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【ヴァギナ・デンタータ】

瞼を閉じれば見えてくるものこそ本当の世界――と、信じたい私は四六時中夢の中へ。

誰か叫んでいないか

2005年10月28日 23時46分47秒 | テクスト
-----------------------------------------------------------------------Text written by man-ju*[dareka-sakendeinai-ka]

 その朝、恋に患いすぎた画家が自死したので、アトリエには彼の作品と密やかな痕跡だけが遺された。パレットの絵具は乾き罅割れ、絵筆は床に散乱している。画家の死を知る者は、まだ誰もない。
 イーゼルにかけられたキャンバスには侵しがたい婦人の肖像が描かれており、ぽってりと赤く塗られた唇には繰り返し口づけた跡があった。かつて婦人の腰掛けていた形のまま緩やかなへこみの残る椅子の傍らで一頭の蝶が肢をもがれて死んでいる。蝶は、婦人の唇で翅を休めたがために画家に捕らえられたのだ。
 すべてが少しずつ果てゆく中で、戸棚にいとおしげに仕舞われた指輪だけが傷ひとつなく豊かな光を放っていた。画家から婦人へ宛てたイニシアルの彫りこまれたその指輪は、戸棚の中でもうずいぶんと長いことその役目の訪れるのを待っていたのだ。
 けれども画家が死に、どこかそう遠くない教会で祝福の鐘が高らかに鳴り響き始めた今、その訪れも指輪の価値さえも永久に失われた。それでも指輪はいじらしく、戸棚の中でいつ終わるともなくきらめき続ける。

[fukujyou-ni-shisu]*(2005. 10. ××)------------------------------------------------------------------------------------