陽の当たる場所へ

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思考に耽る

おバカタレントについて…

2009年01月20日 | TV日記
私は仕事柄帰りが遅くなるので、あまりテレビは見れない。

ただ、年末年始の長い休みがあったので夜テレビをつけてみると、いまだにおバカタレントが画面をにぎあわせていた。

このことについて少し書こう。


正直彼ら彼女らがいつ頃からそう呼ばれるようになったのか知らないが、かなり前のようだと記憶している。

確かに最初の頃は天然な珍解答に笑いもしたが、そういう解答はそう続けられるものではないと思っていた。
何より珍解答というものは滅多にないからこそ面白いのであって、それが続出するとそれが当たり前になり珍解答ではなくなってしまう。

ここには二つの意味合いがある。

一つは、解答者が全員普通の人でたまに珍解答を言う場合。
これはまさかこの人が言うとは思わなかったという意外性を孕んでいるの、珍解答が出た場合はいつでも笑える状況を作り出すことができる。

もう一つは、9割の人が普通に答えて、その内の1割が常に珍解答で答える場合。
これはこのタレントが出た時点で、普通ではありえないような答えをするのだろうなという一種の予期、あるいは期待が見る側に、もうすでに出来上がっているので、その期待を上回るような解答でないと笑うことができない。
これがおバカタレントである。

案の定、チャンネルをたまたま回した時に見た彼らの解答はあきらかに不自然さが見られる。
天然で答えたというよりは、どこか作った感じが拭い切れない。
だから見ていても面白くもない。

これがお笑い芸人のように一種の芸として確立されたものであるのなら、毎度同じ行為でも笑えるのかもしれないが、彼らのはそれでもない。

逆に見ていて辛い。

独断と偏見ではあるが、私的に見て男性ユニットの方はよく知らないが、女性の方ではスザンヌだけがなんとかなりそうな感じではある。

彼女は他の2人とは違う雰囲気がある。
元不良の経歴を前面に押し出す木下優樹菜は見ていても底が浅く、何も感じられな。
里田まいはまさに“ふり”が強く、見ているとわざとそうしているとしか思えない。
その中でスザンヌだけがいつも自然で礼儀正しく装っている分、他よりはましな気がする。

但し、他よりましというだけで、彼女自身に他者を惹きつける魅力がなければ、やはり彼女も早晩消えていくことになるだろう。
SM女王キャラで売っていたあの女性芸人のように…


彼らに対する見方を少しずらし、おバカタレントの存在意義はどこにあるのだろうか?
自分より下の人間を見つけて自分を慰める人がいるように、おバカタレントの活躍を見ることで果たして人は自分の情報や知識量に満足するのだろうか?

私はそうは思わない。
なぜなら彼らの知識量の真偽の程は定かではないが、テレビに出て活躍しているという時点で彼らは一種の成功者だからだ。

ここでは知識の勝ち負けと経済の勝ち負けが混ざっているが、知識=学歴の差はそれが経済的な優劣に結びつくからこそ意味がある。

なのにおバカタレントの存在はそれとは真逆の存在といえる。

知識では劣っているのに、経済的には成功している。

つまり彼らの存在意義は、タレントというものは“何でも売ることができる”ということを証明したことにあるのではないだろうか。

歌手の歌唱力や俳優の演技、モデルのような美しさ、お笑い芸人のような芸や話術といった独特な才能がなければ生き残ることができないような世界で、“無い”ということを逆に才能として売る。

それはたまたま放った一言で暫く話題になったような人とは明らかに違う、知識・情報が無いことによる話術(解答)がもたらした継続的な人気。

おバカタレントがブームとしてもてはやされてきた要因はイロイロあると思うが、私はその一因の中にこれをみる。


ただし、彼らには何もないが故に次に続かない。

頑張って修士まで出た私としては、知識が無くても別に大丈夫だという風潮をもたらした彼らの存在をあまり快くは思わないが、だからといって消えて欲しいとまでは思わない。

今年の年末も彼らがテレビをにぎあわせていることを願い。