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天妃宮跡、天妃幼稚園、天妃小学校、上山中学校、米国民政府跡、程順則生家跡…那覇市久米

2014-05-13 | 歴史

 那覇市久米1丁目に、「那覇市立天妃幼稚園」「那覇市立天妃小学校」「那覇市立上山中学校」が隣接して建っています。狭い敷地を有効利用して建てられたため、「天妃幼稚園」は「天妃小学校」校庭の地下にあり、不思議な感じがします。「天妃幼稚園」に隣接して、「上天妃宮跡の石門」説明板があり、由来が記されています。

参照(那覇市立天妃幼稚園 http://www.nahaken-okn.ed.jp/tenpi-kg/

参照(那覇市立天妃小学校 http://www.nahaken-okn.ed.jp/tenpi-es/

参照(那覇市立上山中学校 http://www.nahaken-okn.ed.jp/uenoy-jh/

01-0413 上天妃宮跡の石門

02-0413 天妃宮跡

03-0413 上天妃宮跡の石門

04-0413 上天妃宮跡の石門

05-0413 上天妃宮跡の石門

「上天妃宮跡の石門(かみてんぴぐうあとのいしもん) 那覇市重要文化財・史跡 指定 1977(昭和52)年4月8日…10世紀半、中国福建省甫田県(ほてんけん)という所に媽祖(まそ)とあがめられた女性がいました。その死後、いつしか航海の安全を守ってくれる神として、中国南部の沿岸(えんがん)地方で広く信じられるようになり、明(みん)の皇帝(こうてい)は媽祖に『天妃(てんぴ)』という称号を贈ったのでした。中国と行き来する沖縄の船も天妃をまつり、出発する時や着いた時には、その地の天妃廟(宮)に詣(もう)でました。沖縄には、14世紀の終わりごろにやってきたという?人(びんじん)三十六姓(中国<福建省>の人々)とともに、天妃をまつる信仰も伝わったようです。那覇には、上天妃宮、下天妃宮(しもてんぴぐう)の二つがありましたが、現在残っているのは上天妃宮の石門だけです。上天妃宮が作られたのは、そこにかけられていた鐘(かね)に記された年号から、15世紀半ばごろと考えられます。石門に続く石垣は、布積みからあいかた積みが用いられるようになるころのものと考えられています。 那覇市教育委員会 平成12年10月 設置」

06-0413

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09-0413 てんぴようちえん

 幼稚園の屋上は、小学校の校庭となっていました。なんと、小学校の校庭地下に、幼稚園が建てられていたのです。

10-0512 天妃小学校

 小学校の道路側塀には、児童の標語が掲げられていました。

11-0512 天妃小学校児童の標語

12-0512 天妃小学校児童の標語

13-0512 天妃小学校児童の標語

14-0512 天妃小学校児童の標語

15-0512 天妃小学校児童の標語

16-0413 上山中学校

17-0413 上山中学校

18-0413 上山中学校

 上山中学校正門前左手に、「米国民政府跡」の説明板が設置されています。米国軍政府は、読谷村字比謝で設立され、具志川村栄野比、玉城村親慶原、那覇市天妃の旧国民学校と移り、その後、民政府が設立され、琉球政府ビルができるまで、沖縄行政の中心であり、米国民政府移転後、跡地に、上山中学校が開校しています。

19-0512 米国民政府跡

20-0512 米国民政府跡

21-0512 米国民政府跡

「米国民政府跡(ベイコクミンセイフアト)…沖縄統治のための米国(べいこく)政府の出先機関であった『米国民政府』の庁舎跡。正式名称は、琉球列島米国民政府(United States Civil Administration Of The Ryukyu Islands)で、英語の頭文字をとって、ユスカー(USCAR)または民政府などと呼ばれてた。 1945年(昭和20)3月26日、米軍の慶良間(けらま)諸島上陸、4月1日の沖縄本島上陸により始まった沖縄戦では、米軍は軍政施行を宣言(ニミッツ布告)し、本島上陸後、読谷村(よみたんそん)字比謝(ひじゃ)に軍政府を設立した。軍政府は、戦闘期間中、避難民の収容、資料配付、収容所の管理・運営などを行った。 沖縄戦終結後、米軍政府は、具志川村栄野比(ぐしかわそんえのび、現うるま市栄野比)に置かれ、1946年(昭和21)10月、玉城村親慶原(たまぐすくそんおやけばる、現南城市玉城親慶原)へ移転した。1946年4月24日に石川市東恩納(いしかわしひがしおんな、現うるま市東恩納)で発足した沖縄民政府も、軍政府移転に伴い、近隣する佐敷村新里(さしきそんしんざと、現南城市佐敷新里)へ移転した。 1949年(昭和24)7月25日、沖縄民政府は、戦災を免れた旧上山(うえのやま)国民学校(元那覇尋常小学校)に移転したが、すぐに隣接する天妃(てんぴ)国民学校に移った。12月には米軍政府が旧上山国民学校に移転し、軍政府長官シーツ少将は、那覇市を沖縄の首都とすると発表した。 1950年(昭和25)12月15日、軍政府が廃止され、替わって民政府が設立された。軍政から民政への移行は、沖縄住民の協力を得て、沖縄の長期的統治を可能にするための処置といわれる。以後、この一帯は、1953年(昭和28)に竣工した琉球政府ビル(現沖縄県庁所在地)に、米国民政府、琉球政府(1952年4月1日発足)が移転するまで、沖縄行政の中心地となっていた。 なお、米国民政府移転後、跡地に上山中学校が開校し、現在に至っている。 設置 2014年3月那覇市歴史博物館」

22-0512 米国民政府跡

 上山中学校正門近く、「西武門」バス停前に、「程順則生家跡」があります。程順則は、中国から「六諭衍義」等を持ち帰り、薩摩藩を経て徳川吉宗に献上し、全国に普及した功労者であり、孔子廟境内に、「明倫堂」を創設し、久米村子弟の教育にあたったことでも知られています。

23-0512 程順則生家跡

24-0512 程順則生家跡

25-0512 程順則生家跡

26-0512 程順則生家跡

「程順則生家跡(テイジュンソクセイカアト)…琉球王国を代表する文人、程順則の生家跡。 程順則は、1663年久米村(クニンダ、現那覇市久米、なはしくめ)生まれ。程順則は中国名で、字は寵文(ちょうぶん)。父は程泰祚(ていたいそ)といい、首里士家(しゅりしか)の虞氏外間筑登之實房(ぐうじほかまチクドゥンじっぽう)の次男であったが、中国語の才能を買われ、22才の時、王府の命により、久米村に入籍し、長く途絶えていた程家の跡を継いだ。 順則は、1683年20才の時、勤学(きんがく)として初めて清(しん、中国)に留学し、4年間滞在した。その後も三度渡唐(ととう)しているが、1706年には、正議大夫(せいぎたいふ、進貢副使)として北京(ぺきん)へ赴いている。1719年には、紫金大夫(しきんたいふ、親方位、ウェーカタくらい)に登り、久米村総役(クニンダスーヤク、久米村の最高役職)に就いた。 この間、『十七史(じゅうしちし)』全1,592巻や中国の教訓書『六諭衍義』等を持ち帰った。『六諭衍義(りくゆえんぎ)』は薩摩藩を経て、八代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)に献上され、その後、庶民教科書として全国に普及した。また、孔子廟(こうしびょう)境内に、琉球で最初の学校の「明倫堂(めいりんどう)」を創設(1718年)し、久米村子弟の教育にあたった。 順則は、『雪堂雑爼(せつどうざっそ)』(1696年)・『雪堂燕遊草(せつどうえんゆうそう)』(1698年)といった漢詩集や、中国渡航の際の航海指南書である『指南広義(しなんこうぎ)』(1708年)などを著し、1719年来琉した冊封副使徐葆光(じょほこう)に、中山(ちゅうざん、琉球)第一の文人と賞された。 1728年、66歳の時に名護間切(なごまぎり、現名護市)の総地頭となり、名護親方と称した。高徳の人として知られ、後に名護聖人と称された。 1734年死去、享年72。墓は辻原(つじばら)にあったが、沖縄戦後の区画整理により、識名(しきな)霊園内に移転された。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」


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