3代松居久左衛門游見 (まつい きゅうさえもん、明和7年(1770年)-安政2年(1855年)は、江戸時代末期の近江の大商人、「松居久右衛門」家(松久)の分家。「松居久左衛門」家の三代目。後に「遊見」と号した。
松居久左衛門家(松居久右衛門家(松久)の分家)
松居久左衛門 (初代):2代久右衛門の子、通称久五郎が分家。屋号は『星久』。
松居久左衛門 (2代目)行願
松居久左衛門 (3代目)遊見:明和7年(1770年)-安政2年(1855年)幼名久三郎。
「小杉五郎右衛門」を商人として立ち直らせた逸話が残る。貧民救済や道路補修など社会事業に尽くす、堅実な商売を行った。
初代松居久左衛門は、江戸中期の18世紀半ばに本家の松居久右衛門家の3男で分家独立した。松居家は代々農業を種に農閑期に行商をしていた。
3代目松居久左衛門は、明和7年(1770年)近江国神崎郡位田村(現滋賀県東近江市五個荘竜田町)に2代目久左衛門の嫡子として生まれ、幼名を久三郎と言った。文化6年(1809年)39歳の時、父行願が死去し、3代目久左衛門と名乗った。
3代久左衛門は25歳で家業を相続したが、子供の頃から農業のかたわら父と生糸、綿布、絹布、麻布等の行商に出て商いを覚えた。
商いは近畿、尾張、遠江で繰綿、麻布を仕入れ信州、上州、江戸で売り捌き、帰りに生糸、絹布、紅花を仕入れ上方で売った。また、江戸と京都に出店を持ち、屋号「星久」とした。これは、朝、まだ星のあるうちに家を出て、夜、星をいただいて帰るという、勤勉と忍耐の商売をするという意味。
事業は麻布、糸絹、金銀の3つに分け、京都は呉服太物、生糸で、信州や上州で仕入れ、貸付は町人が中心だった。京都店は文化文政年間、大坂店は弘化年間、江戸店は嘉永年間以前から設置していたようだ。
豪商になった久左衛門だが、平素の生活は質素倹約に徹して、蓄財に努めた。
しかし、有事に際しては多額の出費を惜しまなかった。天保大飢饉や東本願寺焼失、京都御所焼失の際は、それぞれに数百両もの寄付をし、凶作で年貢不納の者があれば、そっと代納しておいてやるなどの慈善行為には枚挙にいとまがない。
また、後進の有能な湖東商人に対して資金援助を行うなど慈善事業だけでなく、ベンチャーの育成にも力を尽くした。
江戸期から150年の歴史の松居家の久左衛門遊見は、自分のみの富裕を望んだのではなく、商機を郷里の人々と共有しようとした。その考え方は、彼の信仰する仏教の教えに基づくものであった。この遊見の考え方は、自家に富をもたらしただけでなく、商人を目指す多くの後輩を育てることに繋がり、地域社会へ貢献するものとなった。
文化12年(1815年)から文政7年(1824年)の9年間で大名貸により久左衛門家では1万6千5百両が損失がでた。久左衛門家は各大名に対して、金額の大小により半額から全額献上を申し出た結果、大名貸の半分程度は回収を行う事ができた。
以降、久左衛門家では一切大名貸を禁止し、明治維新の混乱から大名家より全く資金が回収できず倒産する商人が多かった中、久左衛門家は踏み留まることができたという。
幕末明治維新を乗り越えた「星九」松居家は京都室町の繊維商社として隆盛だったが、しかし、平成12年(2000年)、経営破綻した。
(注釈:日野商人で大富豪だった中井源左衛門家は仙台藩等への大名貸し倒れで衰退を余儀なくされている)
また、
久左衛門は熱心な仏教徒で、代々先祖がそうであったように久左衛門も『遊見』との法号を用いた。久左衛門の一生は、豪商でありながら、夫婦・4人の子供・下男下女4人で6畳4間の質素な家に暮らし、木綿を着て食事は麦飯と一切生活上の華美を嫌った。
しかし、貧民には金品を貸し与え立ち直りの切っ掛けとするよう働きかけ、道路や橋梁の補修に資金を出すなどして、一生懸命働こうとしている人には暖かく、そして皆のためになることにはお金を積極的に用いた。
安政2年5月22日(1855年7月5日)久左衛門は大往生を遂げた。
初代松居久左衛門が商人として信用を得るきっかけとなった有名な逸話
小杉五郎右衛門(近江五個荘の同郷で、江戸時代後期の近江商人。小杉五郎右衛門家中興の祖であり、コスギの遠祖)が加賀国での徳政令により売掛金の回収ができなくなった時、松居久左衛門は「商人は得をするだけではない。損をした時こそ真の商人が生まれるものだ」と言って諭した。
結果、五郎右衛門は立ち直り、「徳政令で諸国の信用を失った加賀は物不足で困っているはず、今なら現金商売で大きな利益を得られる」と考え、その結果、物は高く売れ巨利を得たと言う。
ある日地方の知人が近江の本宅に来て、家と衣類の質素な事に驚き、商品を納めた蔵が立派なことにまた驚いた。商売の元手になるのは商品で、「商品を丁重に扱わねば商家に栄はない」と言う持論を持っていた。
久左衛門は声高に使用人を叱ることはなかった。使用人が商売に失敗しても暖かく迎え、物事を大切に良くした時は大いに褒めて僅かだが褒美銭を与えた。掃除が行き届いている時にも褒美銭を与えた。久左衛門は、「常に善行を認めてこれを褒賞すれば、自然に全ての人が忠実になるものだ」との考えに立っていた。
(以上、Wikipedia等を引用)