上州からの山旅

凡人noyamaの山旅の記録

鎌倉街道上道を歩く5日目 (武蔵高萩駅~所沢駅)

2023年03月22日 | 街道を歩く

 鎌倉街道は信濃、越後、陸奥方面から鎌倉へ通じた道で鎌倉幕府の御家人らが鎌倉へ向かう道として発展したが、今では道路改修・圃場整備・宅地造成など様々な事業で往時の姿が残っているところは少ないそうだ。
 鎌倉から上州へ向かう上道(カミミチ・カミツミチ、上の道)、下野へ向かう中道(中の道)、常陸へ向かう下道(下の道)が有名であるが、我が上州から鎌倉への上道を歩いてみることにした。『いざ! 鎌倉へ』




【4日目 埼玉県】 2023年3月19日(日)晴
 歩行距離:武蔵高萩駅~所沢駅 23.0km(累計102.5km) 
 行  程:前橋駅5:31====8:10武蔵高萩駅08:14---08:36女影時計台08:36----08:44霞野神社08:46----09:46智光山公園09:47----10:07影隠地蔵10:08----11:06徳林寺11:12-----11:25入間川八幡神社11:26----11:31御幸二芝桜公園11:31----11:35慈眼寺11:41----12:15昼食12:48----13:30七曲井戸----15:0神明社---15:30新光寺---16:06所沢駅16:09==池袋==赤羽==18:52前橋駅
 所沢駅=池袋運賃356円 JR青春18切符1回分2400円 グリーン800円 駐車料金400円 ラーメン930円


【8:14発】
前回の続き、武蔵高萩駅を出発
駅北口を出て川越線「鎌倉街道」踏切を南へ渡る




前回は気づかなかったが踏切手前に墓地と石碑があった
「廻国供養塔」で寛政の文字が読める200年位前のものだろう
 メモ:日本廻国大乗妙典六十六部経聖といい、法華経を66部写経し、日本全国を巡って66の国々(壱岐国・対馬国を除く)の寺社に納経する修行者のこと。略して六十六部廻国聖とも呼ばれ、江戸時代には更に略されて六十六部もしくは六部(ろくぶ)と呼ばれた。『ウィキペディア(Wikipedia)』

【8:30 駅から1km】


 駅から1km程歩くと、前回歩いてきた堺橋からの道に当たる
 近くに「薬師堂」がある
 境内には「石橋供養塔」と良く読めない「板碑」があった
 「石橋供養塔」は堺橋付近にあったものを移設したのでは無いかと謂われている
◆石橋供養塔
石橋供養塔は、その石橋が長く無事であることを祈願して建てられたと考えられています。供養という言葉は、現在では冥福を祈ると同義語として使われますが、江戸時代には加護や感謝、さらには成就や記念という意味合いがあったと考えられています。熊谷デジタルミュージアム



女影時計台
「 女影時計台は青年の人達によて昭和3年9月に御大典記念と
して建設され49年余時刻をしらせ道路改良のため昭和51年9月
御即位50年を記念し女影時計台として再建 昭和51年11月」

とあるが、中の時計は新しそう



下小畔川に架かる諏訪橋

諏訪橋手前の石碑
文字が良く読めないが、左手前は諏訪橋改設記念碑、右は日本廻国供養塔らしい




霞野神社

神社脇を鎌倉街道が走り
「いざ鎌倉」の鎌倉街道は鎌倉に異常事態が発生した時に御家人が駆けつける道でもあり
 鎌倉幕府を攻め滅ぼした新田義貞が攻めあがった道
そして敗北し信濃の逃げた鎌倉幕府最後の執権北条高時の息子が再び鎌倉攻をした道




神社から南下する道は鎌倉街道の面影を残す狭い道幅


「生活道路につき車両の侵入はご遠慮下さい」とあるが
車両は頻繁に侵入しきて交換に苦労する



道標を兼ねた馬頭観音
川越や江戸の文字が見える




第二小畔川を渡ると左側に平成3年に建てられた鎌倉街道上道の解説版



解説版の先にある坂
昭和の時代までは狭い切通しだったそうだが今は工場が建ち道幅が広がっている




国道407号線交差点信号に「鎌倉街道」の表示
直交する両方向に「鎌倉街道」の表示があるのでどちらが鎌倉街道なのか分かりにくい



南小畔川を渡る

【10:10 8.2km】

工業団地等がある台地から奥州街道交差点まで信濃坂を入間川に向かって下る
鎌倉街道に信濃坂?、奥州街道交差点??
どんな所を歩いているのか判らなくなりそうだ


そんな疑問に答えてくれる解説版が近くにある



交差点近くにある「影隠地蔵」

木曽義仲の子で頼朝に人質として捕らえられ鎌倉にいた義高は、父義仲の死後、我が身に難が及ぶのを避けるため、頼朝の娘の大姫のはからいで、 一路上道を北へと逃走しますが、ついにここ入間川で追ってに追いつかれてしまいました。しかし、この地蔵尊の影に隠れて一時難を逃れたと言い伝えられています。



入間川に架かる昭代橋と新富士見橋の中間地点であるこのあたりが「八丁の渡し」か?
今歩いて渡れるか覗いてみるがカモ(カイツブリ)が深く潜水しているので断念し上流の新富士見橋へ


新富士見橋から昭代橋方面、流路が狭まっているあたりが中間地点


入間川を渡り、鎌倉街道を外れ上流側へ300mほど進む
【10:50 8.2km 清水八幡】


曽義仲の嫡子である儀高は源頼朝の人質となったり頼朝の娘大姫と結婚。義仲が頼朝に討ち果たされると身の危険を感じ、祖父義賢のち大蔵館(嵐山町)方面に逃げるが、しかし入間川原で討ち取られた。それを悲しんだ大姫と母北条政子がここに祀清水冠者儀高を祀った。
*鎌倉街道には大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で見た現場が数多くある!




鎌倉街道に戻り、「八丁の渡し」の右岸側あたりに来ると「水神」があった
洪水に悩まされた地域だろうか?



近くに入間川大国神社


【11:06 9.6km 福聚山徳林寺(曹洞宗)】

曹洞宗のお寺は軒先がそっくり返る形が多いそうだ
新田義貞が鎌倉攻めの際この地に本陣を置き、聖観音を安置したのが始まりと伝わっている。
武蔵野観音霊場(33+1観音)の17番札所でもあるようだ

六角地蔵堂がある



狭山八幡




本殿の彫り物は立派、彫師は上州勢多郡上田沢・上神梅(現在の群馬県桐生市)の人だ
こんなところでも我が群馬と繋がっているのがうれしい


本殿脇に新田義貞が八幡神社に戦勝祈願した際、愛馬を繋いだといわれている「駒繋ぎの松」があるが枯れてしまって、新しい松が植えられていた



妙智山慈眼寺(曹洞宗)


黒こげ地蔵 
お地蔵さまにも色々いるものだ




西武新宿線狭山市駅近くの踏切手前にある庚申塔
平成11年地域の人によって修復された。




白山神社 
樹齢7~800年のケヤキが明治10年に伐採されたとあるが
サクラの若木が花盛りとなっている


【12:15~12:50 昼食】


 今日も昼食はラーメン、野菜増しを頼んだらモヤシ満点で食べきれなかった



ここからまっすぐ伸びる県道をひたすら歩く
鎌倉街道の基本は最短距離を行っている様だ


【13:11 13.7km 野々宮神社】


日本武尊が東夷征伐の帰途、当地に立ち寄り水を得るため「掘難の井」を掘らせたという伝説がある




蔵王山常泉寺(真言宗智山派) 
野々宮神社の近くにあり、武州88か所霊場だそうだ
33観音や88か所霊場、地域により次々に新設・登場するが脱退するどんな事情か判らないが脱退するところもあるようだ


【13:30 14.5km 七曲り井戸】


先の常泉寺から少し離れた不老川沿いに常泉寺観音堂があり、裏手に井戸がある








七曲り井戸
立てに深く掘る技術がなかった時代は、漏斗状に大きく掘り下げてから立てに掘った
直径最大で26メートル、深さ10メートル。
形状がカタツムリにも似て「まいまいず井戸」とも呼ばれている
何処か外国の写真で見たことがあるような井戸だ
地名にある「掘難井(ほりかたい)」「堀兼道」などは井戸を掘る困難さを表したものだろうか




入間野神社


「入曽の獅子舞」江戸時代中期から伝わる獅子舞は、入間野神社と神仏分離までは別当寺だった金剛院にいまも奉納されている




御岳山金剛院延命寺(真言宗豊山派) 武州八十八所霊場74番
建久年間(1190-1197)の創建と伝えられている



狭山市入曽から所沢市に向かい西武新宿線を横断すると鎌倉街道を表す石標がある
石標と思いきや型に入れたプラスチック製



鎌倉側から北を見る 左:鎌倉街道 右:掘兼道


分岐にある説明版



「峰の坂」交差点 ここから所沢駅方面へ下る


【15:10 20.6km 所沢神明社 】

日本武尊が東夷征伐にあたり、当神社の付近である小手指原にさしかかり、ここで休憩したと伝えられる古社。
所澤の総鎮守。


【15:30 21.2km 新光寺】

遊石山観音院新光寺(真言宗豊山派)
建久4年(1193)に源頼朝が那須野へ鷹狩りに行く途中にここで昼食をとった。新田義貞が鎌倉攻めに向かう途中にこの寺で戦勝祈願をし北条氏を討ち帰途再度立ち寄り黒塗りの乗鞍を奉納したと伝えられている。

門前の「鎌倉街道」の標柱はプラスティックが割れ針金で縛ってある



境内の石仏と満開のシダレザクラ


観音堂にお参りしていると、お寺の方にお守りとお菓子を頂いた
彼岸にお参りに来た人に差し上げているとのこと
良い日に来た




野老山実蔵院(真言宗豊山派)
山号 「野老山」 は 「ところさん」 と読み、所沢の地名は「野老沢」に由来するそうだ
植物に「ヤマノイモ(山の芋)」と「トコロ(野老)」があるが、ヤマノイモは自然薯とも呼ばれそのまま食べられるが、トコロ(オニドコロ)は灰汁抜きをしないと食べれれない。葉が対生ならヤマノイモ、互生ならトコロ



実蔵院から南へ一直線に伸びる旧鎌倉街道、車がすれ違うのがやっと



鎌倉街道の説明版
所沢市には鎌倉街道の標柱や説明版が数多くあり判りやすい
どれも古くなって痛んできているのが残念
ここから所沢駅に向かい帰路に就く





所沢まで来ると都市部に来た感じがしますが
まだ旧鎌倉街道も残されておりそれなりに表示もありました
しかし、予算によるのか担当者の熱意によるのか
解説版や標柱もだいぶ痛んできています

名所旧跡巡りは年寄りの娯楽かもしれませんが
一度無くなれば元には戻せないので
各自治体(教育委員会)には頑張ってもらいたいと思う今日この頃です


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 地図


次の資料を参考にしています
 鎌倉街道を歩く(保存と活用のいま)   高橋光幸著  さきたま出版会:鎌倉街道上道の案内書
 旧鎌倉街道探索の旅 Ⅰ 上道・山ノ道編 芳賀善次郎著 さきたま出版会:鎌倉街道のバイブル
  五街道の旅:五街道はじめ脇往還・歴史街道など地図付きで詳しいホームページ 
  道・鎌倉街道探索日記:埼玉県内の鎌倉街道を地図と写真で詳しく解説
 「隠居の思ひつ記」:迷道院高崎(めいどいんたかさき)さんの軽快で詳細なブログ
上野国交替実録帳を読む(千年前の県政白書) 前澤和之著  みやま文庫:群馬を知る事典みやま文庫から
『ウィキペディア(Wikipedia)』
熊谷デジタルミュージアム https://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/frames/sekizo.htm


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