上州からの山旅

凡人noyamaの山旅の記録

中山道69次を歩く (野尻宿~三留野)

2024年02月01日 | 街道を歩く
   




【16日目 信濃路 長野県】 令和6年(2024)1月14日(土)快晴
 宿場距離:野尻宿~三留野宿 10.2km 
 歩行距離:野尻宿から三留野宿 11.5km(累計384.7km) (日本橋・三留野 3割増384.7/313.3=1.23)
 行  程:野尻駅08:00---10:31三留野宿10:31---11:04南木曽駅12:19===13:49塩尻
 

【野尻宿から三留野宿へ 8:00野尻駅を出立】

宿から北東方向に雪を被った山々が見える
3泊4日の旅も最終日にしてようやく晴れた
木曽駒・宝剣~空木岳なのだろう


宿から野尻駅まで送ってもらい出立



庭田屋旅館と野尻宿の街並み



野尻宿の西のはずれ
野尻宿の特徴は外敵を防ぐための「桝形」が随所に設けられ「七曲り」といわれた



下在郷の一里塚 江戸日本橋より数えて七十七里目  (8:15 野尻駅より0.9km)


一里塚を振り返ると正面に尖った白い山が見える
カシミールで調べると宝剣と空木岳の間で手前にある三沢岳(2846m)の様だ



対岸に橋が見える
こちらに向かって木曽川に流れ込んでくる川が阿寺渓谷
全長15kmの木曽5木に囲まれた清流は最近外国人にも人気の渓谷らしい



旧第3仲仙道踏切

第13仲仙道踏切



対岸に昨日泊まった「フォレスト木曽あてら荘」


読書ダム
このダムの堤体が渡れれば「あてら荘」は直ぐだが上流まで迂回しなければ行けない



薄く雪の積もった旧道を滑らないよう慎重に歩く



旧十二兼村(じゅうにかね)の石仏石塔群 古い馬頭観音や二十三夜塔等がある
(8:50 野尻駅より3.4km)



天照皇大神宮常夜燈 天保十三年(1842)建立



熊野神社 正面からの参道階段は閉鎖されていた




トンネル(十二兼地下道)で国道19号とJR中央本線を潜る



十二兼の一里塚跡碑 江戸日本橋より七十八里目 (9:15 野尻駅より4.4km)
線路の反対側にあるので十二兼駅構内に入り、構内連絡橋で渡る



南寝覚 柿其(かきぞれ)峡谷



金毘羅神社 石碑だけの神社、左にもう一つ神社名が刻まれているが摩滅して読めない



このあたり木曽川の石が異様に白い、花崗岩だからだろうか?



国道19号線のカーブしている所が与川と木曽川の合流点
このあたり断崖が木曽川に垂直に落ち込んだ木曽路最大の難所といわれた「羅天の桟道跡」


与川度(よかわど)の石地蔵
天保十五年(1844)五月二十七日の夜に発生した蛇抜け(土石流)で犠牲になった人々の霊を弔う為に尾張藩が弘化二年(1845)に造立



中央本線のガード下を潜る 左に馬頭観音と彫られた丸い石


【41番目三留野宿着 日本橋より宿場間距離313.3km (10:20 野尻駅より9.0km)】


三留野宿の街並み


脇本陣跡




本陣跡 明治14年(1881)の火災で建物は焼失



常夜燈 享和三年(1803)建立



一刀彫の円空仏が所蔵されている曹洞宗日星山等覚寺

円空堂  この中に円空仏3体が納められている
拝観料100円を払えば見せてもらえたが葬儀で忙しそうなので観ずに帰る



南木曽駅沿いの営林署の土場(木曽ヒノキの集積場)



南木曽駅 木曽川に架かる吊り橋(桃介橋)も見える


桃介橋(ももすけはし)重要文化財、近代化産業遺産
「大同電力 社長福沢桃介が、水力発電開発(読書発電所)のために架けた吊橋で大正11年9月に完成した全長247mの日本でも最大級の木橋」



南木曽駅
今回はここが終点、車を置いた塩尻まで戻る

これまでの記録はこちら



真冬の中山道3泊4日の木曽路、やはり雪道となりました
当時の木曽路は「木曽の桟」や「羅天の桟道」など黒部下の廊下以上の厳しさだったのだろう
回国六部の石碑は行き倒れた人の慰霊碑だろうか
今回の旅で行程の半分を過ぎ次回は美濃国へ
春爛漫の頃、京都三条大橋に着ければと思う今日この頃です

 ↓そんな訳で 押していただくとたすかります





 地図


*参考
「ちゃんと歩ける中山道69次」 八木牧夫著 山と渓谷社
「日本史 小辞典」(改訂版) 山川出版社
五街道ウオーク:上記本の著者八木牧夫さんのホームページ
電子足跡・中山道歩き旅GPSログがとても参考になります

【回国六部】
日本廻国大乗妙典六十六部経聖(ひじり)。略称は六部・廻国。「法華経」66部を書写し,全国66州(壱岐国・対馬国を除く)の霊場に1部ずつ奉納する廻国の修行者,またその書写した経典。江戸時代には経典でなく納経札が奉納された。各国の一宮や国分寺に納めることが多いが,必ずしも一定せず巡路も決まっていない。六十六部に身をやつした物乞いも多く,行き倒れのあった場所には六部塚が作られた。(山川 日本史小辞典 改訂新版 )


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