-----------------------------------------------------------------------Text written by man-ju*[kuuki-no-warui-heya]
声を失ってからの彼は、私以外の人とはめったに交流しようとはしなかった。2LDKのアパートから外に出ることさえない。ソファの脇に飾られたドラセナの鉢の横が、唯一彼の安息の場所だった。
彼は、しじゅう何かにおびえて見えた。苦しそうに見えもした。息遣いが不規則で、一人きりになることをひどく嫌うようになっていた。以前ならばとても考えられないことだった。私を置いてどこかへ行ってしまうことさえあれ、今のように私を捜して部屋じゅうを歩き廻ることなどなかった。私が呼べばすぐに傍まで駆けてくるようになった彼は、不安定で、いつか壊れてしまうのではないかという懸念をいつも私に抱かせた。
ドラセナの鉢の横で丸くなって眠るときだけは、おびえた様子も苦しげな息遣いも消えてなくなる。夢の中までは彼を脅かす何かも追い駆けてゆくことはないのだと思うと、私も少しだけ安堵することが出来た。眠っている間であれば、彼は夢の中の出来事に柔らかく微笑むことすらあったのだ。
金色に光る産毛と無防備な盆の窪を眺めながら、まるで仔犬のようだと私は思う。声を失う前よりも、声を失ったあとの彼のほうが素直に感情を表に出すようになったようだ。彼が私だけを頼りにしている証拠なのだと思うと、人知れず胸が躍った。私にとって、彼に替えられるほどいとおしい存在はほかになかった。
細く柔らかいゆえにすぐに縺れてしまう髪の毛に手櫛を入れてやりながら、彼の横で一緒になってまどろむのが私は好きだ。彼は平熱が高い。ぴったりと寄り添うと心地よいくらいの温かさだった。どんなに眠れぬ夜だったにしても、彼の体温を感じながら髪の毛を梳いてやっていると、自然気持ちよく眠りに落ちることが出来る。
私は毎朝、彼に耳を舐められて目を覚ます。私よりも先に眠る彼は、私よりも先に起きてくる。彼の濡れた舌はじんと熱いけれども、次第にしんと冷えてくる。舐められた箇所から広がる快感を棄てたくなくて、私はしばらく毛布をからげてじっとしている。時計の秒針が円を描ききってきっかり一周すれば、彼はもう一度私を起こすために耳を舐めてくるはずだ。私はそれを待っている。
「おはよう、朝だね」
何より先に、私は彼の柔らかな髪を梳く。彼は今度はその手を舐める。先程とは異なる舌遣いは、おはようの挨拶だ。
彼は、失った声の代わりに舌を使って会話する。それは、たしかに会話だった。私は彼の微妙な舌遣いの違いを的確に感じ分けることが出来たし、それによって彼が何を訴えたいのかもすぐに知れた。
たとえば、おはようの挨拶は舌先だけを使って後ろから前に向かって舐めるのに対して、おやすみならば前から後ろにつつくようにする。だからこそ、私はなおさら彼を仔犬のようだと錯覚した。
彼は私に全幅の信頼を寄せていた。何かにつけて私のあとを従いてくる彼を、私は、哀願して愛玩して手放さなかった。お手もお代わりも、愛嬌たっぷりのおねだりさえ得意な彼だった。
私はせっせと彼の世話に勤しんだ。
三度の食事。散髪。歯磨き。爪切り。足の指の隙間を洗うこと。彼もべつだん不平は洩らさず、私のなすがままだった。
私は彼のためにと仕事を変え、出来るだけ彼と一緒に居られるよう取り計らった。ちょっと目を離した隙に何かあってはならないと、手取り足取り世話を焼き、一から十まで干渉するようになっていった。
「あなたの耳の形が好きだから、横の髪の毛は少し短めに切りましょう」
「歯磨き粉は甘い味付けがいいでしょう。刺激のあんまり強すぎるのは、君の大切な舌を痛めてしまいそうだから」
「お前には青が似合うと思って新しい服を買ってきたの。今のを脱いでちょっとこっちを着てみてよ」
彼が私のものであると思えば思うほど、私は彼を溺愛した。そうして彼をねじ伏せることに腐心した。
だから私は、彼がいつか壊れてしまうのではないかとしじゅう懸念していたことを、つい忘れてしまったのだ。苦しそうな息遣いを。
ある朝、私はいつもと違う強烈な痛みを覚えて目を覚ました。何が起こったのか、すぐには判断がつかなかった。痺れる頭を幾度か振って、ようやく、彼が私の耳を舐めるのではなく噛んだのだということを理解した。噛まれた耳朶がぢんと痛んだ。彼はまっすぐに私を見据えていた。
私と彼はしばしのあいだ、そのままの姿勢で見つめ合った。きゅっと口を引き結んで一心に私を見ている彼が、いったい何を言おうとしているのか、このときの私にはなぜだかどんなにしても理解することが出来なかった。
どれくらいの時間そうしていたのだろう、彼は瞬きを一度して、ひっそりと部屋を出ていった。そうして二度と戻ってはこなかった。振り返ることもしなかった。私は彼の名前を呼んでみたけれども、もちろん、傍に駆けてくるものは何もない。水をやり忘れたらしいドラセナが、葉をぐったりとさせてソファの脇にあるだけだった。
哀願して愛玩した私の仔犬は居なくなった。
以来私は、犬を見かけると彼との生活がちらついて、何よりも舐められることをどうしようもなく怖れてしまう。
[fukujyou-ni-shisu]*(2005. ××. ××)------------------------------------------------------------------------------------