goo blog サービス終了のお知らせ 

1960年代生まれの音楽メモ。

好きな音楽やあの時観た映像をクリップしておくブログ。

どうだろう?

2014-03-20 21:09:47 | その他
「わしゃ、ちゃんと、やさしくてバカ正直な人間が、笑ろうて生きていける国を造れたんかのう?」 坂本龍馬 ドラマ「」(2009年-2011年) 最終章 前編。

坂本龍馬が今際の際に口にするこのセリフ、悪意だったり、人を怒らせて満足したり、人のせいにしたり、そういうことが蔓延するご時勢(2009年-2011年)のなかで(蔓延するご時勢だから?)、そういう人たち(悪人)ではない人たちの希求1)をしゃべらせた、ということかなあ。このセリフのあと、最終章 後編のラストシーンは、「闘え」と、まるで応援歌みたいだ。

公職の適正。

2014-03-10 21:04:04 | その他
ある人物が公職に適役かどうかを判断する「根拠」に、その人物の考え方や行為を根拠にすることは、人権や民主主義といった価値観からは、真っ当なことだ。どういう考えで何をしようとしているのかを聞いて判断されることはまさに、公職に就いている/公職に就こうとしている人が受けるべき洗礼だから(民主主義という価値感の下においては)。

いっぽう、性別や年齢、血液型や人種、門地出身といったものを根拠にすることは、差別主義だ。人権や民主主義といった価値観とは正反対の価値観、人権や民主主義といった価値観では最も許容できない価値判断だ(相容れない価値観の一つ、ではなく、最も正反対の価値観)

でも差別主義者にとっては、違う。差別主義者にとっては、それ↑は真っ当なことだ。真っ当というか、自然なことだ(堂々と差別主義を提唱する人はもちろんのこと、仮に繕っていても(仮面人権主義者)、そういう人の口からは、自然にポロッと出るだろう。失言というやつですね。当人や擁護者は、そこにそんなに噛み付くな、拘るな、大したことじゃない、と言うだろうけど、多くの場合、そこにその人の本質が現れている)。

それが「価値観」というものだよね。

ソチオリンピック。

2014-02-22 07:40:41 | その他
葛西選手、真央ちゃん、羽生選手、大ちゃん、愛子選手、よかったなあ。メダルの有り無しとか色とかいろいろあるけど、やりきった感じ、解き放たれた感じ、何かを目指した生き様、最高のものを見させてもらった感じ、よかったなあ。(^-^)
他にも皆さん、当人の凄さとは別に、たんに私が知らないという意味で初めてお目にかかる選手の方々。
こういうものを観させてもらって、凡人の私は明日もまた頑張るのだ。(^o^)

監視カメラ。

2014-02-12 23:12:59 | その他
監視カメラ再び

ネットワークに繋がっている他人のPCを踏み台にした犯罪の容疑の決め手のひとつとして検察が出した監視カメラの映像が、映っている人がガッツポーズをしたかどうかも分からない映像だったそうです。それでは都合のいいように「解釈」出来てしまう。「主張」のし合いになってしまう。「証拠」にならない。こういうニュースを見ても、つくづく思う。宇宙から人ひとりが把握できるくらいのカメラがあるのだから、揉め事や犯罪の加害者から人々の身を護るために、街中の監視カメラは、指一本一本の動きまでわかる高精細のものを、くまなく途切れることなく死角なく設置して欲しい。

2013年に思った、監視カメラ。

2014-01-15 22:25:51 | その他
これはテレビを通してではなく実感として。

2014年に新しい予感を感じた一方で、2013年の数年くらい前から思うようになったのが、駅とか店とかビルとか繁華街の通りとか、公共の場に監視カメラが付いていますよね。あれ、主要ダーミナル駅の半径3km以内、すべての駅の半径1km以内について、つまり用事があって必ず通る場所、特に用が無くてもふらっと日曜ぶらり旅ででも訪れる可能性がある範囲について、くまなく死角なく途切れることなく高精細のものを設置してくれないかなあ、ということ。というのも、いつの頃からか、公共の場で、ただ歩いているだけで、あるいはただ居るだけで、こそっと何かされることが増えてきたような気がするからです。

もし、抗議した結果相手が居直って言い合いやトラブルになってしまったとき、公の組織に相談したら、どこで起こったのですか?何時何分ごろ何丁目何番地何通りですね?じゃあ何番カメラですね、といって淡々と、何が起こったのか、競馬の僅差判定のように、両者主張することなく、粛々と映像を再生して事実を確認できるようになって欲しい。事実を確認したうえで、こちらの行動は不可抗力なのか、正当防衛なのか、過剰防衛なのか、という議論は起こるかもしれません。でも、そもそも何が起きたのか、誰が何をしたから何が起こったのか、誰が何をしなければ何も起こらなかったのか、その「事実の部分」を「決める」のに、がなったりわめいたりした方の「主張」が通るのでは、疲れ万倍だから。疲れるだけでなく、事実同定(!?)から偏見固定観念を取り除く(FLIGHT #03 緊急着陸※)という意味では、もしかしたら、「不正」と「正」を分けるとっても大事なことかもしれないですね。あるいはもしかしたら、当たり屋のように、故意の詐欺じみた行為もあるかもしれません。故意はあるような気がするなあ。そうなると、もう犯罪から身を守る体です。

もっというと、タクシーなんかが最近付けるようになったドライブレコーダーというのがありますよね(最近は、車室内を撮るカメラを取り付けてある場合も多い)。あれの人版が出来て広まらないかなあ、と思うこともあります。あれがあれば、人に割り込まれてぶつかってしまったときなど、いや、あなたのその無理な割り込みでは仕方ないでしょう、とか、本来不要なはずだった無駄なエネルギーを費やして主張することなどなく、「何があったのか」「事実」を共有できます。ウォーキングレコーダー(!?)などというとエッ?とも思うけど、でも、初めてペットボトルで水を売っているのを見たときは、水って、店で買うもの?とびっくりしたけど、いまや銘柄選びを楽しんでいます。初めて「セコムしてますか?」のCMを観たときは、一般の企業や個人の住宅に監視カメラなんて要るの?とギョッとしましたが、いまでは企業やマンションに付いているのは普通だし、一戸建てのお家でも、付いていても不自然に思わないですよね。時代はそう流れているのだ、とも思います。

2003年頃は、監視カメラの設置に反対、権力による監視社会の到来は怖い、と言った映画を共感して観ましたが、今は違う。日々の現実問題として、権力に何かされるよりも、普通の人に何かされることの方が怖い。その可能性確率の方が高いというのが実感です。

 うらみや欲求不満を抱く人が増えた、ということでしょうか(自分が自分の望み通りでなければ(自分が自分の思い通りに通用しなければ)、「悪」になりますよね)。

※実態・事実がではなく、属性・立場が「弱者」ということになっている方が「不当に」有利に判断されたりしますから。「弱い」ことを「武器」にする不気味な社会が到来してないか?ということも、「呪いの時代」(2011年発行)という本に書いてありました。(2009年-2011年, 恥知らず

※※偏見や固定観念 ←→ 柔軟性があり融通が利く頭。