陽の当たる場所へ

日陰を歩く者は
陽の当たる場所に辿り着くことを夢見て
思考に耽る

世界は遠い

2005年08月23日 | 徒然なるままに
私の生まれは広島で瀬戸内海に浮かぶ小さな島だ。

 自分で言うのもなんだがノンビリした良い島だ。できることならここで一生を終えたくなるような島だった。
 金沢に来て早10年。自分なりに努力していろいろと人脈を築いてきた。それでもあの島での20数年には遠く及ばない。島では私は私個人ではなく、私の“家”も私というアイデンティティの一部になっているからだ。だから、私という個人に信用がなくても、家付きの私にはそれだけである程度の信用がつく。それほど私の“姓”は島では影響力が強い。

 私の父が土木業を営んでいるということは書いた通りで、島でも結構知られている。だから、初めての人に対して単純に「しんじといいます」と名前だけ名乗っても「誰こいつ」ってな感じで通じることはないが、「~~のしんじといいます」というと、大抵相手の人は「まぁ、~~の息子さんね」と一発で通じる。それほど家というものは影響力のあるものなのだ。
 仕事の現場先や店で買い物をしたり、あるいは家に来たオジさん、オバさん、おじいちゃん、おばあちゃんが「まぁ~、しん君も大き~なって」と言ってくれる。昔の自分を知ってくれているというのはよくも悪くも嬉しいものだ。

 それでもたまに里帰りで島に戻ると陰鬱とした気分になる。そこは世界から遠く離れた、あるいは隔離された場所のように感じてならない。

 金沢は本当に良い町だと思うが、別にここに居続けることにこだわっているわけではない。たまたま大学の進学の都合でここに来て、そのまま居続けているだけだ。広島も良い所だと思う。
 しかし、あの島は違う。島は2本の橋で本州とつながっているが、近くの町まで約30分。広島市街までは約1時間掛かる。船でも似たようなものだが、その“時間”が精神的に遠く感じさせる。

 たった30分、たった1時間と思う者もいるだろう。しかし、それは移動の時間だけをみただけだ。当然準備が必要だし、何かの行動を起こすということはそれだけで精神的な気を使う。島から本州に行くという地理的な隔たり等々。
 金沢のように仕事帰りに30分かけてサークルに行くというのとは明らかに違う何かがある。

 この先私がI、J、Uターンのどれになるかは自分でもわからないが、それでもあの島には戻らないと思う。
 それはあの島がイヤなのではなく、自分が成すべき“目標”を持った者の業(うまい表現が見つからないが)のような気がする。