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カテーラムイ旧海軍壕、フェーメーシチャグイ家のフール、報徳碑…那覇市小禄「田原公園」

2014-05-12 | 平和

 那覇市小禄、小禄市営住宅に隣接して、「田原公園」があります。ゆいレール「小禄駅」に近く、各種大型店が近くにあり、日常生活に便利な地域です。広々とした公園は、緑に包まれ、ゆっくりくつろぐことができます。沖縄の南部地域は、ほとんどがそうですが、ここでも、沖縄戦で、悲惨な出来事がありました。公園の外側、「那覇市小禄学校給食センター」の向かいあたりに、「カテーラムイ旧海軍壕」入口の説明板があります。

 説明板をじっくり読み、さらに回ると、反対側の隅に、「フェーメーシチャグイ家のフール」がありました。その道向かいには、沖縄戦で殉職した村長夫妻の「報徳碑」がありました。「田原公園」の近くには、サイコロの形をしたトイレのある「小禄でいご公園」があり、「那覇市立小禄小学校」も近くにあります。

参照(那覇市立小禄小学校 http://www.nahaken-okn.ed.jp/oroku-es/

 

01-0512 小禄でいご公園

 

02-0512 田原公園

 

03-0512 田原公園

 

04-0512 田原公園

 

05-0512 田原公園

 

06-0512 田原公園

 

07-0512 田原公園

 

08-0512 田原公園

 

09-0512 カテーラムイ旧海軍壕

 

10-0512 カテーラムイ旧海軍壕

 

11-0512 カテーラムイ旧海軍壕

 

12-0512 カテーラムイ旧海軍壕

 

13-0512 カテーラムイ旧海軍壕

 

14-0512 カテーラムイ旧海軍壕

「カテーラムイ(寿山、ことぶきやま)旧海軍壕…海軍航空隊巌(いわを)部隊の本部陣地壕。日本軍は、この地を寿山と称した。小禄飛行場防衛のため、小禄(おろく)・豊見城(とみぐすく)一帯では、海軍少将大田実(おおたみのる)司令官の指揮下に連合陸戦部隊が編成され、多くの陣地壕が掘られた。その一つが本壕で、1944年8月から12月にかけて住民も動員して突貫工事で完成した。総延長は約350mで、その中に司令室・兵員室・暗号室などが設けられた。 1945年6月4日、米軍は飛行場のある字鏡水(かがみず)に上陸、戦闘が始まった。6月7日、米軍はここカテーラムイ一帯に激しい攻撃を加え、数日で制圧した。壕内には最大1,000人余の避難民・住民がいた。南部への撤退、避難民、戦死者数ともに不明であるが、8月段階でも約50人が壕内に留まっていたという。 設置 1995年6月 那覇市文化局歴史資料室」

 

15-0512 カテーラムイ旧海軍壕

 

16-0512 カテーラムイ旧海軍壕

 

17-0512 カテーラムイ旧海軍壕

 

18-0512 カテーラムイ旧海軍壕

 

19-0512 カテーラムイ旧海軍壕

 

20-0512 カテーラムイ旧海軍壕

参照(忘れられない、二十世紀の爪あと…旧海軍司令部壕 http://blog.goo.ne.jp/nrai5029knai/e/2f52a44f32000d52070f1dc00106636a

 

21-0512 那覇市小禄学校給食センター

 

22-0512 フェーメーシチャグイ家のフール

 

23-0512 フェーメーシチャグイ家のフール

「フェーメーシチャグイ家のフール…このフールは、字田原のフェーメーシチャグイ家(屋号)にあったものです。フールとは、豚小屋と便所を兼ねた施設で、前にトーシヌミーという穴があり、そこで用便を済ませます。さらにその前に、しゃがんで体が隠れる位の石垣がありました。豚がいる場所は、約3分の1ほどに石づくりのアーチ屋根があり、床はトーシヌミーと接続する方へ向かってゆるやかな勾配がつけられ、石敷きになっています。また、そこには、餌を入れる器を漆喰で固定していた跡がわかります。 このフールの石積みの技法は、かなり凝ったものになっており、明治時代の終わりごろから大正時代の初めごろにつくられたものではないかと考えられています。」

 

24-0512 フェーメーシチャグイ家のフール

 

25-0512 報徳碑

 

26-0512 報徳碑

 

27-0512 報徳碑

 

28-0512 アカナー森/ジマーラ川

 

29-0512


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