隊、集団自決、ソテツ地獄にまったく無知でした。『集団自決』も自分たちが『勝手に』『自分の意志で』やったと認識していました。そういう友達に『本当は違う』と言っています。なぜそういう認識になるかというと、教科書がきちんと書かれておらず、政府の教育に問題があると思います」と書いてきた。ある帰国子女の生徒は「日本人として、これから未来を築いていかなければならない一員として、無関係に思わず真剣に考えなければならない。学校で学ぶ教科書から事実を消してしまうのはとんでもないことで絶対してはならない」と書いた。一方「知らない」「興味ない」という多くの友人や、否定する教師に囲まれ、壁に突き当たっている卒業生もいた。「現代社会の課題で県民大会の新聞記事を題材に、教科書には正しいことを書いてほしいと発表した。すると教師から『それは偏向した考え方や。県民大会の人数も実際には5万人にも達していない』と、ほとんど説教のようなことを言われた」。生徒には沖縄の修学旅行で受けた感動がいまも残っていて、世の中をみていてくれたことがわかった。
12月26日の訂正申請結果公表の新聞をみて「先生、よかったやん」とメールをくれた生徒もいる。「いや、そこが問題やねんで!」と答えている。
いま中学には「731部隊や慰安婦問題のことを教えるな」と匿名で3回も抗議の電話を入れる父母がいる。しかし、管理職も含め「正しい教育を行う」ことを確認し匿名の電話は相手にしない方針にしている。

5「大江・岩波沖縄戦裁判」結審報告  小牧 薫さん(大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会事務局長)
12月21日2年半に及ぶ裁判が結審した。最終弁論で原告側弁護士徳永信一らは256pに及ぶ準備書面を提出した。裁判の過程で梅澤裕氏は原告なのに「沖縄ノート」を提訴後1年もたってから読み、赤松秀一氏は「パラパラ読んだだけ」ということが判明した。梅澤氏は裁判の当初「命令は助役が出した」と主張していた。ところが途中で「那覇あたりの上司(県知事)が出した」と言い、最終的には「愛情による無理心中」になってしまった。判決は3月28日10時に言い渡される。

最後に寺川徹さん(首都圏の会事務局長)から方針提起が発表された。
3月28日の判決については、大阪では当日、東京では4月9日(水)報告集会を開催する。また現在1万3995筆集まっている「公正な判決を求める署名」の追加分を2月初旬に提出する予定である。教科書検定については、3月18日に「学習会」を行い、今後も毎年訂正申請を求める活動を継続したい。世論づくりのため市民団体、研究者、労組のパイプをさらに太くしていきたい。

多面体


12月25日 市民の会として再び丸の内の文部科学省へ要請・宣伝行動を実施

2008年01月14日 | 集会・イベント報告

美しいイルミネーションに集まった大勢の人たちに訴えました

「市民の会―東京―」では、前回、12月4日に沖縄・大阪・首都圏の会などと共同で要請を行って以降、それに対する回答もない中で、教科書会社からの訂正申請に対して、引き続き「検定意見」に沿った再修正をさせようとしている文部科学省に対して、抗議の意味も込めた再度の要請行動を、12月25日に行いました。

ちょうど、クリスマス・年末シーズンということで、文部科学省前の仲通りは、夕方5時からは光のイルミネーションに飾られ、見物客でごった返していました。






1.文部科学省要請

午後4時から4時40分まで、文部科学省1階の会議室において、教科書課の松木課長補佐を相手に行いました。

私たち市民の会は、代表の阿部ひろみさん他、練馬の林を含む合計6名のメンバーで臨みました。

自己紹介の後、要請文の読み上げと手渡し、チラシ裏面の文の読み上げを行い、話に入りました。今日、教科書会社の担当者に何か伝えたと言うことはないかと聞くと、まだ審議中なので伝えてはいないが、年内つまり今週中には結論が出るとの事。再訂正申請を出させたことについて聞くと、文化省として再訂正申請を出させたことはなく、審議の途中で記述の根拠となる典拠・資料を出させた時にその時点での審議会の考え方が伝わり、教科書会社が判断したことですとのこと。訂正申請、再訂正申請とも、全部終わった段階で公開するとのことでした。また、今回の訂正申請が不承認でも、一度検定に合格した教科書なのだから、3月時点の記述では発行できるとも言っていました。それでは元に戻っただけではないのか、11万6000人の集会や私達が地域でやってきたことは何にもならなかったのかと言うと、直接は答えず、文科省としての立場を説明しました。軍命は確認されていない。軍の関与は否定していない。手榴弾を軍が配布しているという記述は認められている。この3点です。沖縄では、祖父母から直接話を聞いている子供たちにウソを教えることになると言うと、学説が揺らいできているのですと言い、家永裁判や『鉄の暴風』、『母の遺したもの』の話を出してきました。訟務専門官だけに良く知っているようでしたが、人の心やその場の状況をどれだけ想像できているのだろうと疑問に思いました。時間切れで、学説が揺らいでいると言う説に十分に反論できませんでしたが、「学説ではなく、単に声の大きい異論なのではないですか」と言いました。「良い教科書を作るために仕事をしてほしい。」と言い、再度文書での回答を要求して、要請は終わりました。




2.文部科学省前宣伝行動

要請にあわせて、4時半ころから、文部科学省前の仲通りで、チラシ配りやアピールや音楽の宣伝行動をやりながら、要請団の出てくるのを待ちました。

そして、要請団が出てきた4時45分ころから、要請メンバーからの報告を受け、最後はWE SHALL OVER COME の合唱で仲通りでの宣伝行動は、イルミネーションが点灯される5時に終えました。

引き続き、光のイルミネーションの見物客でごった返す仲通り周辺でみんなでチラシを配りながら訴えました。


 


宣伝行動には約50人の方が参加してくださり、この日のために準備した美しい3000枚のチラシも好評で、あっという間に2500枚がなくなりました。残ったチラシは各地域に持ち帰って、各地域で配布してもらうこととしました。
 

なお、この要請行動の翌日の12月26日に、教科書検定審議会ならびに文部科学省は訂正申請の審議結果を公表したが、あくまでも、検定意見は撤回せず、しかも、日本軍による関与は認めたものの「強制」という表現は削除された内容。そこで、市民の会―東京―としても、急遽「抗議文」を作成して、文部科学省へ提出しました。


のんべえH


12・4沖縄戦教科書検定撤回を求める文科省要請&宣伝行動報告

2007年12月09日 | 集会・イベント報告

右翼・つくる会の妨害をはねのけ、丸の内に 寿[kotobuki] の歌声が!

私たち「沖縄戦教科書検定の撤回を求める練馬の会」は、都内の8地域で同じく議会に対して陳情・請願運動をしているグループとともに、「沖縄戦教科書検定意見の撤回を求める市民の会―東京―」(以下「市民の会」)というネットワークを立ち上げ、12月4日、「大江・岩波沖縄戦裁判を支援し沖縄の真実を広める首都圏の会(略称:沖縄戦首都圏の会)」と共同で、教科書検定意見を撤回し、その経過と責任を明確にすることなどを求めて文科省要請と要請団支援&宣伝行動を行いました。

今回の行動を計画したあとの11月28日になって、同じ場所、同じ時間帯に「新しい歴史教科書をつくる会」が宣伝行動をやることを知り、私たちは色々な対応を迫られましたが、当日は文科省前に120名~150名の人々が集まり、つくる会と右翼の妨害をはねのけて、無事要請および宣伝行動をやりきることができました。

要請ならびに文科省前行動に様々な力を貸してくださった皆さまに、そしてあの耳をふさぎたくなるような大音量の罵声の中、毅然と参加し続けて下さった皆さんに、心から感謝いたします。ありがとうございました。





<文科省要請>

要請は、11時30分から照屋、山内、糸数、赤嶺の4人の国会議員と、琉球大学や沖縄高教組の沖縄の会の方、大江・岩波裁判支援大阪の会と首都圏の会、そして私たち市民の会の5人の合計15人が入りました。

文部科学省側は、あの布村審議官です。 照屋議員の「仏の顔も三度までというが、本日はもう4回目だ。文部科学省は要請を率直に受けとめて大臣に伝えろ。」との言葉に続き、市民の会からは、代表の阿部さんが、要請書とともに、4つの贈りものとして「沖縄の悲しみ」「沖縄の怒り」「審議の公正」「歴史の事実」を届けますとして、手渡し、首都圏の会からは3日の集会アピールの内容を踏まえた要請書を、また沖縄からも高嶋さんと山口さんの連名の要請書を提出しました。

その上で、文部科学省側の対応を糾すやりとりが行なわれました。

しかし、布村審議官は、検定制度そのもののあり方についての検討には言及したものの、結論的に、今回の検定意見は誤っていない、だから撤回はしない、何も意見のなかった審議も公正な審議を行なったと言い通すという態度に終止しました。

結局、約束の30分という時間が過ぎたといって文部科学省側が、打ち切ってきたので、最後に山内議員が、「防衛省に守屋あり、そして文部科学省に布村ありといわれている。もっと真摯に受けとめ、真実の前に跪きましょう。」と言って、12時15分には、進展のないまま、要請は終了しました。

何ら意見がなくても、適正な審議がなされたと言い通す役人の姿を目の当たりに見て、こんな人間が教育行政を実質的に動かしているのかと思うと、本当に許せない思いがより強くなりました。

<文科省前要請団支援&宣伝行動>

要請が始まる11時30分スタートを予定していましたが、準備が予定より早く進み、15分早くスタート。おしゃれな文科省前の丸の内仲通りを歩く人々に受け取ってもらえるように知恵を絞った、冬のバザールを思わせる美しいチラシを配り、持ち寄ったプラカードをかかげ、サンタクロースも登場しました。

杉並、中野、練馬など各地域で陳情や請願運動をしてきた人たちからのアピール。あいだには館野公一さんや「ヨッシーとジュゴンの家」の歌が入りました。また、ピースボートの野平さんからのアピールや川田龍平議員からのメッセージが代読されました。残念ながらこちらのスピーカーでは、アピールの声は「つくる会」の大音量でほとんどかき消されてしまいます。でも、私たちは大声で威嚇したり、やり込めようとする人たちに対し、回りの人と繋がる言葉をつむぎ、決してこのような国のやり方を許さないという思いをつなげようとしました。

12時を過ぎても、要請団は布村審議官に対し食い下がって交渉しています。

ここでデュエット「寿」登場!要請団に私たちの支援の思いを伝え、汚い罵声や罵詈雑言にへこたれないぞと「寿」の三線と歌にみんな元気がでました。そして交渉を終えた要請団が「つくる会」の面々の間を通って私たちのところへ戻ってくる時、「寿」の元気なカチャーシーで迎えることができました。 赤嶺議員、山内議員などの報告につづき、もう一度「寿」に登場してもらいました。ナビィさんは静かで美しい、あの騒然とした雰囲気の中で思わず涙がこぼれるような歌を歌ってくれました。その後、沖縄から要請に参加した山口剛史さん、市民の会から林さんなどが報告。最後に沖縄高教組の松田さんの「団結・がんばろう!」で私たちの行動は終わりました。 

警察の警備であちらはあちら、こちらはこちらと陣を分け、ケガ人もなく無事に予定通り終えることができ、千数百枚あったチラシはすべて撒ききりました (足りなくなって残念でした)。

おそらく今後も歴史認識や教科書問題では「つくる会」からの妨害があるでしょう。しかし、今回の経験を今後の取り組みの中に生かして、全く誤りを認めようとしない文科省に対し、粘り強く検定意見撤回を求めていきましょう。


LOL



1000人が参加した沖縄戦全国集会

2007年12月08日 | 集会・イベント報告
九段会館で「12.3沖縄戦教科書検定意見撤回を求める全国集会」が開催された(主催者発表 1000人)。渡嘉敷島・集団死の生々しい体験談、4年がかりで検定意見を撤回させた体験談など貴重な話を聞けた2時間だった。集会アピールは、検定意見撤回、誤った検定を行った文科省の責任追及、さらに検定制度是正規則の制定要求にまで踏み込むものだった。

金城重明・沖縄キリスト教短大名誉教授
第二次大戦末期、熾烈をきわめた沖縄戦に米軍は五十数万人を動員、対する日本軍は鉄血勤皇隊など学生を含めわずか11万人で迎え撃った。確実に負けることがわかっていた戦いだった。金城さんは当時16歳、渡嘉敷島「集団自決」の生き残りとして当時の生々しい状況を証言された。

米軍が上陸した3月27日夕刻「北山(にしやま)に移動するように」という命令があり、暗いなか、追い込まれるように7キロの夜道を歩いて集合した。住民はいよいよ軍とともに最期をとげるときがきたとの緊迫感に包まれた
村長が天皇陛下万歳を三唱した。親は幼い子に「これから死ぬんだよ」と言い聞かせ、女性は鏡をみて髪を整えた。
1週間ほど前に男性十数人と防衛隊に手榴弾が配られていた。しかし(いま考えれば幸いなことに)不発のものも多く、手榴弾で死傷した人はほとんどいない。自決の失敗である。住民は混乱状態に陥った。死ぬ方法がわからないのである。
いったい大人はどうするのか見るため、兄と2人で少し高いところに上った。すると区長が木をへしおって、愛する自分の妻子をめったうちにして殺しているのがみえた。そこで、兄と2人で母を石で打ち殺し、次に弟や妹を殺した。
どんどん死者が増え、まわりからは「殺してくれ」という声も聞こえた。最後の方では「自分がもし生き残ったらどうしよう」という恐怖がエスカレートしていった。いままでの米軍に対する敵愾心が、自分に向かい、それが恐れに変質したわけである。これが集団死の心理状態である。
兄と二人で死ぬ順番を相談していたところへ、同年輩の少年が「米軍に斬り込んで死のう」と駆け込んできた。3人でその場を離れたが、最初に遭遇したのは日本兵だった。「皇軍も生きていたのか」と思うと腹の底から憤りや恨みがわいてきた。その後、死のチャンスは訪れなかった。

「強制があった」「強制はなかった」という二説がある、だから「強制」という記述を削除せよと文科省はいう。これは言葉の遊びだ。日本軍がいた島だけで「集団死」が発生したこと、その背景に「軍官民共生共死」が教育により刷り込まれていたことが、軍による強制の何よりの証拠だ。
暗い残酷なことをできるだけ削除し、明るく書けというのが文科省の態度だ。

暉峻淑子・埼玉大学名誉教授
91年度の中学公民教科書検定で、暉峻さんの著書『豊かさとは何か』(岩波新書)の引用コラムが削除された。出版社は別のコラムに差し替え発刊した。暉峻さんがその事実を知ったのは半年後の92年6月の文部省の記者会見が新聞報道されたときだった。そのときから闘いが始まった。

1988年荒川区の78歳のおばあさんが生活保護打ち切りを苦に自殺する事件が起こった。この事件を著書に書いたところ、教科書のコラムに要約が引用された。
削除しろという文部省(当時)の検定意見は「福祉事務所に抗議の手紙を残して」「無理に生活保護を辞退させられて自殺した」という部分が「事実関係に誤りがみられ」「生活保護行政にについての一面的な記述である」というものだった。著書に誤りがあるような検定意見だったが、意見の根拠は88年11月厚生省社会局長の「遺書は迷惑をかけたことへのおわびとお世話になった謝意につきており、死因は動脈硬化症による病死」という国会答弁しかなかった。文部省に説明を求めるべく出向いたが拒絶された。
国会議員の尽力で教科書課長と面談でき恨みの遺書のコピーを示した。ところが課長は「政府参考人の国会答弁により検定を行うことは正しい」という回答の一点張りだった。文部省は「日本の国(政府)は間違ったことはしない」と子どもに教えたいのだ、と思った。その後、死体検案書を作成した観察医務院にまで通い、自殺であったとの確証を得た。文教委員の国会議員にも働きかけ、国会質問もされた。
その結果、96年7月厚生大臣と文部省教科書課長が誤りを認め謝罪文を書いた。謝罪を取るまで、じつに4年の歳月がかかった。この間、会う人ごとにこの問題を訴えたが、それを支えたのは、教科書は科学的真実に基づくべきだとの信念だった。
 
集会アピールを採択し、事務局から、全国の12月地方議会で意見書の採択を求める陳情運動を起こそう、検定制度にはそもそも間違いを起こすことがありうるので文科省に是正システムを求め、ここまで放置した立法不作為の責任を問いかけよう、12月上旬に改訂申請の結果が文科省から発表されるはずなので結果次第で行動を呼びかける、との行動提起があった。
その他、川平朝清さん(主催者・東京沖縄県人会)、高嶋伸欣さん(琉球大学)、坂本昇さん(教科書執筆者)、水島朝穂さん(早稲田大学教授)、中学の社会科教員藤本泰成さん(フォーラム平和・人権・環境)らの発言があった。また笠井亮(共産・衆)、糸数慶子(無所属・参)、照屋寛徳(社民・衆)の国会議員が出席していた。
☆この集会には、練馬の会からも多くのメンバーが参加した。そして集会前後に会場入り口で「沖縄戦教科書検定意見の撤回を求める市民の会・東京」のメンバーとともに、翌12月4日昼の文科省前行動を呼びかけるビラ配りを行った。
                    多面体

光が丘で第6波・最後の署名要請行動

2007年11月19日 | 集会・イベント報告
 11月18日(日)、天気は小春日和をとおりこしてポカポカ。練馬の会の街頭署名隊は、今度は光が丘清掃工場の大煙突直下の歩道橋に登場。大通りの銀杏並木は西側のみどりと東側の黄金色のコントラストも美しく折から中央公園で開かれていた「農業まつり」に向かう人、野菜や花を買って帰る人、人、人、人……。署名行動としては、最高のシテュエーション。こっちの人数が少なすぎることがタマにキズ。



 今回は若い衆は少なく、みなさんの年齢が高かった。「農業まつり」じゃけん、やむなし。でも区民のみなさんの反応は、相変わらず、たいへんよい。署名隊員が倍いれば倍の署名が集まったことは確実である。この日の“成績”は111筆。
 短い会話を通じて、署名された方の気持ちや気分が伝わってくる。「オレも軍隊に行ってた。軍隊がやらないわけないんだ。」というおじいさん。「私の兄が沖縄で戦死。今治の連隊だった。平和の礎にも行った。また行ってみたい。」とご年配の女性。「『つくる会』の連中がでかい顔するのが気に入らん」この人は研究者風。「昼間からこんな気持ち悪い絵を見せるな」 と悪態をついて行った40代のパパ。
 昔風にいわせてもらうと、横断幕と新聞、サンシン、そしてわれらのポスターは、確実にあの空間を異化し、みなさんのココロの奥にある何かをゆり動かしている。区議会与党のみなさんは、この何かにおびえ日和見を決めこんでいる。そうだ。きっとそうにちがいない。

                    呑兵衛