令和7年3月19日岡崎城公園
徳川家康が三方ヶ原で武田軍に撃って出てコテンパーにやられて這う這うの体で逃げ帰った時の肖像画はお馴染みのもので、何回か雑誌やポスターで見たことがある。岡崎公園で石像になっているとは驚きました。
普通、こんな無様な姿を絵にして残さないだろうに、将来の戒めのためにあえて絵師に書かせて記録しておくとは、さすがに徳川家康公ならではもの、そこはかとなく懐が深い。
注目したいのは城の前面に設置された家康公遺言が刻まれた石碑の碑文
わが命旦夕に迫るといへども 将軍斯くおはしませば 天下のこと心安し
されども 将軍の政道その理にかなわず 億兆の民 艱難することあらんには
たれにても其の任に変わらるべし 天下は一人の天下に非ず 天下は天下の天下なり
たとへ他人 天下の政務をとりたりとも 四悔安穏にして 万人その仁恵を蒙らば
もとより 家康が本意にして いささかも うらみに思ふことなし
私の命も切羽詰まってしまって、もうすぐ尽きるのだが、私が創り上げた幕藩体制における将軍職としての将軍がこのように居られるから、天下のことは案ずることなく死ねる
そうは言っても、先々将軍の政道がその理に叶わず、多くの民達が苦難させられることがあるかもしれない その時は誰であれ将軍の任に変わられるべきである。天下は徳川一人の天下というわけではなく天下は天下を治めるにふさわしい者にゆだねられるべき天下である。
たとへ徳川の末裔以外の者が政務をとることがあったとしても、世の中の不平不満妬み嫉みが抑えられ、万人がその為政者の仁恵を享受されるならば、それこそ家康の本意であり、些かも恨みに思うことはない。(四悔安穏 しかいあんのん と読めばいいのか分かりません 経典にでもある熟語なのか意味も定かではありませんが、適当に解釈しました)
久能山東照宮には、徳川家康が祀られているのは当然であるが、織田信長、豊臣秀吉が同等に祀られている。不思議に思っていたのだが、この遺言を読んで、ハタと納得しました。織田信長がほぼほぼ掌握した天下を豊臣秀吉が預かり、秀吉から、徳川家康が預かったというフィクションが完結された舞台でもあるのだ。その時々にときめいた順に、信長、秀吉、家康と天下という預かりものを回してきたということか。従って、能力ある資格者がいれば天下を持って行ってくれて苦しゅうないというわけか。
時代は下って、江戸城無血開城江戸幕府消滅、明治維新と世界史的に見ても例がない程スピードで時代が進んだのも、この家康の二世紀半先を見越した遺言に依るところが大きいだろう。天下は私物化するものではない。時々に時めく者が預かり、次へ渡して行くべきものだ。
この際、内閣総理大臣石破茂氏は岡崎城へ行って、家康公の遺言を読んでもらいたいものだ。最も咀嚼力があればの話ではありますが。
フランスはパリのルーブル美術館の至宝の一つがミロス島出土のギリシャ彫刻の傑作、ビーナス像であることは承知しているところである。ここ一週間ばかり、どうあがいてもパリに行くことなど叶わないのであるから、日本のどこかに複製がないものかとインターネットを駆使して探したところ、岡崎市美術館で所蔵していることを知り、現在展示されていて、写真撮影も可能だと電話確認できたので、昨日(令和7年3月19日)に出かけました。
この像は、ルーブル博物館自体が複製したものということで、際限なく実物に近似しているという触れ込みであり、実際そうなんだろうと納得いたしまして候。兎角日本人というは、金華極上を好む民族であるからして、八頭身美でござれ、左右対称の顔立ちでござれと機微つましいのであるが、発見爾後人体美の基準になったのは事実なんだろう。
この彫像にもモデルは存在したはずであるが、その顔は意外に若いと感じる20歳未満といったところか、なまめかしさが伝わってくる。
どこの美術館や博物館においても言えることでありますが、この種の彫像を展示するに当たり観覧する人の視線が、作品の臍の位置くらいに来るように工夫してもらいたいものである。そうしないと作品全体のバランスが把握できない。猫や犬に尋ねたことはないが、人の視覚は遠くの物を拡大して視てしまう習性があるので、完全にパースペクティブに撮れてしまう写真との間に常に違和感が生じてしまうというのが万人の持つ印象だろう。焦点距離70mm程度のズームレンズ付きのカメラを持っているなら、両目を開けて片方の目でファインダーを覗き同じ物体に視線を合わせて、像が同じように見える位置を確認してみると、焦点距離、大体70mm程度だろう。私事で言えば、72~73mmといったところか。人にとって焦点距離70mm位が標準の視覚ということである。
そういうことだから、立像を下から撮影すると、下の方ばかりが大きく写ってしまって、こんなはずではなかったのにという作品に仕上がってしまう。これを防ぐには、被写体からある程度離れて、ズーム機能を利用すれば、自己の印象との齟齬を予防できると思います。
以前、奈良の秋篠寺の伎芸天を観たとき、「この顔はインターナショナルに通用するのでは」と感じた印象が残っていたのがきっかけで、まさか日本の奈良時代の作品に古代ギリシャ彫刻の影響もなかろうと思いつつ、岡崎に足を運びました。
伎芸天 太古の印度のいわゆる「お話」であるが、シバ神が大勢の天女たちに囲まれて、天界の音楽や踊りを楽しんでいた時、忽然として、シバ神の髪の生え際から一天女が生れ出た。その容姿の端麗なことはもとより、技芸に秀でていることは、並み居る天女たちの遠くおよぶところではなかった。居合わせた天人天女一斉にその優れた才能を称えて、これを伎芸天と呼んだ。
伎芸天は、集まった多くの天人天女たちの中に立って、「もし、世に祈りを込めて田畑の豊作や、人生の幸せや、家庭の裕福などを願う者あれば、私がその願いをことごとく満足させよう。また、学問や芸術に願いを寄せるものには、その祈願を速やかに成就させよう」と語った。・・・だとさ。
秋篠寺 奈良時代(西暦780年頃)、光仁天皇の勅願により建立された由緒ある寺である。往時は大伽藍を有していたことだろう。本尊は薬師如来だという。ところが、平安末期1135年兵火に見舞われ、金堂等が焼失した際、伎芸天も首部を残し、胴体が大きく損傷し、鎌倉時代に於いて再び胴体が造られ現在の姿になっているという。頭部は乾漆造り、胴部は寄木造りで、奈良、鎌倉時代に亘る合作ということだ。奈良時代の彫刻の作風である質実剛健さが際立っているとも言えなくはないかな。歴史の数奇さを味わわせて頂けるのも有難いことだ。
この伎芸天の顔が、その謂れからして印度の香りがするのかな、国際的に美形として、通用するのではないかと感じ、それで、岡崎市美術館へ出向く動機となりました。
で、どうなんだろう国宝や重要文化財を3Dデータとして保存するという国家的なプロジェクトはあるんだろうか。もし、そんなプロジェクトががあって、それらが3Dプリンターのようなもので復元できるなら、是非この伎芸天を2倍スケールで復元してもらいたいものだが、如何なものか、身丈が2倍、その質量は2の3乗、8倍にもなる。それをだね、ミロス島のビーナスに並べ置いてみたら、フランス人も感動することだろう。
曹洞宗の檀家ということもあって、老い先も短くなってきたことだし一度、曹洞宗総本山永平寺詣でをしようと思い立ちました。檀家などと言っても、永平寺の末寺の可睡斎そのまた末寺の龍江院に墓所があるということだ。さすかに静岡県島田市から福井県となると遠い。東名高速、名神高速、北陸自動車道と乗り継いで、片道340㎞程もある。近くには東尋坊の節理岸壁や織田信長に滅ぼされた朝倉義景の墓所や屋敷跡などがある。
思い立った時、出かけないと行かず終いになってしまうので、令和6年10月20日早朝出発した。5時に家を出て、休み休み運転し、それでも11時ごろには到着しました。私のてらの住職もここで3年ほど雲水として修業したと聞いている。一人前の僧になるにはたいへんな修行を要するということか。
この伽藍は山の斜面を利用して配置されて、豪雪地域ということもあろうか、各々の建物は階段状の屋根付き回廊で結ばれている。とても大がかりな伽藍である。入館時、小さなスリッパを履いてしまったため、長い回廊を一周するのに疲れてしまいました。
最初の写真は、門前町で買った呼び鈴と勾玉です。呼び鈴は良く通る音が出てとても重宝している。勾玉はジャンバーのファスナーに括り付けました。門前町で昼食をとり、車で20分ほどの距離だというので、一乗谷、朝倉屋敷跡を訪ねました。
朝倉氏と言えば、織田信長に滅ぼされたのであるが、室町時代の朝倉邸と周囲の武家屋敷跡が良く保存されていて、一部が復元されている。町おこしということでもあるだろうが、歴史の一コマを寸劇にして上演していた。
次に、やって来たのは丸岡城天守、重要文化財となっている。建設当時のまま保存されていれば、国宝ということだが、昭和23年の大地震で倒壊してしまい残った部材を使って再建された故に重要文化財となったらしい。倒壊以前は国宝で、石の瓦で葺かれていたという。日本一小さな城として、有名。
これより、帰路に就く何とか無事身に帰宅したのが、21時。はなはだ疲れました。

