
一歩出ると、かなり風が強く、公園の桜は花吹雪となって道路に溜まっている。
昨日の雨と今日の風で、桜も終わってしまいそうだ。
今日は私一人なので、迷子になる心配のない「つりがね池」を目指したのだが、見事に勘違いして道を誤り、大廻りの末やっと「つりがね池」に到着できた。
しかし道を間違えたお陰で、通ったことのない道端に、念願の青いハナニラを見つけることができた。
ところが電柱が邪魔でうまく写真が撮れず、青いハナニラの証拠はになってない。
つりがね池も一面に散った桜を浮かべ、いつもよりは散歩客も多かった。
仙川沿いもつりがね池も、見ている間に桜は花吹雪になって舞い落ち、枝がどんどん寂しくなって行く。
つりがね池から祖師谷公園に戻り、一昨日は人の少ない東側を歩いたので、今日は桜より人を見る覚悟で、セキレイ橋から西側の原っぱを写真に収めた。
時折吹く風の中、シートの上の花見客、テントまで張っているグループ、帰り支度をする人たちなど、他人事ながらお花見の雰囲気を味わうことができた。





今日は昨日と同じく、谷底公園まで行き、昨夜ネットで見つけた「清稲荷大明神」のしだれ桜を探しに行くことにした。
方向感覚に自信のある夫のおかげで、しだれ桜は見つけたが、まだ満開までに日にちがありそうだった。
車が通る坂道なので落ち着かず、満開の頃にでも出直すことにして帰ってきてしまった。
あとになって肝心の「清稲荷大明神」を確認しなかったことに気づき、残念だったが戻るには疲れ過ぎていたので諦めた。
徒歩だとどうしても、車の通る道は苦手になる。
しかし、その坂道自体は、明るく開けた気持ちのいい道で、満開のソメイヨシノの他、山桜も美しかった。
帰路はまた、成城街の「ちょっと来い!」生垣に廻ったが、今日も鳴き声は聞こえなかった。
満開の桜並木の下、いつもより人通りの多い住宅街をカメラに収めた。
行きたい散歩道は色々あっても、結局は無意識に気に入った道を歩いてしまうようだ。
明日からは夫の病院通いが続くので、せっかくのお花見時期だが、二人一緒の散歩はできない。






途中の畑の菜っ葉が、つい先程、NHKのひるどきネットワークで見た「のらぼう菜」に似ていると眺めていたら、
地主の農家の方が「のらぼう菜で間違いない」と説明してくれた。
料理好きの主人は、熱心に聞いていた。

桜は七分咲きほどで、腰掛けたベンチの頭上が花で覆われる。
今日は無人ではなかったが、母子が一組の他、あとから3人連れが写真を撮りに来ただけで、相変わらず静かな小公園。

桜は七分咲きほどで、腰掛けたベンチの頭上が花で覆われる。
今日は無人ではなかったが、母子が一組の他、あとから3人連れが写真を撮りに来ただけで、相変わらず静かな小公園。

先日、「ちょっと来い!」とコジュケイの鳴き声が聞こえた生垣に寄るが、今日は何も聞こえず。
空き家なのか手入れをしていない生垣は伸び放題の一重ヤマブキが咲き乱れていた。

天気のせいか時刻が遅かったせいか、今年の桜はとうめいかんがなく、あまり美しく見えない気がする。

まだ寒い冬のさなかに、蔓性でアイボリー色の小さな花をたくさん付けていた。
花の色はテイカカズラに似ているが、形は釣鐘型で大きさも少し大きめ。
蔓の伸び方はクレマチスに似た感じだった。
手当たり次第、白花のカズラの画像を見ていたら、「クレマチス・シルホサ・ジングルベル」という、冬咲きクレマチスが最も似ているようだ。
私が撮った写真は、まだ慣れていないiPadのカメラで、夕方近く薄暗いのにフラッシュもなくピントも合ってないので、葉の形などがハッキリしない。
花はもう終わってしまったが、葉の形を調べに行ってみようと思う。
シロハンショウヅルも似ているが、花期が夏なのが合わない。
・シロハンショウヅル(白半鐘蔓)
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/siro-hanshouduru.html
これもやはり、忘れ果てていた遠い記憶。
子供の頃の隣町、同じ狩野川沿いの、橋一つ下流の学区も町も違う地区だったが、子供の足でもちょっと遠出気分で遊びに行ける距離だった。
現在はそれぞれの町が同時に「市」に昇格して名ばかり大袈裟になっている。
狩野川に沿って隣町の橋まで歩いて行くと、大仁橋のたもとにはこんもり丸い水晶山があった。小さな岩山なのに、うっそうと木々に覆われていて、山が小さいせいでせわしなくグルグル回りながら頂上に達すると、廃虚じみていながら妙にハイカラな展望台があった。
展望台から眺める狩野川の向こう岸には、帝産閣と呼ばれる建物の後ろの山の斜面には、金山の廃坑だという階段状の斜面が見えていた。
さすがに金山の廃坑は覗きに行く元気はなかったが、帝産閣の前庭にはたまに行った記憶がある。車回しと言うのだろうか、玄関前の丸いコンクリートの池の周囲を、砂利道が取り巻いていて、池の真ん中はシュロなどを植えた小山になっていた。
当時、修善寺や大仁、伊豆長岡も駅前には丸い池のロータリーがあったものだった。
帝産閣の玄関の中がどうなっていたかは記憶にないので、多分中までは覗かなかったのだろう。
昨日、偶然、ネットで廃墟になった帝産閣の写真を見つけて、私が知っているよりは数十年後なので、昔より建物や池は立派なのだが、懐かしさにショックを受けた。
写真には建物内部のローマ風呂などもあったが、何だか見たことがあるような気さえして、不思議な感じだった。
帝産閣は戦前から鉱山従業員のヘルスセンターとして営業されていたが、1993年に廃業し、写真が撮られた1999年秋に取り壊されたという。
帝産閣から修善寺橋までは、瓜生野の集落を通るのが好きな道だった。



子供の頃の隣町、同じ狩野川沿いの、橋一つ下流の学区も町も違う地区だったが、子供の足でもちょっと遠出気分で遊びに行ける距離だった。
現在はそれぞれの町が同時に「市」に昇格して名ばかり大袈裟になっている。
狩野川に沿って隣町の橋まで歩いて行くと、大仁橋のたもとにはこんもり丸い水晶山があった。小さな岩山なのに、うっそうと木々に覆われていて、山が小さいせいでせわしなくグルグル回りながら頂上に達すると、廃虚じみていながら妙にハイカラな展望台があった。
展望台から眺める狩野川の向こう岸には、帝産閣と呼ばれる建物の後ろの山の斜面には、金山の廃坑だという階段状の斜面が見えていた。
さすがに金山の廃坑は覗きに行く元気はなかったが、帝産閣の前庭にはたまに行った記憶がある。車回しと言うのだろうか、玄関前の丸いコンクリートの池の周囲を、砂利道が取り巻いていて、池の真ん中はシュロなどを植えた小山になっていた。
当時、修善寺や大仁、伊豆長岡も駅前には丸い池のロータリーがあったものだった。
帝産閣の玄関の中がどうなっていたかは記憶にないので、多分中までは覗かなかったのだろう。
昨日、偶然、ネットで廃墟になった帝産閣の写真を見つけて、私が知っているよりは数十年後なので、昔より建物や池は立派なのだが、懐かしさにショックを受けた。
写真には建物内部のローマ風呂などもあったが、何だか見たことがあるような気さえして、不思議な感じだった。
帝産閣は戦前から鉱山従業員のヘルスセンターとして営業されていたが、1993年に廃業し、写真が撮られた1999年秋に取り壊されたという。
帝産閣から修善寺橋までは、瓜生野の集落を通るのが好きな道だった。



母が回復の見込みのない交通事故の後遺症に倒れて3年余、いよいよ無人の実家も取り壊すしかなくなった。
そのせいか、実家周辺の様々なことが思い出される。
祖母は田京の古い神社の生まれだったので、母はもちろん私も幼い頃、祖母の寝物語を聞かせてもらった思い出があるが、大人になって本を読むようになり、祖母のお話のネタが、古事記や平家物語、伊勢物語などの古典だったことを知った。
何でも祖母の父の神主さんは、いわゆる国学者だったらしい。
母の実家との交渉さえ、殆どなくなっている私なので、祖母の実家とは幼い頃から交渉はなく、神社を訪ねたこともなかった。
それが故郷との縁が切れかけている今になって、なぜかその古社のことまでが懐かしいような気分になっている。
祖母の実家は式内社とかで、起源は不明ながら天平時代(729ー749)らしいという。
三島大社の前身だったとの伝えもあるが、その辺の事情はややこしくてよく理解できない。
1590年、秀吉の小田原攻めの余波を被って焼失。1596年に再建。
社殿ではないが、足利時代からの住宅を、明治5年に横浜の料亭に売却し、現在もその600年前の建物は使用されているらしい。
・横浜 隣花苑 : http://www.rinkaen.jp
数年前、実家で一人で新年を迎えた時、母を見舞いに来た弟と一緒に、初めて祖母の神社に初詣をしたが、神さびたというよりは寂れ荒んだ印象が強くて失望した。
古さを有り難がるのは、縁の遠い私だからなのかも知れない。


そのせいか、実家周辺の様々なことが思い出される。
祖母は田京の古い神社の生まれだったので、母はもちろん私も幼い頃、祖母の寝物語を聞かせてもらった思い出があるが、大人になって本を読むようになり、祖母のお話のネタが、古事記や平家物語、伊勢物語などの古典だったことを知った。
何でも祖母の父の神主さんは、いわゆる国学者だったらしい。
母の実家との交渉さえ、殆どなくなっている私なので、祖母の実家とは幼い頃から交渉はなく、神社を訪ねたこともなかった。
それが故郷との縁が切れかけている今になって、なぜかその古社のことまでが懐かしいような気分になっている。
祖母の実家は式内社とかで、起源は不明ながら天平時代(729ー749)らしいという。
三島大社の前身だったとの伝えもあるが、その辺の事情はややこしくてよく理解できない。
1590年、秀吉の小田原攻めの余波を被って焼失。1596年に再建。
社殿ではないが、足利時代からの住宅を、明治5年に横浜の料亭に売却し、現在もその600年前の建物は使用されているらしい。
・横浜 隣花苑 : http://www.rinkaen.jp
数年前、実家で一人で新年を迎えた時、母を見舞いに来た弟と一緒に、初めて祖母の神社に初詣をしたが、神さびたというよりは寂れ荒んだ印象が強くて失望した。
古さを有り難がるのは、縁の遠い私だからなのかも知れない。


年川村に大変器量の良い娘がおり、名を「おそう」といった。家の馬の面倒をよく見ていたのだが、その馬はおそうに懐きすぎて、おそうのあげる飼葉でなければ食べないほどになった。馬はおそうに懸想してしまい、挙げ句の果てに猛って襲いかかってしまった。おそうは驚き逃げ、年川の淵へと落ちてしまう。そして馬もこれを追って淵へと飛び込んでしまった。このことから、淵を「おそうま淵」と呼ぶようになったのだそうな。 『修善寺の栞』より要約
実家の近くに伝わる「おそうま」伝説。
遠野のオシラサマ伝説によく似た「馬娘婚姻譚」なのだが、養蚕との関わりは伝えられていない。
『注釈遠野物語』によると、遠野に養蚕技術が広がったのは1864年。
しかし馬娘型オシラサマの遠野=岩手最古のものは1594年のものだそうです。
とのことなので、中国の「捜神記」までさかのぼる「馬娘婚姻譚」だけが伊豆の山奥にまで伝播したと考えるべきかも知れない。
「馬娘婚姻譚」は遠野物語が有名だが、新潟などにも似た伝説があるらしいので、遠野から直接伝わったとは言い切れないが、遠野と伊豆を結ぶものとして、遠野の伊豆神社と、江戸時代の金山が考えられるらしい。
神社の関連は複雑怪奇で手も足も出ないが、金山関係はひょっとしたらあり得るのではないか? などと妄想してしまう。
神社探訪の「龍学」というサイトによると、「おそうま(襲馬)」は、かつて山路などに多かった「馬の急死」の言い伝えが関わっているのではないかとあった。
十和田に「蒼前神」という馬の守護神があるのだそうだ。
面白い意見だが、馬と娘の恋に結びつかない。
「おそうま」の淵は、私の幼い頃は如何にもそんな伝説が似合いそうな不気味な場所だったが、狩野川台風で川の姿は大きく変わってしまい、今ではどこがあの伝説の場所だったのかも分からなくなってしまった。
修善寺駅から伊東へ通じる「伊東街道」の、人家が途切れ、片側は山の崖、反対側は深い川の淵という、真夏の真昼でもどこか底寒いような雰囲気の道だった。
子供には「おそうま」という言葉の響も、不条理な物語も不気味だった。
「おそう」も馬も死んでしまった、というだけで、何の結末らしいことも教訓らしい話も続かず、プツリと切れてあとには不気味な淵の淀みだけ………
以前、実家にあった1/25000の地図で見たのだが、私の記憶にある「おそうま」らしい場所は「襲熊」という地名だったような記憶がある。
あるいは「襲熊」が「おそうま」に転訛したのかも知れないが、そうなると今度は、あんな所に熊が!? という新たな疑問に悩まされそうだ。


朝から弱い雨、散歩には行けない。
昨日の散歩で風を引いたらしく、頭痛がし鼻が詰まっているので、
今日の雨が丁度よかった。
タブレットでは文字入力が大変なので、音声入力のアプリを探して、
今これは音声入力で試しに書いている。
結構使えそう。
音声入力したものを、コピペでブログに載せようと思う。
昨日の散歩で風を引いたらしく、頭痛がし鼻が詰まっているので、
今日の雨が丁度よかった。
タブレットでは文字入力が大変なので、音声入力のアプリを探して、
今これは音声入力で試しに書いている。
結構使えそう。
音声入力したものを、コピペでブログに載せようと思う。