Flour of Life

煩悩のおもむくままな日々を、だらだらと綴っております。

朝井まかて「先生のお庭番」

2015-02-17 22:44:52 | 読書感想文(時代小説)


先日の「恋歌」に続き、朝井まかての「先生のお庭番」を読みました。

長崎・出島の商館の医師シーボルトと、彼に仕えた少年庭師の物語です。

長崎の植木商・京屋に奉公する熊吉は、出島にあるオランダ商館の医師シーボルトの依頼で、シーボルトの出島の館に薬草園を作る仕事を任される。それは京屋の主人の伝右衛門が熊吉をひいきすることへの、京屋の女将と跡継ぎ息子の嫉妬からくる嫌がらせだった。
雇われた当初は何をしていいのかわからずまごついていた熊吉だったが、シーボルトやその妻お滝、使用人のおるそんらと心を通わせ仕事に励むうちに、一人前の植木職人へと成長していく。しかし、シーボルトの帰国が決まり、熊吉は彼のある秘密を知ることとなり…。


シーボルトについては歴史の教科書に載っているレベルのことしか知らない私なので、予備知識ほぼなしの真っ白な状態で、この小説を楽しく読むことができました。ああよかった(←ほんとにそれでいいのか)。

ですが、この小説が面白いのは、主人公が歴史上の有名人であるシーボルトではなく、彼に仕えた名もない庭師の少年というところです。彼の目には、現代の私たちが当たり前のように思っている西洋の文化がとても珍妙に、なおかつ美しく映っているのが興味深いです。序章、お滝が茶道の作法とそっくり同じやり方でココアを淹れる様子を見た熊吉が、ココアの粉末を土だと思い込んでいるのが面白くて、この場面を映像で見てみたいと思いました。

逆に、シーボルトが熊吉に日本の自然の美しさ、職人たちの技の細やかさや人々の勤勉さをやたら絶賛するのが、ちかごろテレビでやたらやっている「日本人はすごい!」「日本製品はこれだけすぐれている!!」的な自画自賛番組みたいでむずがゆかったのです。でも、物語終盤にシーボルトの帰国が決まり、シーボルトとお滝の間に亀裂が生じたときには、“これまでの日本礼賛は何だったのか”と、私もお滝や熊吉と一緒になって悲しくなりました。それくらい、出島での彼らの生活は微笑ましく、穏やかで心温まるものだったからです。この幸せがいつまでもずっと続きますようにと、読者である私も願いたくなるほどに。

世に言う「シーボルト事件」は、この小説の中にも出てきました。通詞の吉岡正之進やその弟の忠次郎など、事件に巻き込まれた人々が小説の中でいきいきと描かれていた分、歴史の授業で聞き流した時よりも、この事件の重大さが伝わってきました。もちろん、シーボルトのそば近く仕えていたものとして、熊吉も過酷な取り調べを受け、傷つけられ、血を流しました。「恋歌」の時もそうですが、こんな風に、歴史に名を残さない市井の人々が、歴史上の事件の犠牲となっていることをテ寧に掬い上げているところが、この作者の上手いところだなぁと思います。きっと、私たちが気づかないところで、歴史上の事件の犠牲になっている人たちはたくさんいるのでしょうね。これからは、英雄と呼ばれる人の物語だけではなく、こういった名もない人たちに目を向けた物語をもっと読みたいです。

物語の最後は、シーボルトとお滝の娘のいねが、成長して医者になり、熊吉の元を訪ねる場面で終わります。そこで、新種のあじさい(後に既存の種と判明)にシーボルトが「オタクサ(お滝の愛称)」と名付けたという有名なエピソードが出てきます。感動的なエピソードですが、シーボルトの真意はさだかではありません。この小説の中でも、シーボルトはお滝を純粋に愛しているけれど、その一方で母親に宛てた手紙では、お滝が遊女上がりだということを隠して、名家の娘だと嘘をしたためています。彼の本心はどうだったのでしょう。でも、シーボルトがこうした矛盾を抱えていたのだとしたら、彼の心の葛藤と人間臭さが感じられて、ただひたすら純粋にお滝を愛していたとするよりも、かえって「オタクサ」は本当にお滝の名前が由来なんじゃないかと思えてきます。

この小説は主人公の熊吉をはじめ、登場人物が魅力的で物語も明快なので、ドラマ化したらいいのになーと思います。シーボルトの役を誰がやるのかが難しいけど。いっそ「テルマエ・ロマエ」みたいに阿部ちゃんにやってもらうとか?毎回、ルシウスみたいに日本の自然や文化に激しく感動する阿部ちゃんシーボルト…ちょっと見てみたいかも。小説とは完全に別物になっちゃいそうだけど(汗)



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