10月31日、「大江・岩波沖縄戦裁判」の大阪高裁判決がありました。
この訴訟は、沖縄戦当時、慶良間列島座間味島の戦隊長だった元陸軍少佐と、同渡嘉敷島の戦隊長の弟が、米軍の上陸に際して起きた住民の「集団自決」(強制集団死)について自分(と自分の兄)は「命令」していないのに「命令」したと書かれ、名誉を毀損されたと起こしたもので、今年3月の大阪地裁で原告側敗訴の控訴審です。
地裁判決当日にも大阪に行きましたが傍聴券の抽選ははずれ。今回も300名ほどの傍聴希望者が並び、予想どおりはずれでした。
地裁判決を覆すようなものが原告側から何も出ないどころか、「新証言」として提出された「村長から口止めされた」という宮平氏の証言は、「被告」側の弁護士から、その時村長はすでに亡くなっていたと論破されています。一審判決が高裁でひっくり返されるはずはないとは思っていましたが、裁判長の口から判決が言い渡されるまでは、やはり一抹の不安もありました。
午後2時の開廷。
練馬で結果を待つ仲間に送るべく携帯電話をカメラモードにモタモタと設定していると、平井さんが「控訴棄却!」の紙を持って飛び出ていらっしゃいました。

「やったー!」 当然の結果とは言えやっぱりうれしい。琉球新報の知り合いの記者の方に、「良かったですね!」と話しかけると、「うれしいです。ありがとうございました。」と言われました。地域で取り組んだ小さな集会や昨年12月の文科省要請&文科省前宣伝行動など彼がいつも取材に来てくれたことが思い出されて、思わず涙ぐんでしまいました。
その後18時から報告集会があり、判決要旨が出されました。
【判断の大要】には「座間味島及び渡嘉敷島の集団自決については、『軍官民共生共死の一体化』の大方針の下で日本軍がこれに深く関わっていることは否定できず、これを総体としての日本軍の強制ないし命令と評価する見解もあり得る。」とし、地裁判決同様、「控訴人梅澤及び赤松大尉自身が直接住民に対してこれを命令したという事実(最も狭い意味での直接的な隊長命令-控訴人らのいう『無慈悲隊長直接命令説』)に限れば、その有無を本件証拠上断定することはでき」ないとしながらも、<太平洋戦争及び沖縄ノートが出版のころは>「梅澤命令説及び赤松命令説は学会の通説ともいえる状況にあった。」「『沖縄ノート』の記述が意見ないし公正なる論評の域を逸脱したとは認められない。」とありました。
また【証拠上の判断】においては、梅澤が本部壕で自決してはならないと厳命し、村長が忠魂碑前で住民に解散を命じたのを聞いたとする宮平新証言について「明らかに虚言であると断じざるを得ず、これを無批判に採用し評価する意見書、報道、雑誌論考等関連証拠も含めて到底採用できない」としました。この中にある意見書とは藤岡信勝が裁判所に対して出した実にいいかげんでひどい文章で、高裁のこの判断を読んだ時は本当に胸のすく思いでした。
さらに「被告」側弁護人が最終準備書面で展開した、公表されている書籍の出版等差止めに関する基準について判決は厳しい要件を示しました。そして表現の自由に対して「公共の利害に深く関わる事柄については、本来、事実についてその時点の資料に基づくある主張がなされ、それに対して別の資料や論拠に基づき批判がなされ、更にそこで深められた論点について新たな資料が探索されて再批判が繰り返されるなどして、その時代の大方の意見が形成され、さらにその大方の意見自体が時代を超えて再批判されてゆくというような過程をたどるものであり、そのような過程を保障することこそが民主主義社会の存続の基盤をなすものといえる。(中略) 仮に後の資料からみて誤りとみなされる主張も、言論の場において無価値なものであるとはいえず、これに対する寛容さこそが、自由な言論の発展を保障するものといえる。」という判断は、素人の私にも感動的なものでした。
今回の裁判は原告の自らの名誉が毀損されたという怒りから始まったものではなく、「新しい歴史教科書をつくる会」や「自由主義史観研究会」などの歴史修正主義グループとその思想を奉じる弁護士たちによって、日本軍(皇軍)の名誉回復や「集団自決」住民自らが国に殉じようとした「清い死」であるという思想を日本社会に押し付けようとする、非常に政治的なものでした。けれども、地裁判決は重たい事実を抱えて生きてきた沖縄の人たちの証言を具体性、迫真性、信用性があると認定し、今回の高裁判決もまた、上述したように原告側が作り出した「証言」を「虚言」として退け、かつ言論の自由について真摯な判断を示したことに感銘を受けました。
かつての安倍政権はこの裁判を理由として、高校歴史教科書の「集団自決」(強制集団死)記述から軍による強制を削除させました。現在、一定の記述の回復はなされたものの、検定意見はいまだそのままに残っています。原告側は最高裁に上告しましたが、私たちは上告の棄却を求めると同時に、もう一度沖縄の人たちとともに、さらにさらに輪を広げ、文科省・国に検定意見の撤回の声をあげなくてはならないと改めて思いました。
LOL
この訴訟は、沖縄戦当時、慶良間列島座間味島の戦隊長だった元陸軍少佐と、同渡嘉敷島の戦隊長の弟が、米軍の上陸に際して起きた住民の「集団自決」(強制集団死)について自分(と自分の兄)は「命令」していないのに「命令」したと書かれ、名誉を毀損されたと起こしたもので、今年3月の大阪地裁で原告側敗訴の控訴審です。
地裁判決当日にも大阪に行きましたが傍聴券の抽選ははずれ。今回も300名ほどの傍聴希望者が並び、予想どおりはずれでした。
地裁判決を覆すようなものが原告側から何も出ないどころか、「新証言」として提出された「村長から口止めされた」という宮平氏の証言は、「被告」側の弁護士から、その時村長はすでに亡くなっていたと論破されています。一審判決が高裁でひっくり返されるはずはないとは思っていましたが、裁判長の口から判決が言い渡されるまでは、やはり一抹の不安もありました。
午後2時の開廷。
練馬で結果を待つ仲間に送るべく携帯電話をカメラモードにモタモタと設定していると、平井さんが「控訴棄却!」の紙を持って飛び出ていらっしゃいました。

「やったー!」 当然の結果とは言えやっぱりうれしい。琉球新報の知り合いの記者の方に、「良かったですね!」と話しかけると、「うれしいです。ありがとうございました。」と言われました。地域で取り組んだ小さな集会や昨年12月の文科省要請&文科省前宣伝行動など彼がいつも取材に来てくれたことが思い出されて、思わず涙ぐんでしまいました。
その後18時から報告集会があり、判決要旨が出されました。
【判断の大要】には「座間味島及び渡嘉敷島の集団自決については、『軍官民共生共死の一体化』の大方針の下で日本軍がこれに深く関わっていることは否定できず、これを総体としての日本軍の強制ないし命令と評価する見解もあり得る。」とし、地裁判決同様、「控訴人梅澤及び赤松大尉自身が直接住民に対してこれを命令したという事実(最も狭い意味での直接的な隊長命令-控訴人らのいう『無慈悲隊長直接命令説』)に限れば、その有無を本件証拠上断定することはでき」ないとしながらも、<太平洋戦争及び沖縄ノートが出版のころは>「梅澤命令説及び赤松命令説は学会の通説ともいえる状況にあった。」「『沖縄ノート』の記述が意見ないし公正なる論評の域を逸脱したとは認められない。」とありました。
また【証拠上の判断】においては、梅澤が本部壕で自決してはならないと厳命し、村長が忠魂碑前で住民に解散を命じたのを聞いたとする宮平新証言について「明らかに虚言であると断じざるを得ず、これを無批判に採用し評価する意見書、報道、雑誌論考等関連証拠も含めて到底採用できない」としました。この中にある意見書とは藤岡信勝が裁判所に対して出した実にいいかげんでひどい文章で、高裁のこの判断を読んだ時は本当に胸のすく思いでした。
さらに「被告」側弁護人が最終準備書面で展開した、公表されている書籍の出版等差止めに関する基準について判決は厳しい要件を示しました。そして表現の自由に対して「公共の利害に深く関わる事柄については、本来、事実についてその時点の資料に基づくある主張がなされ、それに対して別の資料や論拠に基づき批判がなされ、更にそこで深められた論点について新たな資料が探索されて再批判が繰り返されるなどして、その時代の大方の意見が形成され、さらにその大方の意見自体が時代を超えて再批判されてゆくというような過程をたどるものであり、そのような過程を保障することこそが民主主義社会の存続の基盤をなすものといえる。(中略) 仮に後の資料からみて誤りとみなされる主張も、言論の場において無価値なものであるとはいえず、これに対する寛容さこそが、自由な言論の発展を保障するものといえる。」という判断は、素人の私にも感動的なものでした。
今回の裁判は原告の自らの名誉が毀損されたという怒りから始まったものではなく、「新しい歴史教科書をつくる会」や「自由主義史観研究会」などの歴史修正主義グループとその思想を奉じる弁護士たちによって、日本軍(皇軍)の名誉回復や「集団自決」住民自らが国に殉じようとした「清い死」であるという思想を日本社会に押し付けようとする、非常に政治的なものでした。けれども、地裁判決は重たい事実を抱えて生きてきた沖縄の人たちの証言を具体性、迫真性、信用性があると認定し、今回の高裁判決もまた、上述したように原告側が作り出した「証言」を「虚言」として退け、かつ言論の自由について真摯な判断を示したことに感銘を受けました。
かつての安倍政権はこの裁判を理由として、高校歴史教科書の「集団自決」(強制集団死)記述から軍による強制を削除させました。現在、一定の記述の回復はなされたものの、検定意見はいまだそのままに残っています。原告側は最高裁に上告しましたが、私たちは上告の棄却を求めると同時に、もう一度沖縄の人たちとともに、さらにさらに輪を広げ、文科省・国に検定意見の撤回の声をあげなくてはならないと改めて思いました。
LOL