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“ 嵐が吹き消した 恵みのろうそくを 再び取り上げ、それに新しい明かりを灯さなければならぬ。” 教皇ヨハネ二十三世

BL小説十冊購入。

2007-04-11 19:38:30 | Essay

ここ数日、いわゆるボーイズラブ小説というものを読み漁っている。というのも、BL小説のビッグ5のひとつであるリーフ出版という出版社が倒産したためです。

書籍というものは、新刊として刊行された商品は、ほぼ四ヶ月は委託商品として書店で店頭に並ぶ。その期間内であれば、返品が原則可能である。四ヶ月を越えた商品は、原則として注文商品、条件付返品商品となる。「原則」としたのは、実際にはこれを厳密に適用したら、いかな大型書店といえど、商品の仕入れ販売が困難であるために、営業に甚大なる支障をきたすからである。
しかし、出版社自体が倒産した場合、店頭にある商品は返品が一切できなくなってしまう。
これは、私の勤める店舗でも同じ事。・・・そこで、私は返品できなかったものを自分で購入して読んでみたのです。

ううむ、なんともはや、いかがわしくも文学的、禍々しくも叙情的、少年同士、青年同士、あるいは青年と少年との間での恋愛物語でございました。こういうものを、世の『腐女子』と呼ばれる人々は嬉々として読み耽っていらっしゃるのだなと思いました。

十冊ばかり、購入して読んでみました。その中で感じた違和感について、読後に考えたことを述べてみます。

なぜ作中では、「美形」と分類される「年若き」人物ばかりが同性で恋愛、セックスをするのだろうか。

美形については納得できます。人間は一般的には醜いものよりは美しいものの方を好む傾向にありますから。首を傾げるのは、「年若き」という点です。
青年やら、少年やらが作中で様々なトラブルを経、エンディングでは永遠の愛を誓い、「ずっと一緒だ」とかなんとか言いながら幸せな結末を迎える・・・それは結構なのです。ですが、若者が誓う「永遠の愛」など不確かなもの。現実には、熟年離婚の例は言うに及ばず、最近では三十代での離婚すら珍しくも無い。異性同士でさえ、この有様。まして同性同士ならば、その脆さは何をかいわんや。
作中の「愛」は、往々にしてセックスすることによる快楽が多くを占めているように感じます。セックスして自己紹介とする、とでも申しましょうか。
セックスして、「可愛いね」、「愛してる」だの睦言を囁く。まるで、いわゆるハーレクイン小説のよう。
彼らの愛は、年を取り、肌が皺を刻み始め、体がたるみ贅肉がつき、いわゆるノネナール臭がするようになっても、変わらずセックスをし睦言を囁けるのだろうか。
「これは所詮、お話である」と割り切れば、私の抱く違和感などはさしたる問題ではないのでしょう。
しかし、私が読んだ小説はいずれも似たようなものでした。

男が二人、出会い、あるいは以前からの知り合いであったり、相手が自分とは別の人間と接することに嫉妬を感じたり、普段の諍いなどから急に相手を意識しだす。そしてセックスをして、そしてなぜか初体験のはずなのに、 とんでもない快楽 を感じ、双方汁まみれになる・・・。そして、二人は愛を確認してハッピーエンド。

このパターンは、王道なのでしょうか。王道には王道たる所以がある。決まった順序、手続きがあり、それを踏襲することには意味が有る。
ですが、私がBL小説を読んで判じた、それが王道であるというのならば、私の言葉は次の一文に尽きます。

時代劇ドラマにありがちな、勧善懲悪の筋書きにそっくりである、と。

時代劇ドラマの功罪はいろいろあるでしょうが、私が学生時代に教授から伺ったことを述べるなら、「歴史をあまりに単純化しすぎだ」ということ。
例えば、御長寿ドラマ『水戸黄門』。あの時代、徳川光圀は諸国を漫遊し、オーホッホッホと笑いながら、諸藩の悪政を應懲していた事実は無かった。にも関わらず、あのドラマの影響で、江戸時代は幕府を始め諸藩は農民から税を収奪して贅を尽くした暗い時代であったと考えられていた時期がありました。私は、幕末の雄藩であったかつての宇和島藩の土地で暮らしていますが、小学校では人権の授業で、どれだけ藩というものが悪辣だったかを説明されました。地元の歴史を自分で資料で読むと、それが誤りであったのは明らかなのですが。
創作話を繰り返すと、言ってる本人も、聞いてる(あるいは観ている)人間も、それを事実と認識し始める。

・・・話がずれましたが、要は、王道のパターンでしかもまったく同じ対象で商品を作りすぎると、読み物としては退屈となってしまうのではないか。
王道であるがゆえに、現実をまったく顧みない妄想の産物となってしまい、読み物としての価値を著しく損なってしまうのではないか。
王道であるがゆえに、現実そのものからますます興味を失うのではないか。
・・・そう考えるのです。

似たような話、筋書きでは、読者が飽きるというのは、小説、漫画に共通するものです。よほど、その性向に合致するものは別ですが。
読み物というのは、読者に対してなんらかの影響を与えることに価値があると、私は信じます。例えば、冒険小説は少年の心に探究心を養うでしょうし、恋愛小説は少女の心に恋へのときめきを養うでしょう。それは少年少女にとって、こころの肥料となるはず。ですが、男同士の恋愛話を、それも似たような話を知りたいのなら、妄想話を読むよりは、新宿二丁目にインタヴューしに行きますよ。実際、私はあそこで恋愛話を伺ったこともあります。
似たような妄想話をくりかえし読んでいると、現実の同性愛問題から、ますます目をそらすのではないでしょうか。現実の愛というものは、異性間、同性間を問わず、奇麗事だけでは済みません。愛を誓った相手から、妊娠五ヶ月の腹部を蹴られることも有る。性交渉による性病、エイズ。考え方の不一致から、永遠を誓った一週間後に、決別することもある。愛するあまり、ストーカー行為に走り、拉致監禁に至ることも。強姦、自殺することさえある。
そういった現実から、目をそむけてはいますまいか。さまざまな問題に苦悩し、それでも歩き続けるのが、現実の愛である。
けして、BL小説に書かれるようなものではないでしょう。私の姪が、たまに言います。
「本は嫌い。ウソゴトばっかりだもん」
実はその通りで、ノンフィクション以外の本は、当然ながら虚構である。偽りの世界である。
読者を納得させえないものが支持されるわけが無い。いかに読者を、その偽りに惹きつけるか。虚実皮膜の間の妙を、巧みに表現しえるものが生き残るのでしょう。

いかなるものも栄があり、衰えがある。衰えに耐え切れなくなったとき、終わりが来る。
リーフ出版が倒産した多くの要因のひとつに、私が感じたこと思ったこともあったのではなかったのでしょうか。

なお、今回私が読んだBL小説は、昨日店のバイトさんに読むなり売るなり捨てるなり、好きにしてほしい、と押し付けました。
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