映画なんて大嫌い!

 ~映画に憑依された狂人による、只々、空虚な拙文です…。 ストーリーなんて糞っ喰らえ!

かわなかのぶひろ 語録

2010年03月30日 | 映画の覚書
●セルフ・ドキュメンタリーの将来 (1984年)
― 従来のドキュメンタリー映画は、社会教育を目的とした国策映画や、学校教材の為に手掛けられた文化映画の戦前から、戦後の、高度経済成長と共に興隆したスポンサード映画に至るまで、その制作形態はさして変わらず、国や企業、或いはテレビからの受注を基点として手掛けられていた。当初は35ミリで、やがて16ミリで制作されるようになっても、機材並びにフィルム・コストは、個人で手掛けるには容易ではなかったからに他ならない。ドキュメンタリー映画の歴史は、従ってそうした受注映画の枠の中に、如何に作家性を紛れ込ませるか、という事が大きなテーマであった。つまり作家の作品として手掛ける以前に、商品としての体裁を持たなければならなかったのである。やがてそうした折衷に飽き足らない少数の作家達によって、1960年代後半辺りから自主制作・自主上映の道が開かれる。(中略)中でも原将人の『初国知所之天皇』(1973年)や、原一男の『極私的エロス・恋歌1974』(1974年)、鈴木志郎康の『日没の印象』(1975年)、高嶺剛の『ウチナー イミ ムヌガタイ』(1975年)などは、その内容に於いて従来のドキュメンタリーと際立った対照を示すものだった。これらはいずれも、外在するテーマを題材に撮るのではなく、言わば私を基点として手掛けられていたのである。つまりこれらの作品こそ、今日のセルフ・ドキュメンタリーの先見を成す試みと言えよう。
 例えば鈴木志郎康は、1963年に手掛けた『EKO Series』あたりから、意識的に私を基点とした8ミリ作品を手掛けていた。当時NHKの撮影部に所属していた彼は、日常的に言わば商品としての映像を撮影していたのだが、「自分の内面には決して商品にしたくない部分があり、それを保ち続ける事こそ真性の自分に他ならない」(『純粋桃色大衆』三一書房)という考えから、NHKでは決してオンエアされないであろう「真性の自分」に関わる映像を次々と発表する。自分と自分の周囲を日記のように捉えた1975年の『日没の印象』では、使用するキャメラさえも、中古キャメラ屋の店頭で見付けたコダックの旧式16ミリで撮影され、フィルムには所々にパンチ穴を穿って、商品としての映像との違いを際立たせていた。この作品から1977年に手掛けられた200分の大作『草の影を刈る』(これを機にNHKを退職している)を挟んで、1979年の『写さない夜』までの九作品の後、鈴木志郎康はついに、私を基点にした映画の極北というべき『15日間』へ到達する。キャメラに向かって、その日その日の出来事を独白する15日間を捉えた、16ミリ・90分のこの作品を初めて見た時は驚かされた。アンディ・ウォーホールの『スリープ』を見た時に、思わず「こんなのアリか!?」と、絶句してしまったが、あの時以来の衝撃と言っても過言ではなかった。映像表現という美学上の問題をもはや突き抜けて、そこでは、私を基点に映画を手掛ける事の哲学的とも言うべき思索が行なわれていたのである。映画が商品からこれ程までに遠ざかったケースも珍しい。勿論、今日では、DVキャメラさえあれば15日だろうと30日だろうとコストを気にする事無く撮れるだろう。僕は日記のように毎日自分の周囲を撮影している。しかし、コトはそういう問題では無い。先に触れたドキュメンタリーの歴史を踏まえて、先行世代が血みどろになって切り開いてきた様々な試みを、今日の簡便なDVキャメラが如何に展開するか、というところにこそドキュメンタリーの未来が託されているのである。鈴木志郎康は、『15日間』の隘路を通過する事によって、再び肥沃な表現へと向かう原動力を獲得する訳だが、僕らもまた、そこから学ばなければならない。形式や歴史に囚われてはいけない。未来を育むのは作り手の、なかんずく受け手の自由な精神なのだ。 (メールマガジン「neo neo」2004年4月1日号より)


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