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NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会 公式ブログ

八王子市認定 滝山観光おもてなしボランティアガイド団体「ウジテラーズ」滝山城跡の下草刈りを毎月実施しています

滝山城跡ARしてきたよ

2016-04-24 21:40:00 | 滝山城あれこれ
実は今日、臨時で滝山城跡の下草刈りを行う予定でしたが、
午前中降雨のため中止になりました。
そこで時間があいたので雨がやんだ午後から滝山城に
ARしに行ってきました。
ARしに多くの人が来てるかと思ったのですが
天気が悪かったせいか、人は少なかったです。

ARしての感想です

ARのイメージ映像と音声解説は滝山城など山城のことなどを知らない人には参考になるでしょう。
山城のことを知っている人、
つまり塀や木戸、戦闘などをイメージできる人には
AR映像はそれほど新しく感動するほどではないかもしれません。

ARが利用できる10箇所すべてで画像と実際の風景にずれが生じました。
実際の風景にうまく重ならないのは残念
これは使い方の説明にあるように、天候が良くない場合GPSの精度が落ちるため
画面表示にズレが生じることがあるようなのでこのためかもしれません。
今日は雨上がりの明るい曇り空でした。

AR使用時はスマホの電池消耗早いので
充電満タンお奨めです。

4月24日の滝山城です。少し前までは枯れ葉ばかりだったのが緑に変わってました。
旧滝山荘に「ARアプリで蘇る滝山城跡」の告知チラシが貼ってありました


ARアプリを起動して遺構説明板の下部にある黄色いマーカーを読み取ると映像を見ることができます


中の丸から引き橋を渡った本丸の枡形虎口は発掘調査の説明板にマーカーがあります。


二の丸のARマーカーはこれ! 何の看板?かと見逃してしまいそう。


本丸の枡形虎口でAR スマホの画面サイズは5.5インチ
タブレットの大きい画面サイズの方が見やすそうですね


小宮曲輪入口付近 4月も後半、新緑が奇麗になってきました


二の丸から大馬出への土橋


大池 ツツジの季節です


滝山城本丸 四季折々の美しい景色があります


千畳敷と堀


新緑は奇麗ですが、だんだん見通しがきかなくなり下草が伸びてきました。
地形が分かりずらく山城の遺構観察がしにくい季節です。


関係ない話ですが、スマホケースがピンク色の理由は
山によく行くのでリュックサックの中や暗い所でも目立ち
どこに置いてもすぐ分かるようにピンクです。
ピンク色好きです。

「笛継観音」北条氏照は横笛上手♪ 北条家は音楽ファミリー

2015-05-19 19:45:00 | 滝山城あれこれ
 東京都多摩地域の郷土史を研究されている方や詳しい方には改めて紹介するほどではないのですが、この小話が小田原北条氏・滝山城・八王子城がお好きな方に楽しんで頂ければと思い紹介させて頂きます。
 原文を現代語で昔話風に独自に記述していますので(内容は変わらないように)、学者の皆様方はその点について批評等あるでしょうがご容赦願います。
 以前に紹介した「狐塚の縁起」と併せて読んでいただければオモシロイかと思います。
それでは…

「笛継観音」武蔵名勝図会 小宮領より

 北条氏照が滝山に居住していたころ、城下に家臣の浅尾某という人物が住んでいた。この浅尾某は横笛を吹くのが得意で、その縁があり氏照に仕えるようになったという。氏照も和楽を好み、秘蔵の名管を常にこの浅尾某に預けていた。ところがある日のこと、浅尾某どうしてしまったことか、かの名管を過って打ち壊してしまったのである。
 この横笛は主君秘蔵の名管、天下に二管あるそのうちの一管である。代替の品などあるわけもない。浅尾某は自分の身命にかえてでも何とかせねばと、村の観音様に必死の想いで昼夜祈願した。
 そして、ある夜夢のなかに観音様が現われ不思議な御告げがあった。翌朝飛び起きて名管の入った箱を開けてみると、驚くことに横笛は壊れたあとなど何処にもなく元通りの姿かたちに戻っているではないか。浅尾某は観音様の不思議なお力に涙を流して感謝し、村の観音様のところに駆けつけお礼をしたのだった。
 このできごとは主君氏照の耳にも入り、その横笛を手元へ取り寄せ調べてみたところ、これまでと少しも変わるところはなかった。
氏照は浅尾某に、「汝この横笛を預かり過って打ち壊してしまったという。その責任を果たすために身命を捨ててでも元通りにしてほしいと祈願したというが、観音の慈悲により汝の身命と名管双方ともに無事であった。これより氏を改めて“ 笛彦兵衛 ”と名乗るべし」と申し付け、それより浅尾某は笛彦兵衛と名乗るようになった。
 その後、天正十八年六月、八王子城攻めのとき、笛彦兵衛も籠城し名管を守護していたが、ついに二十三日 本丸へ火が懸ったときには預かっていた名管をも打ち捨て、乱軍の中に討死し、名管も同時に焼亡したという。
・・・おしまい

ふっ「ふえひこべ~」、カッコいい名前ではないな・・・

新編武蔵風土記稿 粟之洲村では、笛継観音を笛吹菩薩と呼びその由来は知らずとある。
築地ノ渡ヘユク往還ノ傍ニアリ。四間四面俗ニコレヲ笛吹菩薩ト號ス。ソノ来由ヲシラス。十一面観音也。(築地(ついじ)は東京都昭島市築地町で多摩川の渡しがあった)

この小話どこまで事実かわかりませんが話の中で興味深いことがあります。
それは、氏照は秘蔵の名管を常にこの浅尾某に預けていたというところだ。
この一文から預物の習俗が読み取れたのじゃ。

【隠物、預物の習俗】

大和の戦国誌「多聞院日記」
あわてて「子を逆に負う」ほどの戦乱と逃散のパニックの中で、どこかに道具を隠すのを、隠物または預物とよんでいる。

中世後期になると他領の農民に家財をあずける契約を結ぶなど、百姓たちは、米・麦など大切な家財の多くは普段から自分の家には置かずよそに預けるのを常としたらしい。
寺坊もまた隠物の場として大きな地位を占めていた。坊主、武士、百姓、商人さまざまな階層の人々がふだんから寺坊に家財を預けていた。

逃散の時、村ぐるみで他の村に財物や牛馬等の預け物をする。

<合戦に備えた隠物・預物>
モノトリセンタメニ軍勢ニマキレテ南禅寺乱入
モノヲトルノミナラス火ヲ付テヤキ払

村人は、合戦が始まる、敵の軍隊が攻めて来るというと、敵の略奪を逃れるために財産や証書、金銀・高価な道具、牛・馬・ネコ・ニワトリなどの家畜までも隣村や寺などに預けたのじゃ。
田畠等ノ文書ヲ山野ニカクス → 村の山には「隠物の場」があった。
争乱時に隠物・預物をしなければすべてを失ってしまうのじゃよ。

笛継観音が安置される東京都八王子市小宮 東福寺


北条家は音楽ファミリー
 こちらも武蔵名勝図会より
北条氏康、氏政は常に謡曲を好み、陸奥守氏照は横笛の上手にて、在城閑暇の時みずから横笛を吹き臣下に乱舞致させ興を催されけるゆえ、大黒と称する名管を秘蔵す。金の高彫をすえて、その形あるゆえに斯くは名付けるところなり。この横笛は天下の名器にて、これに対する名管は神祖大君御秘蔵の獅子と号する名管なり。この二管を天下の名器とす。
三十年前より得給いて御秘蔵なり。

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拝島村の珍談 「狐塚の縁起」(再掲)

 拝島駅近く拝島ガーデン通称料亭「山茶花」の庭園内に一つの塚がある。人呼んでこれを「狐塚」という。
 その由来は今から約450年前の戦国時代、永禄6年3月、多摩川上流を支配していた三田綱秀の居城 辛垣城(東京都青梅市二俣尾)が滝山城主 北条氏照に猛襲されて落城し、ここに三田氏一族が亡びたのである。
 落城のさい三田綱秀の息女 笛姫は難を逃れて秋川の近くに隠棲し、父の形見である「狐丸の名笛」を友として日々過ごしていたのである。(滝山城本丸の北方眼下は多摩川と秋川の合流地点)
 ある日のこと、北条氏照が狩猟の帰り道、どこからか聞こえてくる笛の音に気づいたのである。しばらく耳を傾けていたが、やがて従臣にその笛の主を滝山城の館に招くよう命じたのである。従臣は主命に従い直ちに笛の主を探しだした。この笛の主が三田綱秀の息女 笛姫だったのである。従臣はこの旨を笛姫に伝えると、笛姫は内心父の仇を討つ絶好の機会が来たとばかりに、請われるまま館に出向き氏照に会ったのである。
 笛姫が滝山城の館に訪れると氏照は即座に二三の曲の吹奏を所望した。笛姫はこれを諾し狐丸を吹き始めた。そして美しい音色に耳を傾ける氏照の隙を狙って懐剣を抜き放って斬りかかった。しかし、氏照はこれをしりぞけて取り押さえた。
そのあと氏照は何事もなかったかのように、更に自分の「愛笛 雲丸」との合奏を所望した。
 こうして笛姫はいつのまにか城中深く氏照の近くにあり、笛の友として過ごすうちにいつか想思の仲となったのである。このことが氏照の夫人 比佐の知るところとなり、夫人は密かに刺客を送り笛姫を殺害させてしまったのである。氏照はこの兇変を聞いて大いに歎き、笛姫を城の北方多摩川を隔てた栗林の丘陵の一角に手厚く埋葬させたのである。

参考 : 昭和35年5月 昭島市郷土史会発行 "拝島の研究"

「狐塚の縁起」 滝山城主 北条氏照は笛の名手? 氏照と比佐そして笛姫…

2015-04-11 21:30:00 | 滝山城あれこれ
参考 : 昭和35年5月 昭島市郷土史会発行 "拝島の研究"
拝島(はいじま)は、東京都昭島市(あきしまし)拝島町のことです。
付け加えますと昭島も拝島も、"島"ではありません。
その拝島に伝わる?北条氏照にまつわる話です。

拝島村の珍談 「狐塚の縁起」

 拝島駅近く拝島ガーデン通称料亭「山茶花」の庭園内に一つの塚がある。人呼んでこれを「狐塚」という。
 その由来は今から約450年前の戦国時代、永禄6年3月、多摩川上流を支配していた三田綱秀の居城 辛垣城(東京都青梅市二俣尾)が滝山城主 北条氏照に猛襲されて落城し、ここに三田氏一族が亡びたのである。
 落城のさい三田綱秀の息女 笛姫は難を逃れて秋川の近くに隠棲し、父の形見である「狐丸の名笛」を友として日々過ごしていたのである。(滝山城本丸の北方眼下は多摩川と秋川の合流地点)
 ある日のこと、北条氏照が狩猟の帰り道、どこからか聞こえてくる笛の音に気づいたのである。しばらく耳を傾けていたが、やがて従臣にその笛の主を滝山城の館に招くよう命じたのである。従臣は主命に従い直ちに笛の主を探しだした。この笛の主が三田綱秀の息女 笛姫だったのである。従臣はこの旨を笛姫に伝えると、笛姫は内心父の仇を討つ絶好の機会が来たとばかりに、請われるまま館に出向き氏照に会ったのである。
 笛姫が滝山城の館に訪れると氏照は即座に二三の曲の吹奏を所望した。笛姫はこれを諾し狐丸を吹き始めた。そして美しい音色に耳を傾ける氏照の隙を狙って懐剣を抜き放って斬りかかった。しかし、氏照はこれをしりぞけて取り押さえた。
そのあと氏照は何事もなかったかのように、更に自分の「愛笛 雲丸」との合奏を所望した。
 こうして笛姫はいつのまにか城中深く氏照の近くにあり、笛の友として過ごすうちにいつか想思の仲となったのである。このことが氏照の夫人 比佐の知るところとなり、夫人は密かに刺客を送り笛姫を殺害させてしまったのである。氏照はこの兇変を聞いて大いに歎き、笛姫を城の北方多摩川を隔てた栗林の丘陵の一角に手厚く埋葬させたのである。

この墓が狐塚である。
…さて、「狐塚」はいづこに…
「狐塚」があったというJR青梅線 拝島駅近く拝島ガーデン通称料亭「山茶花」の場所がよくわからないのですが、拝島駅南口 道路脇にある小高く塚のように見える小さな稲荷神社があります。もしかしたらここかな???

追記:ここではないようでした。20年前の地図を見たら「拝島ガーデン」という場所を見つけました。もし塚を確認できたら報告します。

拝島駅近くには、国道16号が通り、道路が新設・拡張され、さらにはマンション開発も進む。
狐塚は既に無いのかもしれない。
墓は祟りを恐れて破壊しないと思うのだが…怨霊

こうして見ると拝島駅は意外と高いところにある。滝山城から見えるこの小高い地に笛姫を埋葬したといのうか?

拝島駅南口からも滝山丘陵がよく見える。


氏照と笛姫は滝山城のどこで笛を楽しんでいたのだろう?

滝山城の弁天池跡 通行ご注意ください、穴があります!

2015-01-29 22:01:59 | 滝山城あれこれ
弁天池跡 矢印のあたりに1m位の深さの穴がありますので通行ご注意ください。
このあたり、画面の左方から水が湧き、右方へ沢となり流れています。
矢印のあたりで一旦伏流水となり地面の下を水が流れているのですが、
この地面の中に空洞ができて、地表に穴があいています。
周囲も地表が非常に薄くなっているので、近寄ると地面が陥没する恐れがありますのでご注意願います。





滝山城の「 鍛治谷戸 」と「 下原刀 」 周重・康重・照重・正重 日本刀鑑賞

2014-11-23 21:00:00 | 滝山城あれこれ
 突然ですが下原刀(シタハラトウ)をご存じでしょうか? 
下原刀とは、東京都八王子市の下恩方、横川、元八王子などに住み、山本姓を名乗る下原鍛治といわれる刀工達が製作した刀剣類の総称、八王子市の郷土刀です。
 小田原北条氏に仕えた刀工 相州綱家の弟子 周重が、文亀・永正(1501~1520)に下原に移住し下原鍛治の祖となった。小田原相州系鍛治である。
 室町時代末期から安土桃山時代、大石氏、北条氏の庇護を受け、その後江戸時代は徳川氏から旧領を安堵され幕府の御用鍛治として幕末まで鍛刀が続けられた。
代表的な刀工として、重(チカシゲ)、重(ヤスシゲ)、重(テルシゲ)、廣(テルヒロ)、重(マサシゲ)、
廣重(ヒロシゲ)などがある。
ん~、見覚えのある文字が…
  大石源左衛門尉綱
  北条氏
  北条氏
正重の”正”は、北条氏の”政”と、読みが同じだが…はたして?

 滝山城 二の丸 大馬出から滝山街道方面に降ると、”鍛治谷戸”(カジヤト)と呼ばれ、現在は畑で細い沢が流れる場所があります。
いつの時代から”鍛治谷戸”と呼ばれているかは不明です。
その名称からすると、そこに鍛治職人の仕事場があったことが想像されます。もし、”鍛治谷戸”が滝山城が城としてあった時代からの名称で、その場所で刀や槍でも鍛えていたとしたら、滝山城の話題的には面白くなるところなのですが、滝山城主 北条氏照が浄福寺城から滝山城に城を移した時に下原鍛治が滝山城下に移転した形跡はないということです。
 では刀鍛冶でなかったとすると、鍬、鋤、鎌、鉈などの農具や山林刃物を造る野鍛治だったのでしょうか?
領主は農業の生産性を高める為にかかせない農具などを造る鍛治職人、その職能を歓迎する意味で領主の勧農のひとつの手段として彼らの仕事場を城域に取り込んだ(私ノッチの妄想的な仮説です)。
 更に滝山城の”専国谷戸”(センゴクヤト)には大池がある。この池には二段構えの堤が存在し、この池も勧農のための池であったと云われている。
つまり勧農は領主の義務である。

 越後 色部氏「吉書初め」
  一 神仏を大切にすること
  二 領主は堤、溝を築き勧農…
  三 領民は年貢を納めること…

滝山城でも、氏照による勧農がおこなわれていたのだと思うのじゃが 
下原刀を鑑賞しながら、戦国滝山城下の村の風景に想いを巡らせる。

脇差 銘[ 武州下原住正重 ] 初代照重の子で「正重」の作 時代:天正の頃


力強い姿、下原刀は折れず・曲がらず、実践刀と云われている


茎(なかご)は相州伝に多いタナゴ腹(魚のタナゴに似ている)


下原刀独特の鉄の地肌 すばらしく美しい


参考資料:下原刀―八王子市指定文化財刀剣と赤羽刀―
平成15年2月8日発行
編集:八王子市郷土資料館  発行:八王子市教育委員会