思い出話をひとつ。
私は昔、足を骨折し入院していたことがあります。小学3,4年生のときですから、もう30年近く前のことですね。
ある日、看護婦とこんなやり取りをしました。
「あなたは将来何になりたいの?」
「よくわからない。」
「じゃあ、看護婦さんになればいいのに。」
「僕、男だから看護婦さんになれないよ。」
「あら、男の看護婦さんもいるのよ。看護士さんっていうの。」
幼かったころの私にとっては、ちょっとした衝撃でした。
今にしてから見ると、本当にいい経験をできたと思います。人は性別によって安易に役割を決めるべきではないと、教わったような気がします。あれから30年近くたちました。精神科で入院や通院をしている際に、看護学生に男性が混じってくるのを見かけるようになりました。数は増えているようです。
あるブログで、障害者権利条約について話題になり、少し突っ込んで調べていくうちに、こんなことを思い出しました。私は、どうも差別撤廃のような大掛かりなことを、国や自治体の法律や制度によって達成しようとすることに不安を感じてしまうのです。
私は、社会を変化させることを、国や自治体の法律や制度によって達成したいと強くは思いません。ささやかなことの積み重ねで、民間を中心とした社会自体が変化していき「それがよいことなのだ」と少なくない人々が体験と実践を通じて確かめた後に、それを後押しするくらいのタイミングで国やら自治体が動いても、遅くないだろうと感じてしまうのです。そうした方法なら、法や制度も落ち着いていいものがつくれるような気がするのです。
私は昔、足を骨折し入院していたことがあります。小学3,4年生のときですから、もう30年近く前のことですね。
ある日、看護婦とこんなやり取りをしました。
「あなたは将来何になりたいの?」
「よくわからない。」
「じゃあ、看護婦さんになればいいのに。」
「僕、男だから看護婦さんになれないよ。」
「あら、男の看護婦さんもいるのよ。看護士さんっていうの。」
幼かったころの私にとっては、ちょっとした衝撃でした。
今にしてから見ると、本当にいい経験をできたと思います。人は性別によって安易に役割を決めるべきではないと、教わったような気がします。あれから30年近くたちました。精神科で入院や通院をしている際に、看護学生に男性が混じってくるのを見かけるようになりました。数は増えているようです。
あるブログで、障害者権利条約について話題になり、少し突っ込んで調べていくうちに、こんなことを思い出しました。私は、どうも差別撤廃のような大掛かりなことを、国や自治体の法律や制度によって達成しようとすることに不安を感じてしまうのです。
私は、社会を変化させることを、国や自治体の法律や制度によって達成したいと強くは思いません。ささやかなことの積み重ねで、民間を中心とした社会自体が変化していき「それがよいことなのだ」と少なくない人々が体験と実践を通じて確かめた後に、それを後押しするくらいのタイミングで国やら自治体が動いても、遅くないだろうと感じてしまうのです。そうした方法なら、法や制度も落ち着いていいものがつくれるような気がするのです。