横浜外国人墓地
快楽亭ブラック(初代)について
本名は最初、ヘンリー・ジェイムズ・ブラック、帰化後の日本語名は石井 貎刺屈(ぶらっく)。
1858年12月22日生まれ、オーストラリア出身。
明治・大正に活躍した。
推理小説家、催眠術師を兼ねる。満64歳没。
(ウィキペディアより一部加筆)
この前の日曜日、ちょっと遠出して歩こうということになって、横浜・元町(神奈川県)へ出かけました。
異国情緒ある街で雰囲気を楽しみながら、ガッツリ、ウォーキングしたかったからです。
外国人墓地の前を通ると、休日だからでしょうか、墓地内が公開されていたので、
立ち寄って見学することにしました。
手続きを済ませると、一枚の紙をもらいました。
公開順路の案内図で、埋葬されている人物の名とお墓の場所、そして功績が書かれていました。
ざっと目を通すと、「6.ブラック」のところに目が留まりました。
「最初の外国出身落語家」とあります。
明治・大正の時代に外国出身の落語家がいたですって!
どんないきさつで落語の道に進んだのか興味が湧いて、調べてみることにしました。
以下、超簡単にブラックの経歴をまとめてみました。
- 1865年、新聞記者として日本に滞在していた父の後を追い、母とともに来日。
(この時、ブラック、6歳くらいか。) - ブラック、18歳の時、父親は上海に渡るが、ブラックは単身、日本に残り、
西洋奇術を披露し始める。 - 一時、アメリカで母親と生活するが、1878年、再来日し、
講釈師2代目松林白圓に弟子入りする。「英人ブラック」を名乗る。 - 1880年、外務省とかけあい、寄席に出る許可を取得するも、親戚・知人の猛反発にあい、
一時廃業し、英語塾を開く。 - 1884年、演芸の世界に戻り、三遊亭圓朝らの属する「三遊派」に入る。
- 1891年、「快楽亭ブラック」と名乗る。
- 1893年、日本人女性と結婚し、日本国籍を取得。本名を「石井 貎刺屈」とする。
- 1896年、日本初の催眠術の実演を行う。
- 1903年、日本初のレコード録音を行う。
- 1908年、人気の凋落が原因か、自殺未遂騒動を起こす。
- 1923年、自宅で死去。満64歳であった。
(参考:ウィキペディア)
ブラックは非常に多芸の人で、評価も高かったのだそうですが、晩年は不遇の時代を過ごしており、
とても胸が痛みました。
現在、ブラックを偲び、墓前祭が行われているということで救われた思いがしました。
ブラックが初めて行ったレコード録音によって、明治の落語家名人の肉声が後世に残されました。
もっと詳しく調べたら、彼の残した功績はもっとあるかもしれません。
<外国人墓地の様子>
墓地正面・山手門(左)と門のそばにある資料館(右)。
資料館には埋葬されている人々の功績などを記したパネルなどが展示されている。
墓地内の様子。普段は公開されていないとのことです。
マリア像
墓地で昼寝する猫
蚊がたくさんいて、タイツの上から刺されました。(マイッタ!)
外国人墓地は明治以来、政府から諸外国公館(各国領事団)に貸し与えられた5,600坪(約18,500㎡)の広さを
持つ墓所で、地方自治体や国の管理下にはなく、「公益財団法人 横浜外国人墓地」が管理しているそうです。
この広大な墓地の維持・管理をする為には年間に多額な資金が必要ということで、
(墓地内の植栽や清掃、水道費用、スタッフの賃金など)
毎年3月末から12月末まで毎週土・日・祭日(雨天を除く)に、
「募金の為の墓地内一般公開」としてOPEN HOUSEイベントを行い、募金を集めているのだそうです。
よって、普段は公開されていないこと(観光スポットではなく、あくまで墓所である)、
入苑するには寄付金(200円~)を出すこと、
また、イベントを運営している人達はボランティアの方たちであることなどをよく理解し、
節度ある態度で見学したいものです。
横浜外国人墓地公式HP : http://www.yfgc-japan.com/index.html