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“ 嵐が吹き消した 恵みのろうそくを 再び取り上げ、それに新しい明かりを灯さなければならぬ。” 教皇ヨハネ二十三世

file.no-71 『聞き書き ダライ・ラマの言葉』

2007-04-18 16:22:14 | 書籍
1949年、中華人民共和国は、隣国チベットに干渉を始め、1951年には人民解放軍2万人を投入。チベット軍8000人を粉砕し、侵略した。
チベットは、インドに亡命し、1961年以降同国北部の都市ダラム・サラに亡命政権を樹立、現在に至る。六万人からのチベット人が、中共の圧制を避け、インドに脱出している。

本書は、このチベット政府の最高責任者であり、かつチベット仏教ゲルク派最高位のダライ・ラマ14世ことラモ・トォンドップ氏の法要や日々の会話からの言葉を聞き書きにしたものである。

『聞き書き ダライ・ラマの言葉』
  松本榮一  NHK生活人新書  2006年


私は、東洋史、それも中国唐代史を専門にしていたせいか、「中華人民共和国が好きなのね」と、よく他人から言われます。
断じて、ノンです。
私は、現在の中共は、好意的な感情を持ちません。清朝末期、蒋介石、毛沢東以降のあの国の迷走ぶりを見るに、敢えてチャンコロ!と叫びたくなることこそあれ、好きになるなどありえません。
国家間の交渉が、誠実で理性的な「対話」であるべきだとされる現代において、いまだに発狂的にいわゆるA級戦犯だの教科書だのと難癖を付ける彼らをみるに、本当に学校教育を受けてるのかと首を傾げたくなります。傍若無人だとしかいいようのない、いわゆるならず者国家ではないかと。
大体、他国であるチベットを侵略しておいて、平然と「文明化してやる」と言い放った毛沢東とその後継者の主宰する国を好きになれるわけがない。毛沢東といえば、「大躍進」で餓死者2000万人、「文化大革命」で自国の古来からの文物を殲滅しかけ、1000万人を投獄・虐殺したロリコン独裁者です。サダム・フセイン元大統領より、毛沢東を殺した方がよほどアメリカの評判を上げたと思うほど。

ダライ・ラマ14世は、中共の侵略に対し、全面的なチベット独立を目指さず、中共の傘の中での自治を求める非暴力主義が評判を呼び、ノーベル平和賞を受賞した人物です。私はアジアで生きた人々のなかで、マザー・テレサに次いでこのダライ・ラマ氏を尊敬しています。
NHK出版が、彼の言葉を新書という形で日本に紹介しようという出版企画にゴーサインを出した事には、拍手を送ります。
日本の仏教は、「葬式仏教」と酷評されるほど、現代では一般人からその存在が乖離しています。寺に行くのは、葬式関係の「行事」の時だけ。仏教の仏神に至っては、せいぜい学校で本地垂迹説のような神仏習合について学ぶ位でしかない。世も末です。
翻って、東南アジアやインドのような地域では仏教を信仰する人々は、日常の中にその教えを活かしている。モノの考え方、生き方の指針に、仏教の説くものを多く活かしている。

ダライ・ラマ氏は、自身が政府の最高責任者でもあるという、いわばローマ教皇と似通っている部分が多い。その発言は、ともすれば政治的に受け取られてしまう。
ですが、氏の言葉を読んでいると、深い仏の慈愛を感じる。
悩み苦しむ人々に、生への希望を喚起するための言葉を渡す。
氏は言う。
普遍的な愛とは、いわば感覚であり、それは宗教的なものとして扱われるべきではない。信条や宗教の別に関わらず、人間は普遍的な愛を持つことが出来るのだと。それはなぜか。
それは、「他者への気遣い」だからだ、と。

私は、信条・宗教に関係せず、他人への気遣いから、ヒトは皆この人類社会で共存していけるはずだというこの言葉に、強い感銘を受けた。
いまアメリカと中東は争い、流血が続いている。口火を切ったのは、アメリカであるにしろ、この不毛な争いを収めるためには、このような言葉を双方が実践するほかないのではないか。キリスト教とイスラム教は、どちらも唯一神を信ずるがゆえに、いかなる主義主張も双方受け入れにくい。
だが、「他者への気遣い」という明快な言葉なら、せめて言葉での対話のきっかけにはなるまいか。現状のままでは、ただ消耗するのみである。
普遍的な愛と個人の愛とを天秤にかけることで、争いを縮小させうるのではないか。

本書には、ダライ・ラマ氏が、四諦や八正道、いわゆる仏陀の説く仏教の基本的な考え方について述べたものについて人々に説く様子も描かれている。その様子は、平易な言葉を使い、分かりやすいようにと心を砕いている。その様子は、「無私」の姿を感じる。
人々の中に、信仰という支えを渡し、希を持って生きていけるように努める無私の姿が。
日本でも、仏教の様々な宗派の人々が、その教えについて説いた本を著している。
また、人々を寺に招いて教えを説いているのも知っている。
しかし、氏の様に無私であろうとしている人々は、さていかほど居るだろうか。

宗教というものは、生と死との渡し守であり、自然と人間、あるいは人間々での仲介ではないかと、私は考えています。
けして、宗教者というものは、他の人間よりも貴いものではなく、他者の為に在ろうとするその倦まぬ弛まぬ行動によってこそ、ダライ・ラマ氏のように尊ばれるようになるのだと、信じます。
「対決」より「対話」を重んじ、慈愛をと理性を持って静かに、それでいて熱く説く氏の姿勢を、多くの人に知っていただきたいと願います。
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