あ・の・ろぐ

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フランダースの犬って泣ける…?

2007年12月25日 | 日記
 読売新聞にこんな記事があった。
「フランダースの犬」日本人だけ共感…ベルギーで検証映画
12月25日12時9分配信 読売新聞
 【ブリュッセル=尾関航也】ベルギー北部フランドル(英名フランダース)地方在住のベルギー人映画監督が、クリスマスにちなんだ悲運の物語として日本で知られる「フランダースの犬」を“検証”するドキュメンタリー映画を作成した。

 物語の主人公ネロと忠犬パトラッシュが、クリスマスイブの夜に力尽きたアントワープの大聖堂で、27日に上映される。映画のタイトルは「パトラッシュ」で、監督はディディエ・ボルカールトさん(36)。制作のきっかけは、大聖堂でルーベンスの絵を見上げ、涙を流す日本人の姿を見たことだったという。

 物語では、画家を夢見る少年ネロが、放火のぬれぎぬを着せられて、村を追われ、吹雪の中をさまよった揚げ句、一度見たかったこの絵を目にする。そして誰を恨むこともなく、忠犬とともに天に召される。原作は英国人作家ウィーダが1870年代に書いたが、欧州では、物語は「負け犬の死」(ボルカールトさん)としか映らず、評価されることはなかった。米国では過去に5回映画化されているが、いずれもハッピーエンドに書き換えられた。悲しい結末の原作が、なぜ日本でのみ共感を集めたのかは、長く謎とされてきた。ボルカールトさんらは、3年をかけて謎の解明を試みた。資料発掘や、世界6か国での計100人を超えるインタビューで、浮かび上がったのは、日本人の心に潜む「滅びの美学」だった。


 フランダースの犬って泣けるかなぁ? 最初に言っとくと、私はフランダースの犬を見ても「なんでおじいさんもネロも少しくらい言い返したりしないんだろう? 死ぬほど追い詰められて(結果として死んじゃうし)黙って死ぬなんてなんてお人よしなんだろう」と不思議に思うばかりで大人になってから見ても泣いたことは無いです(ハイジでは何度も泣くけど)。

 「滅びの美学」って言葉自体にはかっこいい響きがあるかもしれないけど、「死んで花実が咲くものか」なんて言葉もある訳で、個人的に滅んだり死んだりすることで潔白を証明するなんてのは負けだと思う。「死は何も生み出しませんよ」って碇司令も言ってたし。

 こう言うのって「ハラキリ」とか「カミカゼアタック」と同様、異国の人にはショックなんだろうけど、ハラキリは封建社会での断罪に使われてた訳だし、カミカゼだって戦争の犠牲になったと言える訳で、本当に心の底から喜んで死んでいったのかどうか…(国のために犠牲になった方々の行為を冒涜するつもりは一切ありません)。

 そう言えばこの時期に忠臣蔵がテレビでよく流れるけど、例えば大石内蔵助の「あら楽や 思いははるる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」みたいな辞世の句は思いを遂げた後だからこう言えるのだろうし、そうでなければ浅野内匠頭のように「風さそう 花よりもなお 我はまた 春の名残りを いかにとやせん」となるのが日本人としては普通じゃないだろうか。

 いや、思いを遂げようが遂げまいがいずれにせよ「辞世の句」として自分の思いを歌に残してから死ねるから良いのであって、盗人だの放火犯だのと疑われたまま黙って教会で犬畜生と一緒にひっそりと死んじゃうのは「滅びの美学」と言うのとは違うと思う訳です。それを見て泣くのは「もののあはれ」に近いんじゃないかと。

 んで、ネロの立場になって考えてみると、彼はルーベンスの絵を見られて思いを遂げられたのかも。それを「死ぬ前に見たかった絵を見られて良かったね」と他人が泣くのはいいとして、ネロは村人に疑われようがそんなことはどうでも良かったのかもしれない。それって社会とのつながりを捨ててしまった「世捨て人」的な考え方じゃなかろうか? でもヨーロッパ人の村人達から見たら世捨て人と言うより世から捨てられた人だし、社会的に「負け犬の死」と思うのが自然じゃないだろうか?

 そう考えるとヨーロッパ人に比べて日本人って社会と個人のつながりとか社会的にどう見られるかと言うことに関心が低いのかもしれない。だから社会的な不満に対してなかなか行動しないで泣き寝入りしがちだし、社会的なマナーとかモラルがしばしば問題になる理由がそこに隠れている気がした。

 そして「滅びの美学」なんてかっこいいように思わせたいだけなんじゃないかと勘繰ってみる。辛い目にあわされても黙って耐えることがかっこいいんだよ…と大衆に思わせる印象操作と言うか欺瞞だとしたら…。