【20日目 美濃國 岐阜県】 令和6年(2024)3月17日(日)晴
宿場距離:御嶽宿~太田宿 11.8km
歩行距離:御嶽駅~坂祝駅 17.8km(累計471.2km) (日本橋・御嶽 2割増471.2/388.2=1.21)
行 程:新可児駅7:08=(330円)=7:16御嶽駅:20---8:00比衣の一里塚--8:25伏見宿--9:17恵土の一里塚--10:33吉井の一里塚---1:45太田宿---12:00取組の一里塚--12:25坂祝駅12:43==13:24多治見13:27==14:05中津川(1,170円)駅前駐車場から車で自宅へ
宿泊地の可児市のマンホールは市の花サツキのデザイン
宿の可児市から新可児駅から名鉄(名古屋鉄道)で昨日終点の御嶽駅へ
【49御嶽宿 】
御嶽駅
御嶽駅と桝形で向かい合わせにあるのが全解体修理中の願興寺(可児薬師)
駅前を50m程進むと左手に神明神社 1643年(寛永20) 再興
御嶽宿街並み 日曜日おためか街は静か
桝形にある上部が木製の常夜燈 文政4年(1821)建立
さらに次の曲がり角にも秋葉神社常夜燈 ここも桝形の様で角々に常夜燈がある
鬼の首塚
伝説は「暴れ者関ノ太郎の首を首桶に入れ、京都へ運ぼうとしたが、この地で急に重くなり、一歩も進めなくなりました。首桶を縛っていた縄が切れ中から首が転げ落ち、落ちた首も動かすことが出来なくなったため、ここに埋めたといいます。」
傍らに正岡子規句碑
『草枕むすぶまもなきうたゝねのゆめおどろかす野路の夕立』
正岡子規は1891年(明治24)木曽路を伊予松山に帰省の途中に疲れ果て、思わずうたた寝をしてしまった
十三峠おまけの七つプラスαは疲れる
御岳神社と常夜燈
比衣(ひえ)一里塚跡(顔戸の一里塚)跡 江戸日本橋より九十六里目、京へ三十八里
(8:00 御嶽駅より2.8km) 旧道の角で見逃してしまいそう
御嶽市指定名木 柿木
近所の柿木と変らないが、樹齢か何か謂れがあるのだろうか?
【50 伏見宿着 8:25 御嶽駅から4.4km】
この地図北が下で左が江戸方面、右が京方面
本陣跡
一本松公園 兼山道追分道標「右御嵩:左兼山 八百津」
雛飾りと文政7年(1824)伏見宿に駱駝が来て見世物になった事が書かれている
左手前の旧伏見郵便局(観光案内所)と街並み
郵便局隣は築125年の古民家「松屋山田家住宅」(国の登録有形文化財)古民家カフェ「多鞠庵」
民家の庭先にある常夜燈と2基の祠
主に聞くと津島神社と水神様だという
槍ケ岳を開山した播隆上人名号碑(南無阿弥陀佛) 1834年(天保5)建立
正岡子規句碑「すげ笠の 生國名のれ ほととぎす」
1891年(明治24)に木曽路を旅した紀行文「かけはしの記」に記されている歌
木曽川を渡る船を待つ間に読まれた歌。宿ごとに歌を読んでいる
犬山道追分道標「右 太田渡ヲ経テ岐阜市ニ至ル約九里」「左 多治見及犬山ニ至ル約四里」
三叉路を右へ
弘法堂 境内には四国西国巡礼碑や新四国第八十六番札所碑
普通の民家と間違えて通り過ぎてしまった
上恵土神社 寛文六年(1666)の再建
鳥居には神明神社、白山神社の名も記されている
右の地下道を進む
地下道入り口に 恵土の一里塚跡碑 江戸日本橋より九十七里目、京へ三十七里(9:17 御嶽駅より7.1km)
「一里塚跡 これより30m先」
JR東海 大多線「中仙道踏切」 「中山道」ではい。番号がないので大多線を横切る中山道はここだけか
開運北辰妙見大菩薩碑
北辰妙見菩薩は北斗七星または北極星を神格化した菩薩で北辰(ほくしん)菩薩とも呼ばれている
隣には、御料地払下開墾記念碑
1928年(昭和3)、今渡の住吉神社、八幡神社、神明神社の三社を合祀し今渡神社と改称
臨済宗妙心寺派龍洞寺
弘法堂 この先が太田の渡し跡
境内にある錦江水 飲用可
境内にある観音像群
太田の渡し跡(右岸側)
左岸側
『木曽の桟、太田の渡、碓氷峠がなくばよい』と謡われた中山道の三大難所
太田橋で木曽川を渡る
上流側の景色
太田側は河川敷に化石林公園
1800万年前の森林が立ったままの状態で埋没し珪化木となったもので、1994年(平成6)に425本が確認されている
木曽川右岸の土手を歩くが、土手下に
古井(こび)の一里塚跡 江戸日本橋より九十八里目 (10:33 御嶽駅より11.6km)
一里塚近くにトイレのある「神明公園」があり助かる
【51 太田宿着 10:45 御嶽駅より12.2km】
中山道太田宿碑 「右御嵩伏見宿三里/左太田脇本陣宿三丁」
新町木戸門跡 太田宿の江戸(西)口
太田稲荷
以前は祐泉寺境内にあった、1989年(平成元)現在地に移された
右手に槍ヶ岳を開山した播隆(ばんりゅう)上人の墓、太田の渡し上流の飛騨川の合流から犬山にかけて13kmの木曽川を「日本ライン」と命名した地理学者志賀重昂(しげたか)の墓がある
桝形の角に火伏の神秋葉神社
臨済宗妙心寺派龍興山祐泉寺(ゆうせんじ)
境内には北原白秋歌碑と尾張藩太田代官所の役人の息子坪内逍遥歌碑がある、
1983年(昭和58)における水害後の堤防完成に伴い祐泉寺の敷地は形を変え、現在の姿になった
旧旅籠小松屋 江戸時代末期の建築
「お休み処」で坪内逍遥等の資料が展示されている(入場無料)。
太田宿街並み
脇本陣跡(国指定重要文化財)
「吾死スルトモ自由ハ死セン」の名言を残した自由党総理板垣退助は明治十五年(1882)はここに宿泊し、翌日岐阜で暗殺された
御代桜(みよざくら)醸造 裏手には醸造所の倉庫群
本陣跡 門が残されている
本陣跡には水戸天狗党の総大将武田耕雲斎歌碑と解説版
西の桝形(京口) 右手の立札は高札場跡
石標は郡上街道追分道標「右 関上有知 左 西京伊勢」
赤い建物が庚申堂 前に秋葉神社
下町の桝形 空き地が弥勒寺跡
太田川並番所跡
桝形を曲らず直進し土手を左折したところに、船荷や筏を管理した川並番所跡
虚空蔵堂と承久の乱の大井戸の古戦場跡
坪内逍遥ゆかりのムクノキ
尾張藩 太田代官所跡 現在太田小学校
取組の一里塚跡(勝山の一里塚)江戸日本橋より九十九里目 (12:00 御嶽駅より16.4km)
国道21号線を歩く
堤防に登り奇岩怪石の日本ラインを眺めながら歩く
御幸巌碑
「日本ラインの景を知らずして河川の美を語るべからずといわれた如く・・・」
JR東海 坂祝(さかほぎ)駅から中津川駅前に駐車場へ戻り車で帰路へ
3泊4日の中山道歩き、最終日は曇りはしたものの4日間とも珍しく雨に降られませんでした
天気が良いと寄り道も増え中々先に進まない
濃尾平野に出ると木曽川の流れも幾分緩やかになり空も広くなった
これから先は平坦な道が続き行程も捗るだろうと期待もしますが
桜満開の京都は無理なようです
↓そんな訳で 押していただくとたすかります
地図
これまでの記録はこちら
参考1:「ちゃんと歩ける中山道69次」 八木牧夫著 山と渓谷社
参考2:五街道ウオーク:上記本の著者八木牧夫さんのホームページ
参考3:電子足跡:GPSログがとても参考になります
参考4:「日本史 小辞典」(改訂版) 山川出版社
参考5:ウイキペディア
参考6:「長野県:歴史・観光・見所」
参考7:日本の街道を歩く旅
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