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具志火立所跡、赤嶺駅、当間学校跡、沖縄地方気象台跡…旧小禄

2014-05-14 | 歴史

 那覇市具志の丘陵地に建つ、「ライオンズマンション具志」の前に、「具志火立所跡」があります。中国などへの船舶の帰航・来航を伝える、「烽火台」の跡です。一帯は、現在、街区として整備されています。

01-0511 具志火立所跡

02-0511 具志火立所跡

03-0511 具志火立所跡

04-0511 具志火立所跡

05-0511 具志火立所跡

「具志火立所跡(グシフィータティジョアト)…船舶の帰航・来航を伝える烽火(のろし)台跡。小高い丘にあったことから俗に『火立毛(ヒータティモー)』とも呼ばれた。 琉球王国時代、中国からの進貢船(しんこうせん)の帰航、冊封船(さっぽうせん)や異国船の来航をいち早く首里王府(首里城)へ伝えるため、1944年『烽火の制』が定められ、沖縄本島をはじめ、慶良間(けらま)・久米(くめ)島など周辺離島、宮古(みやこ)・八重山(やえやま)諸島の各島に烽火をあげる『火立竈(ヒータティガマ)』・『遠見番所』が設置された。火立所では付近の百姓が三交替で見張りを務め、貢船・冠船が見えると、一隻であれば一本、二隻であれば二本、異国船の来航であれば三本というように烽火をあげる規定となっていた。 具志村の火立所は、村の北西白城原(フィリグスクバル)小高い丘にあり、1690年までには整備された。慶良間諸島の烽火を受けると、同様に烽火をあげ首里へ知らせるとともに、早馬を出して、那覇の親見世(おやみせ、那覇の行政を司る役所)へ報告した。 1879年(明治12)の沖縄県設置により、具志村の火立所は廃され、周辺は畑になったが、大正期まで『火立竈』の遺構や備蓄の薪が残されていたという。 沖縄戦の後、周辺は米軍基地として接収され、1972年(昭和47)の日本復帰にともない航空自衛隊に継続使用されたが、1976年(昭和51)に一部区域が変換された。返還後一帯は区画整理により敷き直され、街区として整備された。 設置 2003年3月 那覇市市民文化部歴史資料室」

06-0511 具志火立所跡

07-0511 ゆいレール赤嶺駅

08-0511 ゆいレール赤嶺駅

09-0511 ゆいレール赤嶺駅

10-0511 ゆいレール赤嶺駅

11-0511 ゆいレール赤嶺駅

12-0511 ゆいレール赤嶺駅

13-0511 ゆいレール赤嶺駅

 「ゆいレール赤嶺駅」バス停付近に、かつて「当間学校」として知られていた「小禄尋常高等小学校」がありました。「当間学校跡地」には、「県営赤嶺市街地住宅」が建設されています。

14-0511 当間学校跡

15-0511 当間学校跡

16-0511 当間学校跡

17-0511 当間学校跡

「当間学校跡(トウマガッコウアト)…この地に建てられた学校跡。正式名称は、小禄(おろく)尋常高等小学校。 小禄間切(まぎり、旧小禄村、現那覇市小禄地域)の小学校は、1880年(明治13)3月、小禄間切番所内(現那覇市字小禄)に置かれたのに始まる。1891年(明治24)頃、小禄間切赤嶺村(あかみねむら、現在地)と当間村の境に新築移転し、小禄尋常小学校と称した。当時は、4学年制で、習字や算術の授業が主であった。 1894年(明治27)の日清(にっしん)戦争勝利後、児童の就学数も次第に増え、小禄間切でも、1902年(明治35)、金城村(かなぐすくむら)に新たに学校を設置し、東部(とうぶ)小禄尋常小学校と称し、もとからの学校を西部(せいぶ)小禄尋常小学校と称した。翌年、西部小禄尋常小学校に高等科が設置され、小禄尋常高等小学校とした。これらの学校は、その所在地から金城学校、当間学校と称された。 1923年(大正12)、小禄尋常高等小学校が、校舎狭隘(きょうあい)として改築され、赤レンガ造りの2階建て校舎2棟が建設された。沖縄県で初めてのレンガ校舎で、『レンガ造りの当間学校』として有名になった。 学校周辺は、那覇と糸満(いとまん)を結ぶ糸満街道(1908年開通、現国道331号及び県道231号線)が通り、隣接地には、「当間の機織(はたおり)学校」と称された島尻(しまじり)女子工業徒弟(とてい)学校(1903年開校)や、小禄村役場(字小禄から1923年移転)が置かれ、昭和戦前期は、小禄村の中心地域であった。 1945年(昭和20年)の沖縄戦により、当間学校は消失し、一帯は、米軍基地(那覇空軍・海軍補助施設)となった。1980年(昭和55)から基地が返還され、小禄金城土地区画整理事業により、小禄地区の新しい街が創られた。当間学校跡地には、1986年(昭和61)に県営赤嶺市街地住宅が建設された。 設置2014年3月 那覇市歴史博物館」

18-0511 当間学校跡

 鏡水交差点付近、「陸上自衛隊駐屯地」前に、「沖縄地方気象台跡」があります。松尾山に設置された「県立那覇測候所」が火災で焼失し、鏡水で再出発した跡です。

19-0512 沖縄地方気象台跡

20-0512 沖縄地方気象台跡

21-0512 沖縄地方気象台跡

22-0512 沖縄地方気象台跡

23-0512 沖縄地方気象台跡

24-0512 沖縄地方気象台跡

「沖縄地方気象台跡(オキナワチホウキショウダイアト)…1927年(昭和2)この他に建てられた気象台跡。 沖縄の気象観測は、1890年(明治23)那覇(なは)の松尾山(現那覇市松山公園付近)に、沖縄県立那覇二等測候所が設置されたことに始まる。同年7月1日より1日6会の観測が実施されたが、当所、那覇の人々は測候所の看板を見て、『那覇(人)を測る所』と思い、皆驚き逃げ帰ったという。1900年(明治33)那覇一等測候所に昇格し、1日24回の定時観測を行った(1917年県立那覇測候所と改称)。1924年(大正 13)5月失火により全焼したため。東京の国立中央気象台は測候所の国営化を要望し、同年国立中央気象台付属沖縄測候所として再出発した。敷地は小禄(おろく)村鏡水名座原(カガンジナーザバル、通称ガジャンビラ高台)に約2,500坪の土地を買い上げ、1927年(昭和2)4月庁舎及び無線塔2基の施設が完成した。無線塔の鉄塔は高さ約90mで沖縄一の威容を誇った。(1932年中央気象台沖縄支台、1939年福岡管区沖縄気象台と改称)。 1945年(昭和20)沖縄戦で施設は全壊、跡地は米軍基地となり、現在陸上自衛隊駐屯地となっている。また、戦後の気象観測は琉球軍政府のもと、1950年(昭和25)琉球気象局が置かれ、日本復帰後は沖縄気象台として、天久前原(現那覇市天久)で観測を行っていたが、1987年(昭和62)現在地の那覇市樋川の合同庁舎に移った。 設置 2003年3月 那覇市市民文化部歴史資料室」

25-0512 沖縄地方気象台跡


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