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【滋賀・近江の先人第124回】第15師団長(中将)としてインパール作戦に参戦・山内正文(大津市)

 山内 正文(やまうち まさふみ、明治24年(1891年)10月8日 - 昭和19年(1944年)8月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・秋山。大津出身。

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 あの有名な「インパール作戦」の第15軍牟田口司令官配下の3師団長の一人が大津出身の第15師団(祭)師団長が「山内正文」だった。

作戦当初から3人の師団長は牟田口司令官の作戦を快しとせず、牟田口の無謀な作戦が惨敗直前になり3人の師団長解任する最悪の事態に至っている。

 山内正文は多くの将官のエリートコースである軍幼年学校→軍士官学校→軍大学校ではなく、膳所中学から士官学校、陸軍大学に入った秀才で、かつ米軍大学卒で米国勤務も経験するアメリカ通の軍エリートの一人であった。それだけに期待されたが当時の陸軍トップの東条英機などと反りが合わなかった。軍首脳に疎んじられた者は現場の戦場に出されてしまう人事がまかり通っていた時代だ。第15軍司令官の牟田口も東条英機らと考えをともにする人物だったこともあり、山内だけでなく柳田、佐藤師団長らの合理的な考えが合わなったと言われている。

山内正文は第15師団長解任後、帰国することなくビルマで病死している。

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経歴
滋賀県大津市膳所町出身。裁判官・秋山正義の息子として生まれる。膳所中学校(現滋賀県立膳所高校)を経て、

1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同期に武藤章、富永恭次、佐藤幸徳、田中新一、山崎保代らがいる。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第60連隊付となる。

1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業(首席)。綾部橘樹、有末精三、斎藤義次、小畑信良らが同期。陸軍きっての逸材と評されたが,中学出身であるため傍流とみなされていた。

1925年(大正14年)3月、歩兵第39連隊中隊長に就任。以後、参謀本部付勤務、参謀本部員、歩兵第33旅団司令部付、第10師団司令部付を歴任。

1928年(昭和3年)8月、歩兵少佐に昇進し、同年11月からアメリカ駐在となり、1932年(昭和7年)、カンザス米陸軍大学校を卒業した。同年6月、歩兵第8連隊付となり、同年8月、歩兵中佐に進級。1933年(昭和8年)8月、陸大教官に就任。

1934年(昭和9年)11月から翌年1月までフィリピンに出張。教育総監部課員を経て、

1936年(昭和11年)8月、歩兵大佐に昇進し台湾軍参謀に就任。

1937年(昭和12年)8月、兵科を航空兵科に転じ航空兵大佐となる。同年12月から翌年2月まで、第5軍参謀を兼務した。

1938年(昭和13年)4月、アメリカ大使館付武官となり、

1939年(昭和14年)3月、陸軍少将に進級。同年12月、参謀本部付となる。日本軍きってのアメリカ通と言われた。

1940年(昭和15年)3月、第36歩兵団長に就任。第12軍参謀長を経て、

1941年(昭和16年)10月、陸軍中将に進み第1独立守備隊司令官となる。

1942年(昭和17年)6月、第15師団長に親補され、インパール作戦に参戦。同作戦中、多くの将兵と同じように自らもマラリヤに罹患し、柳田元三33師団長、佐藤幸徳31師団長と共に、上官である牟田口廉也に忌避され、

1944年(昭和19年)6月10日、師団長を解任され参謀本部付となる。後、収容先のメイミョウ(ビルマ)の兵站病院で結核のため病没した。

第15軍師団長のエピソード
インパール作戦が発令される当時の陸軍のヒエラルキー(組織の主従関係)は、次の通り。(祭・烈・弓の名は師団の通称)

↑下段中央:山内正文(第15師団長)

◇大本営参謀本部 参謀本部総長 杉山  元元帥(陸軍士官学校12期)
◇南方軍総司令官        寺内 寿一元帥(陸軍士官学校11期)
◇ビルマ方面軍司令官      河辺 正三中将(陸軍士官学校19期)
◇第15軍司令官        牟田口廉也中将(陸軍士官学校22期)
第15師団(祭)師団長    山内 正文中将(陸軍士官学校25期)
・第31師団(烈)師団長    佐藤 幸徳中将(陸軍士官学校25期)
・第33師団(弓)師団長    柳田 元三中将(陸軍士官学校26期)

第33師団の柳田元三師団長は、陸軍大学在学当時から合理主義的発想を好むタイプとして知られ、空虚な精神論を侮蔑していた。

第15師団長の山内正文は、昭和初年代にアメリカの陸大に留学を命じられ、そこを最優秀の成績で卒業しているし、昭和10年代にはアメリカで駐在武官を勤め、アメリカ軍の事情にも精通していた。山内も牟田口のようなタイプを軽侮していた。更に、

第30師団長の佐藤幸徳は、インパール作戦そのものに不信感を持ち、補給も十分でない状態で兵士を戦線に送り出すことはできないと主張していた。

 牟田口は、3人の師団長がよほど煙たかったのか、1月に各師団に作戦計画を示達するときに、3人の師団長を第15軍司令部に呼ばずに参謀長や作戦参謀だけを呼んで命令を下した。3人は打ち合わせをしていたわけではなかったが、ともに牟田口に対して反感をなおのこと強く持つに至った。これが作戦開始後に抗命、罷免、更迭といった事態を生むことになった。

3人の師団長と牟田口第15軍司令官の対立は、昭和陸軍の根本的な問題を露出していた。それは精神論と合理主義的分析の対立という側面と、高級指揮官がひとたび理知や知性を失ったらどうなるかを示すケースともいえた」 (『昭和陸軍の研究・下』P197)

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