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“ 嵐が吹き消した 恵みのろうそくを 再び取り上げ、それに新しい明かりを灯さなければならぬ。” 教皇ヨハネ二十三世

神殺しがいかなるものか

2005-12-06 23:32:37 | Essay
神殺しがいかなるものか。

『ワンダと巨像』というゲームがあります。私はプレイしたことがありません。
・・・が、なぜか洋書の攻略本は購入しました。
全文英語、ですが、写真は豊富。しかもエピローグまで、しっかり掲載というモノ。日本では、未だ攻略本が発売されていないので、尚更インパクトが強いです。

このゲームについてのレヴューではありません。今回は、『神殺し』というモノについての問わず語りです。
ゲーム『ワンダ~』では、主人公ワンダは、死んでしまった少女を蘇らせるために、“古の地”と呼ばれる禁域で、そこに御座す巨像たち・・・巨大な神々を殺していきます。
まさしく、それは『神殺し』。
攻略本を読むかぎり、ゲーム後半から、巨神を信仰する集団が登場するようです。そして、すべての神々を殺した結果、死んでいた少女は命を吹き込まれます。
ですが、その代償に、ワンダは、黒い影にその身を覆われ、頭部には異形の『角』が生えてしまう。彼は、影に覆われたまま、少女の前から去ります。
どうも、この『頭部に角を生やした』という所が、前作『ICO』につながる伏線のようです。

神を殺すとは、どんなことなのでしょうか。
日本人は、所謂、多神教を信じる人々です。神社、寺院。山の神、海の神、諸々の仏たち。
人を見守り、困難の時には導きもするこの神々は、アラビア以西の一神教とは性格を大いに異にします。
前にレヴューにも書きましたが、最近はローマ人への関心が高まっているのでキリスト教についても述べてみます。
キリスト教がローマ帝国で国教となったのが、帝国の衰退も激しいA.D.380年。それまでローマの神々を認めようとしない、この一神教は多神教徒の帝国国民から迫害を受けていました。それが、この国教化以降、関係が逆転します。
博愛をモットーにするはずのこの宗教は、多数派となったのをいい事に、ローマ古来の神々を排除する動きに出ます。巫女や信徒を捕らえ、処刑し、その財産や財宝を収奪し、神殿を焼き、自分たちのそれとは異なる神を信じる人々とその神々とを容赦なく排撃しました。
安住の地を求めて、古来の神々を信じる人々が少なからずローマ帝国外へと移ったのもこの時期のことでした。
この場合、一神教を信じる人による神殺しといえるでしょう。

日本は幸いながら、一神教に染め上げられることがなかったので、末期のローマ帝国のようなことはありませんでした。多神教の人々は、あらゆるものに神を見ます。
木々の木の葉に、川の水面のきらめきに、炎のゆらめき、岩や土塊にすらも。
そうすることで、自然への畏敬を忘れず、共生できるのでしょう。この様な場合、神を新たに見い出すことはあっても、神を殺すなどということは想像すら出来ないでしょう。
この意味において、『神殺し』をテーマとするこのゲームは異端と言っても良いでしょう。

日本人は、神なき人々と言われるようになったのが、高度経済成長期以降のこと。
山を拓き、海を埋め、水や空気を排煙で汚し、奇蹟の経済成長を達成した裏で、それまでの自然との共生は破綻しました。あの頃から、都市でも地方でも、神々への祭礼は廃れていったとのフィールドワークの結果もあります。
今の日本で、いったいどれくらいの若者達が、古来から続く神々への祭礼を覚えているでしょうか。
考えてみれば、そういった祭礼、儀礼が、文化指定を受けて保護されねば忘れ去られていく一方だということは、ひとつの異常なことではないでしょうか。

神殺しのゲームをとおして、少年あるいは少女、あるいは青年達に、「神とは何か」ということを少しでもいい、考えていただきたいものです。
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