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「首里市跡」「歴史散歩の道『ヒジガービラまーい』」「赤田首里殿内」…地域の歴史・文化にふれる

2014-03-13 | 文化

 私たちの周りには、地域の歴史・文化を伝える、数多くの遺跡・史跡があります。「首里市跡」は、琉球王国時代から明治期にかけて、首里地域最大の市場で、かつては「町端」と呼ばれ、その後、「池端」と改称された場所にあります。近くには、「山城まんじゅう」もあります。

 かつての「崎山馬場」に向かう一帯は、「崎山ギャラリー」と呼ばれ、芸術的な彫像が設置されています。

 赤田町には、弥勒神が町を練り歩く「ミルクウンケー」が伝えられており、わらべ歌「赤田首里殿内(アカタスンドゥンチ)」として、親しまれています。

01-0312 山川方面から池端へ

02-0312池端から首里城前方面へ

03-0312 池端から当蔵方面へ

04-0312 池端から山川方面へ

05-0312 池端

06-0312 首里市跡

07-0312 首里市跡

08-0312 首里市跡

09-0312 首里市跡

10-0312 首里市跡

「首里市跡(シュリマチアト)…琉球王国時代から明治期にかけての首里の市場跡。別に大市(ウフマチ)という。この一帯は首里地域最大の市場で、地名も市場の側のため「町端(まちばた)という。肉・魚・野菜など生鮮品や古着、壷などの日常品のほか、近郊地域からも品物が持ち込まれ販売された。 遅くまで賑わいを見せ、「町端の二度夕飯(ニドユウバン、売れ残りを料理すること)という言葉も伝わっている。明治期以降、玉陵(タマウドゥン)」付近に市場(真和志マチ)が移ったため、1920年(大正9)町端の地名を龍潭(りゅうたん、池)にちなみ「池端(いけはた)」と改称した。 設置 2007年2月 那覇市市民文化部歴史博物館」

11-0312 山城まんじゅう

12-0312 山城まんじゅう

13-0313

14-0313

15-0313

16-0313

17-0313 崎山馬場ギャラリー

「崎山馬場ギャラリー…崎山村(さきやまむら)、赤田村(あかたむら)、鳥小堀村(トゥンジュムイむら、現在の首里鳥堀町)は、首里三箇(しゅりさんか)と呼(よ)ばれ、王府時代(おうふじだい)から庶民(しょみん)のまちとして栄(さか)えました。特(とく)に廃藩置県(はいはんちけん、1879年)以降(いこう)は、泡盛(あわもり)づくりが盛(さか)んに行(おこ)なわれ、県下(けんか)にその名(な)を轟(とどろ)かせました。 ここから東(ひがし)へ90mほど行ったところから、直線(ちょくせん)に東(ひがし)へ延(の)びる約230mの道(みち)は、かつて「崎山馬場(さきやまばば)」(サチヤマウマウィー)と呼(よ)ばれ、王家御用(おうけごよう)の馬場(ばば)でした。ここでは、主(おも)に馬術訓練(ばじゅつくんれん)が行(おこ)なわれ、時(とき)には王様(おうさま)もお出(で)ましになったと伝(つた)えられています。 また、崎山村(さきやまむら)の人(ひと)たちは、馬場(ばば)を利用(りよう)して綱引(つなひ)きを行(おこ)なっていました。 馬場(ばば)であった道(みち)は再整備(さいせいび)がなされ、せせらぎや彫刻(ちょうこく)のある「崎山馬場(さきやまばば)ギャラリー」として、今(いま)でも崎山地区(さきやまちく)の中心的(ちゅうしんてき)な道空間(みちくうかん)となっています。 歴史散歩の道『ヒジガービラまーい』那覇市教育委員会 平成6年(1994年)3月設置」

18-0313 崎山馬場ギャラリー

19-0313 ヒジガービラまーい

20-0313ヒジガービラまーい

「歴史散歩の道『ヒジガービラまーい』…『ヒジガービラまーい』は、琉球王朝時代(りゅうきゅうおうちょうじだい)の古(ふる)い道筋(みちすじ)をたどりながら、地域(ちいき)の歴史(れきし)や文化遺産(ぶんかいさん)に接(せっ)し、楽(たの)しく散策(さんさく)できるように整備(せいび)された散歩道(さんぽみち)です。 この散歩道(さんぽみち)は、守礼門(しゅれいもん)からヒジ川橋(ガーばし)に至(いた)る、およそ1.8のKmの道筋(みちすじ)にある崎山馬場跡(さきやまばばあと)、雨乞い嶽(あまごいタキ)、御茶屋御殿跡(ウチャヤウドゥンあと、王家の別邸)、ヒジ川ビラ(石畳道、いしだたみみち)、などの史跡(しせき)をたどるように整備(せいび)されています。 道しるべをたどっていくと、地域(ちいき)の歴史(れきし)や文化(ぶんか)の跡(あと)が、身近(みぢか)なところに刻(きざ)み込(こ)まれている様子(ようす)を見(み)ることができます。 那覇市教育委員会 平成6年(1994年)3月設置」

21-0311 赤田クラブ

22-0311 赤田首里殿内

23-0311 赤田首里殿内

「首里殿内跡(シュンドゥンチアト)…首里王国時代の高級女神官の一人『首里大阿母志良礼(シュイウフアンシラリ)』の神殿及び住居跡。尚真(しょうしん)王代(1477~1526年)、琉球王国の神女組織が整備され、最高女神官「聞得大君(きこえおおきみ)」の下に首里(シュイ)・真壁(マカン)・儀保(ジーブ)の3人の「大阿母志良礼(おおあむしられ)」が置かれた。3人の「大阿母志良礼」は、聞得大君を補佐して国王の長寿・国の繁栄・五穀豊穣・航海安全を祈願するほか、琉球国中の御嶽・神女を3分割して所管した。「首里大阿母志良礼」は、首里の南風の平等(フェーヌヒラ、現大中・桃原・当蔵・赤田・崎山・鳥堀町地域)を始め、斎場御嶽(セーファウタキ)や久高(くだか)島のある知念間切(ちねんまぎり)、尚円(しょぅえん)王統初代の尚円ゆかりの伊是名(いぜな)島など王国祭祀で重要な地域の神女(ノロ)を管轄した。 廃藩置県(1879年)の後。首里・真壁・儀保の3つの殿内の神殿は天界寺(ティンケージ)跡の一角に移され、1つの建物にまとめられて「三殿内(サンドゥンチ)」と呼ばれた。首里殿内跡は大正初期に払い下げられ、敷地の一部は赤田倶楽部(くらぶ、公民館)となり、1921年(大正10)に結成された首里三箇(さんか、赤田・崎山・鳥堀町)の中学生会「三星会(さんせいかい)」の集会所としても利用された。 赤田町には旧暦7月16日に弥勒(みろく)神が町を練り歩く「ミルクウンケー」という行事が古くから伝えられ、この行事を歌ったわらべ歌『赤田首里殿内(アカタスンドゥンチ)』は広く親しまれている。 設置2004年3月 那覇市市民文化部歴史資料室」

24-0311 赤田クラブ


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