”スローライフ滋賀” 

県成立前に?「滋賀県第一小学校」の謎

 長浜市の「長浜小学校」が9月、1871年(明治4年)の創立から150周年を迎えた。
滋賀県内で初めてできた小学校で、当初の校名は長年「滋賀県第1小学校」とされてきたが、開校時に現在の滋賀県はまだ存在していなかったはず…。一体どういうことなのか。

↑写真:(1872〜73年ごろ書かれたとみられる開知学校の設計図)(中日新聞より)

 現在の滋賀県域は江戸時代、多数の藩や幕府領に分かれていた。1871年(明治4年)7月の廃藩置県では、旧領地を踏襲する形で複数の県が誕生。幾度の統合を経て1872年(明治5年)に今の滋賀県が生まれた。

 史料をひもとくと、長浜小の前身校は廃藩置県の2カ月後、町の繁栄を教育に求めた町衆の手で設置された。長浜市中心部にあった邸宅の「本校」と寺子屋五軒の「支校」からなり、初期から500人が通う大規模校だったとされる。

 滋賀県内の教育史を研究している木全(きまた)清博・滋賀大名誉教授によると「滋賀県第一小学校」の最古の記述は、設立25年後の1896年(明治29年)の沿革誌。「本校創立ハ明治4年9月ニシテ当時ノ校名ヲ滋賀県第一小学校ト云ヘリ」とある。
 木全さんは「『県で最初にできた小学校』の意味で語られるうちに、校名として使われてしまったのでは」と話す。「長浜市史」など後世の文献もこの沿革誌に依拠しており「短期間で行政組織が刻々と変わった影響も考えられる」とも指摘。
初代滋賀県令(現在の知事)松田道之が命名したとする文献も複数あるが、裏付ける史料は未発見だ。

 米原市では県ができる前に「第4小学校」が開かれ、史料が米原市山東小に残っていたという。彦根市の高宮小も「第2小学校」だったとされ、木全さんは「長浜小は『第1小学校』と推測できる」という。
 だが、当初の校名が分かる設立前後の記録は残っておらず、開校3年後に移転改称した「開知学校」の設計図などに「小学校御局」と書かれている程度。
長浜市の太田浩司学芸専門監は「『小学校』とだけ呼ばれた可能性もある」と話す。

 謎は創立日にも。50年前の「長浜小学校百年誌」などでは9月9日とされ、毎年この日は創立記念の全校集会も開かれる。だが、運営経費などを記した開校6年後の「学事統計表」は、設立日を「9月8日」とする。
書いたのは小学校設立を呼び掛けた張本人で、当時は学校の責任者だった地元実業家の浅見又蔵。間違いは考えにくい。

 わざわざ9日に移したのか−。長浜小の杉本義明校長に尋ねると、校長室に掛かる立派な扁額(へんがく)を示された。力強く「登高学舎」と墨書されている。
 幕末から明治に活躍した剣術家の山岡鉄舟が、開校11〜17年後に贈ったとみられる書。「登高」とは9月9日の重陽の節句に合わせ、高台に登って酒を飲むことで邪気をはらう中国の風習を指す。
江戸時代まで広く親しまれたといい、杉本校長は「おめでたい日に創立記念日を合わせたとは考えられませんか」と話す。

 校名も創立日も、確かなことは分からないまま。ただ、滋賀県内最初の小学校という事実に変わりはない
杉本校長は「150年の本当の値打ちは『子どもたちのために何かしよう』という地域の強い思いが、連綿と継承されていることにあります」と胸を張る。
 PTA活動は度々近畿や全国の表彰を受け、役員のなり手不足とは無縁。
昨夏、修学旅行中止の観測が出ると、夕闇の校庭にキャンドルで応援の文字を描くサプライズ企画を6年生にプレゼントした。「こうした風土は、きっと子どもたちに受け継がれるはずです」

滋賀県内最初の小学校をめぐる動き
【1871年(明治4年)】
  7月 廃藩置県で現在の県域に複数の県が誕生
  9月 長浜小の前身校が開校
 11月 湖北や湖西地域にあった県が長浜県に統合
     湖東や湖南地域の県は大津県に。松田県令就任
【1872年(明治5年)】
  1月 大津県、滋賀県に改称
  2月 長浜県、犬上県に改称
  4月 高宮小の前身校が開校(犬上県)
  8月 学制の発布
  9月 「第四小学校」が開校(犬上県)
     犬上、滋賀県が合併し、現在の滋賀県が成立
【1874年(明治7年)】
   開知学校が完成

<中日新聞より>

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