陽の当たる場所へ

日陰を歩く者は
陽の当たる場所に辿り着くことを夢見て
思考に耽る

井の中の蛙、大海を知らず されど…

2006年04月07日 | 徒然なるままに
俺が金沢に居続けるという選択をしたことに対して周囲から疑問を投げかけてくる人がなぜか多い。

別に金沢にこのまま永住すると決めたわけでもないのだが、なぜ今年に限ってこんなに多いのかが不思議だ。

その人たちの疑問は全て同じでこんな内容。

“金沢は住むには良い所なのかもしれないが、将来的なことを考えるとはたして良い所なのか?”

この“将来的な”という部分に入るのが、職業であったり、情報であったりする。

確かに、何かをしたいと思ったときに、それが金沢でできない場合、大阪・名古屋・東京に出るしかない。
都市にはそういう利便性があるは事実だと思う。
そう思うと確かに金沢に居ることの不便さを感じないではない。

しかし、だからといってスグにも金沢を離れて都市圏に移りたいとも思わない。

ここにいるからこそできるというものもある。

聴覚障害者の活動もその一つだ。
地方ではできないサービスや技術の凄い活動者が都市にはいる。
そのような既存のサークルに入って活動するのも、自分の腕を磨くには良いと思う。
その一方で、都市でやられているサービスをなんとか地方でもできないものかと苦しみ模索しながら構築していく楽しさが地方にはある。

どちらが良いのかは都市での体験をしていないので比較できず、正直わからない。

広島に帰った方がよいという人、神戸に来て欲しいと言う人、イロイロ。

でも、ここで暫く頑張ってみたいと思う。

井の中の蛙、大海を知らず されど、空の高さを知る

餅は餅屋なのだと思う

2006年04月07日 | 映画日記
昨日、NHKでスタジオジブリの鈴木敏夫さんの特集しているのをチラッと見た。
そこで今までジブリ映画について思っていたことについての思いを少し。

4月1日の映画の日に一応映画館に行ったのだが、面白いそうなのがないので止めた。
その時、近日上映のCMで『ゲド戦記』を流していたので見ていると、声優がほとんど俳優だった。

映画の吹き替えに俳優があたることは前からあったが、それに拍車をかけたのは明らかにジブリだと思う。

これは個人的な意見だ俳優の吹き替えは明らかに下手だと思う。
声優だと「この人こんな役も吹き返してた」のという意外性に驚かされることが多々あるが、これが俳優だと“声”から俳優個人の姿が透けて見えるような気がする。

吹き替えは声で映像に生命を吹き込むハズなのに、声優の声からはそれをほとんど感じない。

この度の『ゲド戦記』も「声優にこれだけ有名な俳優を揃えたんですよ、どうです、すごいでしょ!」といった、『ゲド戦記』そのものの内容よりも、登用している俳優の有名人勝負になっていて正直観る気をなくす。

これは研究も同じで、一般に有名な、あるいは権威と呼ばれている学者の論を持ってきて論文を作成しても、それが正しいということにはならない。

確かに一流の学者の論は、その世界で広く認められているからこそ一流なのである点から、それを自論に用いることで「まぁ、あの人の論に沿っているなら正しいかもね」という風に他者への説得の簡易化はなされるかもしれない。
だが、一流研究者の依拠による自論の説得の簡易化と自論の正しさは同じではない。
自論の正しさはあくまで、論の構成によって説得するしかない。

映画の面白さも同じで、『ゲド戦記』は既に物語として優れているんだから、後はこの物語を活かす声優を見つければいいのに、それを安易に(かどうかはわからないが)俳優を充てている時点でジブリは間違っていると思う。

といっても食わず嫌いの状態で何を言っても説得力がないので、観なければ話にならないのだが、少なくとも映画館に足を運ぼうとは思わない。