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如意吉祥

祀り継いで千年余にもなるという”わしらが郷の大日如来”地縁が、或いは地縁を育んだ象徴・・・に思いを馳せて

創造主の指図 The Creator’s Design

2025-05-07 19:00:38 | 日記

 ホモサピエンスよ大いに二酸化炭素を供給しなさい

 令和7年5月3日土曜日午前8時15分から放映された「チコちゃんに叱られる」を視聴して思った事。そのお題目とは、「恐竜はなんであんなにデカくなった?」というのであるが、その回答が「小さいと肉食恐竜に食べられてしまうから」というのだが、半ば痴呆症の気がある老人には「マジでそうなの?」と些か疑問に思えたのだよ。

 ダーウインの進化論に基ずく自然淘汰説に依ればそれはそれで、結構なお答えかもしれない。しかしだね、恐竜が大挙して、地球上を闊歩した頃の地球の大気には現在の5~6倍の二酸化炭素量が含まれていたという。したがって、植物界にとっての呼吸すなわち二酸化炭素を吸って酸素を吐き出す生命維持活動は余裕綽綽だったに違いない。従って、濃い二酸化炭素を吸って、大量の酸素を吐き出したのだ。ここで、植物界はこのまま二酸化炭素を吸い尽くせば呼吸困難となり滅亡につながる危機に向かい合うことになる。そこで、酸素を消費して二酸化炭素を供給してくれる動物界に働きかけることを創造主はお考えになられたのだ。動物界を充実させるには、2つほどのプランがある。一つ目は、個体数を増やすこと。二つ目は図体を大きくするすること。

 例えば、身丈50センチの犬が身丈10メートルになったとすると、10*100/ 50=20ということで、身丈比で20倍になったとすれば、体積比でどれくらいになるかといえば、20の三乗20*20*20=8000倍にもなる。同じ質量を達成するのに、8000匹を選ぶか身丈を20倍を選ぶかの選択になるが、創造主は個体を大きくする選択をなされたのだ。そのほうが効率が良いからだろう。

 この時代、恐竜達にとって、十分な量の酸素と食い切れないほどの植物があったので、極限の大きさにまで成長した。なんでも、身丈40メートルの草食竜がゴロゴロしていたという。どうだろう、彼らが、生命を維持するには40メートルの大木を一日当たり3~4本平らげのではあるまいか。また、創造主は同時に、草食竜を捕食する肉食竜もお創りになったのだ。この両者の間では、ダーウインの自然淘汰の理論が当てはまるのかもしれないが、恐竜が大型化した主たる原因は、その時代、地球上には現在の5~6倍の二酸化炭素があって、光合成が効率よく行われ、大いに植物が育ち、十分な酸素が供給されたので、生体にとって、円滑な新陳代謝が行われ、数百トンにもなる恐竜が誕生した。

 私たちホモサピエンスが肝に銘じなくてはならないのは、二酸化炭素は酸素の元、酸素は二酸化炭素の元ということだろう。

 植物界の生理:CO2+太陽光エネルギー ====C(植物の体組織に変換)+O2

 動物界の生理:O2+摂取した炭水化物  ====CO2 + 生命維持エネルギー

 創造主から智能を頂いたホモサピエンスはこの輪廻の本質を咀嚼して、高品位の二酸化炭素を酸素を製造する側の植物界に還元しなければならない。脱炭素などという狂言は、人類の早期滅亡に繋がることを肝に銘じるべきである。

 創造主が仰せになるサルと人間の境界とは、火の取り扱いができるかできないかの差である。

 

 恐竜がとてつもなく大型化したのは、二酸化炭素供給側である植物界からの要請である。何故かといえば、二酸化炭素を使い尽くせば、滅亡に至るからである。従って、効率よく酸素を消費し二酸化炭素に還元してくれるシステム構築が百事中之急だった。それに応えた動物界は、植物界が供給した酸素と有り余る植物の体の成分である炭水化物をたらふく食らい、消化燃焼して、活動エネルギーを得、二酸化炭素を植物界へ供給したのだ。恐竜が大型化することで、二酸化炭素製造機構としての効率を高めたのは、最も合理的だったのだろう。

 「酸素は、二酸化炭素の賜物である」とホモサピエンスよ忘るること勿れーーーー創造主。

 何時のことだったか、地球温暖化の元凶は二酸化炭素であるから、固定化して埋設しまえば問題解決だなどという悪夢の計画がニュースで報じられたことがあった。これって、自ら進んでギロチン台に首を突っ込むほどの狂気である。地球上の大気から酸素を抹消するに等しい。こういう愚行が何の議論もなしに正義として行われるのであれば、ホモサピエンスはすでに滅亡のプロセスに突入したといえる。

 恐竜が地球上で二億年もの間繁殖できたという。滅亡した原因は約7千万年前、巨大隕石がメキシコ湾に落下したので、従前の生態系が破壊され、恐竜時代は終焉したという。2億年って、現在の人類にとって無限と言っても良いくらいの未来だと思う。しかし、その間植物界と動物界で営まれて来た酸素と二酸化炭素の交換により相互の生命が維持されて来たことは、厳然とした事実である。従って、人類も其の範を超えてはならないだろう。

 身丈40メートルもある恐竜の質量すなわち体重は如何許りのものだったろうか。100トン200トン想像もできないが、その質量を動かすエネルギーも膨大だったろう。これに必要な酸素量は、二酸化炭素濃度が現在の5~6倍だったというから、酸素濃度もそれ相応だったのだろう。さもなければ、200トン級の巨体を動かす駆動力を生むことはできなかったろう。二酸化炭素が多いと窒息するのではと考える向きも多かろう。しかし、二酸化炭素は不活性ガスであるからして、窒素ガスと同様であり、呼吸にとって、障害にはならない。要は、空気中に気体として酸素がどれだけ含まれているかが重要なのだ。私は、小学校で酸素と窒素の比率は1:4だと教わった記憶がある。

 月に基地を!そう夢を寝て観てくれている分には一向にかまわないが、狂気の沙汰である。そんなことより、地球上の砂漠地帯、サハラ、ゴビ、タクラマカン小規模なものまで含めればいくらでもあろう。でだね、海のものとも山のものとも知れぬ月の資源などに目を眩ます前に、とりあえず、サハラ砂漠あたりを世界中の人知、資力を結集して、緑化する国際的計画を起てたら如何なものかと思う。

 先ずは、砂漠の灼熱にも夜の寒さにも貧雨にも耐える丈夫な体を持ち繁殖力も旺盛で二酸化炭素が大好きで手もかからない。そんな植物を創ることから始めなければならんだろう。

 二酸化炭素製造装置としての宿命を背負って進化したホモサピエンスであるが、スモッグ或いはPM2などという物質を含むもの硫化化合物を含むものは駄目である。純粋な二酸化炭素の排出が求められる。

 地球規模で、サハラを緑化しようという目標を持てば、それなりの人材も出現するだろうし、このぼけ老人などが案ずることもなかろう。

 ところで、地球規模の気象を観測している方々に尋ねたいのだが、大気中の二酸化炭素濃度は高くなる傾向か或いは低くなる傾向にあるのか?。下がれば下がるほど人類の未来は暗い。滅亡に近ずくのだから。

 

 最近面白い人材がUSAから出てきたよね。その名はTHE JOKER 掘って掘って掘りまくれ!クリーンエネルギー 脱炭素 そんなもんはクソクラエだー!。しかし、これが光合成界隈では正論なんだよね。がんばれジョーカー!。

 

 Boys be ambisios forever! クラーク博士はフォーエバーを言い忘れてしまったのだろう。野心家という性根は死を以って完結する。

 

 現在、地球上で最も繁栄している種は人類ということなんだろう。で、その生命体としての質量は如何許りのものだろうか?。人1人の質量を60キログラムとして、地球上に80億人が生息していると仮定すれば、その総質量は、0.06トン*80億人=4億8千万トンということだ。

 この人類の質量に見合う古代の恐竜の数は如何許りのものか?。恐竜1頭が100トンとすれば、4千800万頭、これでは、恐竜時代などと言えるものではなく、繁殖すらおぼつかない。それでは、1頭50トンなら、9600万頭、1頭25トンなら、1億9200万頭。・・・・・これで、恐竜時代とは・・・・

 ここで、創造主の指図を眺めてみると、人は火を使う術を与えられている。これは、火を使い、食材を調理し、湯を沸かし風呂に入り、電車、車を走らせ、飛行機を飛ばし、船を使い海上を行き来する。従って、人類の生体質量の10倍位、環境に対して、負荷を懸けているものと思う。これでも、等価の恐竜頭数は、1頭当たり25トンとして、19億200万頭。甚だ少ない気がする。・・・・・・そういえば、NHKの例の番組では、この恐竜時代には、二酸化炭素濃度が現在の5~6倍あったと言っていた。すると、気体としての酸素もそれに見合った量が存在していたであろう。この時代には、植物も動物も楽々呼吸でビンビンに成長できただろう。恐竜がノロノロ動いていたななどとは冗談で、キビキビと機敏に活動していただろう。なぜなら、現在より数倍濃い酸素が空気中に存在したんだから。

 45億年前、創世記の太陽に、星が衝突し、その時飛び散った雫で太陽の惑星が誕生した。だから、どの惑星も同じ方向に公転している。はじめはドロドロに溶けた地球も、物理的、化学的な反応を経て、冷えて安定した惑星となった。重いものほど中心へ、軽いものほど表層へ堆積していきました。

 

 

 

 

 


高遠城址公園のタカトオコヒガンザクラ

2025-04-13 20:16:39 | 日記

              

 以前から「高遠の桜」は素晴らしいと聞き及んでいたので、一度この目で見てみようと、4月12日出かけました。新東名、中部横断道、中央高速道を使い諏訪インターチェンジ下車国道152号線経由で片道210キロ程の行程になる。早朝5時半に出発し、途中休み休みして、9時過ぎに到着しました。

 このところ、天候が芳しくなく雨がちの日が続いていますが、この日は晴れていて良かったと思います。桜の名所というだけあって、この時間帯でも混雑していて、駐車場に有り付くのに随分と苦心しました。目的地から相当離れた所の臨時駐車場に駐車できました。

 このタカトオコヒガンザクラはいわゆる固有種ということですから、サクランボから種が取れて、その種を発芽させ育てても同じコヒガンザクラが育つという解釈でよいのだろう。接ぎ木でのみ形質が保存される染井吉野などとは違い、安定していて且つ美しい品種であると敬服の至りである。

 日本昔話に花咲爺のお話があるが、爺さんが咲かせた桜はきっとこの桜に違いない。というのは、花が房状で花数がめっぽう多いのだから、私は彼の桜のモデルはこれに違いないと確信する。

 染井吉野に見劣りしない固有種も有るもんなんだね。

 この日は、お日柄もよく、満開の桜を見れて、とてもラッキーでした。

 


Winter is over Spring has come 靖国神社&島田市家山

2025-04-02 21:34:35 | 日記

    

 この靖国神社参拝は島田市遺族会が企画した行事に参加したものです。時に令和7年3月27日。この日は品大陸から凄まじい黄砂が飛来し、山がちな新東名高速道路ではあたかもやまかじでも発生して煙に巻かれているのではないかと思えるほど視界が悪かったです。この時点で、靖国神社の基準木は三分咲きぐらいでした。

 

    

 これらは、島田市家山のソメイヨシノです。今日は4月2日ですが、平日にも拘らず見物客が結構な人数見受けられました。花曇りというお日柄でしたが、寒くも暑くもなくとても良いお日柄でしたし、花はちょうど満開でした。この時期、大井川鉄道による企画なのか地元の町興しでやっておられるのか分かりませんが。河川上にワイヤーを張って多数の鯉のぼりを吊り下げて脇を走る鉄道の乗客に目の保養をして頂くというのが恒例行事になっているようです。我こそは家山の桜トンネルなり~遠からん者は音にも聞け~近くは寄って目にも見よ~ てな塩梅ですわい。

 

    

 これは、家山のみづめ桜と言われる江戸ヒカン桜の樹齢300年ほどの古木、島田市の天然記念物。花の付き方が房といった趣だと感じました。ソメイヨシノはこの江戸ヒカン桜と大島桜の交配種だと聞き及んでいる。同時にバット咲き花持ちせずにパット散ってしまうのがソメイヨシノの特徴であり、その潔さが日本人受けするんだろうけど、接木で繁殖させられた種のはかなさがあるよね。

 

 

 みづめ桜の近くで咲いていた、赤いモクレンとしだれ桜、花通し色の取り合わせがとても良いと感じたので、撮影しました。

 

 

 


鳩ポッポ

2025-04-01 19:05:47 | 日記

  

 今年は、我が家の庭のヒバの木の中に巣作りを決め込んだらしい。去年はというと庭の松の木の枝の中に巣作りし、卵2個を産卵し、雌、雄で代わる代わる20日ほど温めて内1個が孵化し、親の3分の2位までに育ったところで、姿が見えなくなってしまいました。どうも、狡猾なカラスが食べ時を見計らって、捕食してしまったのだろうと察しられます。

 今年は、刈り込んだヒバの中だから、カラスに見つかり難いかもしれないが、敵もさるものだから、この顛末はどうなることやら。

 鳩も住宅なんだろう。人が2mくらい離れた所を行き来する場所の地上高1.7mくらいの場所に巣を構えるとは些かふてぶてしくもある。

 人慣れしている鳥としてよく知られているのがセキレイだ。田んぼや畑を耕していると、必ずと言って良いほど、何処からともなくツガイで飛来して、しっぽを振り振り土中のミミズなどの虫を探してついばんでいる様を見れるのも、田舎ならではの情景だねえ。

 

 

 


北限のミヤマツツジ 牧之原市勝間田公園

2025-03-23 18:54:15 | 日記

      

  

 これらの写真は昨年4中旬に撮影したものです。大井川がミヤマツツジ自生の北限とされている。大井川以東の方にとっては、結構珍しい樹木、所謂灌木である。大樹の陰でつつましく気品たっぷりに花をつけます。そこそこ株数は在りますが、群生しているというほどではありませんが、なまめかしい紫色を堪能するのも乙なものである。

 この公園が「御前崎遠州灘県立自然公園」に指定されているとは、この時初めて知りました。この時期、この辺りを通りすがる機会があれば寄ってみるのもよろしかろう。この公園は、富士山静岡下駄空港の近くではあるし、牧之原市の町興しの一つに加えてみたら如何なものか。