施設
強制収容所内には、急ごしらえの粗末な住居や各種工場や農場、病院、商店、学校、教会、劇場などが作られており、これらの施設で働くものには給与が与えられた。また、強制収容所内における移動は自由に行われたが、一部の許可されたもの以外は、強制収容所内の病院で治療することのできない病気や怪我にならない限り外部に出ることはできなかった[18]。
住居
強制収容者の住居にあてがわれた建物は、いずれの強制収容所においても急ごしらえの木造の「バラック」というべき粗末なもので、その後もきちんとした建物に建て替えられることはなかった。また暖房も冷房もなく、さらに砂塵などが部屋の中にも容赦なく吹き込んだ。
また、家具も粗末なものしかあたえられず、トイレの多くはしきりすらなかった。また、このように衛生管理が不十分であったため、集団食中毒や集団下痢などが多発した。
食事
なお、電気や水道こそ外部から供給されていたものの、戦時中で一部の食料の配給制限が行われているということもあって、日系人の好みに合う食料の調達が難しかった。このことから、食料などは基本的には自給自足でまかなう事が求められており、強制収容所内における食生活(全ての食事は食堂で行われた)の多くは強制収容所内の農場で獲れた作物があてられていた。特に、アメリカで生産された米の4割が、戦時転住局に買い上げられた年もあった程だった。
その多くが農民であった一世は野菜作りを得意としており、野菜以外にも養豚や養鶏、豆腐や醤油の製造、漬物作りも行っていたほか、日本酒やワイン、ビールの密造なども盛んだったという[19]。
リクリエーション
また、強制収容者へのリクリエーションとして相撲、剣道、野球やバスケットボールなどのスポーツが行われた他、「アメリカ化」への思想教育の一環としてボーイスカウトが組織された。
ボーイスカウトの日系アメリカ人の団員は、当然のことながらアメリカ国家に対する忠誠を宣誓し、常にアメリカ国旗を掲げているにもかかわらず、「普通のアメリカ人」として扱われず、逃亡防止のために銃を向けられた強制収容所から出ることができないという異常な状況下での活動を強いられていた。
情報伝達手段
強制収容所内ではラジオの所持は許可されたものの、戦前よりロサンゼルスなどの日系人が多く住む地で発行されていた「羅府新報」などの日本語新聞の発行は許されず、わずかに強制収容所内の情報のみが英語で書かれ、収容所の管理者に事前に検閲を受けた情報誌の発行が許されただけであった。
このように強制収容所内の情報を外部に発信することがほとんどできなかったため、強制収容以前に自ら移転先を確保して立ち退いた日系人の間では「収容所では遊んで暮らせる」との誤解も広まった。当時のアメリカ国内における日系人への迫害の影響から、自ら移転したものの移転先で生計を立てることがままならない者は少なくなかったため、一部には自ら希望して収容所入りするものも現れた[20]。
日系人部隊編成への動き
強制収容所に収監される母親を手伝う日系人兵士(1942年5月11日)
このように、アメリカ政府により日系人に対し酷い人種差別が行われていったものの、アメリカへの愛国心、忠誠心に突き動かされた日系人によって、収容者や非収容を問わずアメリカ軍内に日系人部隊を組織するような動きが活発化した。なお、非収容者による日系人のアメリカ軍人は戦争前から存在した。
1942年2月23日 全員日系二世からなる大学勝利奉仕団が、ハワイ準州で第34戦闘工兵連隊のもとに編成される。6月にはハワイ在住の日系人による陸軍第100歩兵大隊が編成された。11月24日にはマイク正岡らの主導で陸軍省に日系人部隊を組織するよう建白書を提出、翌年1月28日に請願が許可された。
忠誠心調査と分離
合衆国旗への「忠誠の誓い」をする子供たち(1942年4月)
このような動きがあったものの、1943年初頭に戦時転居当局は、アメリカに対し忠誠心を持った収容者を西海岸から離れた地での住居と仕事を供給する事を目的に、17歳以上の日系アメリカ人収容者に対し「出所許可申請書」と題された忠誠心の調査が行われ[21]、特に
質問27:貴方は命令を受けたら、如何なる地域であれ合衆国軍隊の戦闘任務に服しますか?
質問28:貴方は合衆国に忠誠を誓い、国内外における如何なる攻撃に対しても合衆国を忠実に守り、且つ日本国天皇、外国政府・団体への忠節・従順を誓って否定しますか?
の2つの質問が、忠誠登録の核となった[22]。
しかし、質問27と28は収容所内に混乱を招いた。女性と老人は質問27に困惑し、日本生まれで日本国籍を持つ一世は質問28へ「Yes」と答える事によって無国籍になる事を恐れ[21]、両方の質問に「No-No」と答えざるを得なかった[22]。
結果、両方の質問に「Yes」と答えたのは調査対象者の84%となった。両方の質問に「No」と答えた「No-No」は不忠誠と見なされツール・レイク収容所に送られた。「No-No」の中にも天皇崇拝者、強制収容に対する怒りから質問に回答した者、日本が戦争に勝つと信じていた者、様々だった。家族で違った回答をしてばらばらになるのを恐れた一世の親に説得された二世もいたという[23]。ちなみに、少数ながら「No-Yes」と答えた者もいたが、その場合も「No-No」と同じ扱いを受けることとなった[24]。
1943年2月19日には、ツール・レイク収容所で忠誠登録を強制されたことに反感を持つ17〜8歳の35名の二世が、「徴兵局に登録する意思は全く無い。しかし、日本への送還には何時でも署名する。」との抗議文を手渡す為に、管理局までデモ行進を行う、という事件が起きた。これに対し、管理局側は見せしめとして35名を検挙すべく、収容所の近くに駐屯していた陸軍の一個中隊を派遣することを決め、デモから2日後の2月21日夜に一斉検挙に踏み切った。このこともあってか、ツール・レイク収容所では3000名の二世が、忠誠登録の質問27と28を「No-No」若しくは無回答とした。徴兵に応じたのは僅か59名で、息子が徴兵に応じた家族は、他の収容者から邪険に扱われ、食堂内に「イヌの席」と書いた札を立て、その席で食事をすることを強要された[22]。
アメリカ政府が忠誠登録を行ったのには、兵役選考だけではなく、1942年から1946年の5年間で1億9000万ドルにも及んだ戦時転住居の予算を軽減することや、戦時下において、工場や農場では労働力が極度に不足しており、それらを補わせるべく、抑留者の社会復帰を促すことにもあった。いわゆる「危険人物」を野放しにすることは出来ない為、忠誠審査において「Yes」と答えた者だけを仮出所させ、出所した二世たちは中西部ならびに東部の大学に編入学したほか、労働力不足に悩む工場や農場での職を得た[19][22]。
1944年7月1日に希望した収容者にアメリカ国籍の放棄の権利を与える「Public Law 405」がフランクリン・D・ルーズベルト大統領の署名により成立すると、5589人の日系アメリカ人がアメリカ国籍を放棄し、その内1327人は終戦後に日本に送還された。多くの者は強制収容に対する怒りや抗議の意味で国籍を放棄したが、終戦後司法省が国外追放の用意を始めると事の重大さに気付いた[25]。
アメリカ国籍を放棄した5589人の内、多くのすでに送還された者もふくむ5409人が戦後にアメリカ国籍の回復を願い出た。ウェイン・コリンズ弁護士の尽力により極限的状況においてなされた多くの国籍放棄は無効だと証明され国籍の回復を果たした。1971年にはリチャード・ニクソン大統領によりすべての国籍放棄は無効化された[25]。
しかしアメリカ政府により赦されたあとも「No-No」と答えたものや国籍を放棄した者は日系アメリカ人の多くから冷たい目で見られ、一部の「No-No」は自分の過去を恥じ、家族に隠している事もあるという[25]。
暴動
僻地にある粗末な強制収容所に収容され、行動や表現の自由だけでなく、仕事も社会的地位も奪われた日系人の不満は鬱積し、強制収容所内ではハンガーストライキや暴動が多発した上、盗難や殺人などの犯罪も数多く起きた。また、強制収容所での生活に嫌気がさし、脱出しようとし射殺されてしまった者もいた。
著名な収容者
フレッド・コレマツ - コレマツ対アメリカ合衆国事件の原告
ミノル・ヤスイ
ゴードン・ヒラバヤシ(社会学者。戦後、アメリカ連邦政府を相手取り、日系人収容違憲裁判に勝訴。アメリカ・カナダの日系人補償に先駆的役割を果たした)
ノーマン・ミネタ ‐ アメリカ合衆国運輸長官
マイク・ホンダ - アメリカ合衆国下院議員
ジョージ・タケイ(『宇宙大作戦 (Star Trek) 』シリーズなどで有名な日系アメリカ人俳優。少年時代であった戦時中をツール・レイク収容所で過ごした)
ケン・エトウ(モンタナ・ジョー)(シカゴ・アウトフィットに属したギャングスター。トーキョー・ジョー(Tokyo Joe)とも呼ばれた)
イサム・ノグチ(日系芸術家)
ジョージ・ナカシマ
シンキチ・タジリ
ジミー佐古田 - ロサンゼルス市警刑事
パット・モリタ
ジミー・ツトム・ミリキタニ(ツール・レイク収容所で3年半を過ごした日系アメリカ人画家。ドキュメンタリー映画『ミリキタニの猫(The Cats of Mirikitani)』〈2006年、アメリカ映画〉には当時を振り返るシーンが多数出てくる)
フランク安田(アラスカでジャパニーズモーゼと呼ばれ、ビーバー村をつくった日系一世。アラスカからアメリカ本土にかけて4ヶ所の収容所に4年間過ごした)
サダオ・ムネモリ
高野虎市 - 喜劇王チャールズ・チャップリンの秘書。
国府田敬三郎
原田重吉
宮武東洋(写真家。収容所内での日系人たちの様子を写真で収めた)
小圃千浦(画家・カリフォルニア大学バークレー校教授、日系人収容所内で美術学校の設立者。瑞宝章受賞者)
石元泰博(写真家。1969年日本に帰化。1996年文化功労者に選ばれた)
山本紅浦(画家・ニューヨーク・マンハッタンのソーホー地区にある紅浦墨絵学校の設立者。ニューヨークで墨絵を教える第一人者)
山川浦路
ユリ・コウチヤマ (活動家。マルコムX支援者[26])
リチャード・アオキ(英語版)(ブラックパンサー党元メンバー、活動家)
ヒサエ・ヤマモト(作家)
ヨシコ・ウチダ(作家。「強制収容を扱った作品」参照)
トシオ・モリ(作家)
ワカコ・ヤマウチ(劇作家)
ミネ・オオクボ(画家、イラストレーター。「強制収容を扱った作品」参照)
ミツエ・ヤマダ(詩人。「強制収容を扱った作品」参照)
ジョン・オカダ(作家。「強制収容を扱った作品」参照)
甲斐美和 (ピアニスト、司書)
ジェームズ・シモウラ(ミシガン州弁護士)[27]
城戸三郎(カリフォルニア州弁護士、第二次世界大戦下の日系アメリカ人市民同盟会長)
被害
財産放棄
「閉店セール」を行う日系人経営の商店
上記のように、準備期間すら満足に与えられなかった上、わずかな手荷物だけしか手にすることを許されず、着の身着のままで強制収容所に収容された日系アメリカ人及び日本人移民は、強制収容時に家や会社、土地や車などの資産を安値で買い叩かれただけではなく、中にはそのまま放棄せざるを得なかった者も沢山いた。
しかもその後長年に亘り強制収容時に手放した財産や社会的地位に対する何の補償も得られず、その結果全ての財産をこの強制収容によって失ってしまった人もいた。
なお、大統領行政令9066号の発令に伴うこのような措置に対してフランシス・ビドル(en)司法長官は「西海岸の反日感情に迎合し日系人の所有する農地を手に入れようとする利益誘導が絡んでいる」[6] と強く批判している。
ミシガン州の弁護士で日系アメリカ人3世のジェームズ・シモウラ(James Shimoura)は、家族や親族が日系人強制収容所に入れられ、農地・自宅・財産を全て奪われたと述べている[27]。シモウラはビンセント・チン事件当時、アジア系コミュニティを支えた1人でもある[27]。シモウラ家は祖父の仕事の関係で1914年に徳島からミシガンへ渡米し、母方の親戚はサンフランシスコ・ベイエリアで農業に従事していた[27]。
財産保全
なお、強制収容の開始に際しアメリカ政府は、「申し出があった場合に限り、収容される日系アメリカ人及び日本人移民の財産の保全を政府管理の下で行う」旨の通告を行ったが、申し出を行う時間的余裕さえ十分に与えられていなかった上に、強制収容という差別的かつ過酷な仕打ちを行うアメリカ政府を信用して財産保全の申し出を行うものは殆どいなかった。また、もし申し出た場合でもそれらは実際には記録されず、さらには地元政府によって保全の申し出自体が否定されるケースも相次いだ。
また、政府に対する財産保全の申し出を行わなかったものの、国府田敬三郎や原田重吉のほか、子供・孫が非日系人と婚約・結婚していた人物など、日系人以外の知人に、強制収容所に収容されている間に資産を管理・保全してもらうことに成功した者もいたが、当時の反日的な風潮から、そのような措置に成功したのは、ほんの僅かであった。
アメリカ国内における批判
日系人の強制収容を報じる新聞
日系人の強制収容が開始された当時は、黄色人種に対する人種差別が激しかっただけでなく、上記のように日本軍によるアメリカ西海岸への本土上陸が危惧されたうえに、その後もアメリカ本土への攻撃や空襲が行われ、さらにアメリカ軍の敗退が続いたためにアメリカ国内で表立って批判する政界や法曹界、報道の者は少なかった。
また、このような状況下においても「なぜ白人のドイツ系やイタリア系は強制収容せず、なぜ黄色人種の日系人だけか」という疑問を唱えるものすら殆どいなかった。さらに、日本軍が各地で連合国に対し劣勢になり、日本軍によるアメリカ本土への攻撃の可能性が少なくなった1944年以降も、ルーズベルト大統領以下のアメリカ政府と軍内部からは、日系人の強制収容を止めるべきという意見は殆ど出てこなかった。
しかし、強制収容そのものや、強制収容のやり方などについて批判する者も、中央政府や4州やそれ以外の州の上層部、法曹界に少数ながら存在した。
ジョン・エドガー・フーヴァー
当時FBI長官だったジョン・エドガー・フーヴァーはFBI捜査官に有色人種をほとんど起用しないなど人種差別的な人物だったが、日系人の強制収容に対しては「スパイと思しき者たちは真珠湾攻撃の直後にFBIが既に拘束している」として反対していた[28]。
カー・コロラド州知事
ラルフ・ローレンス・カーの銅像
そのような状況下で、アマチ収容所が置かれたコロラド州知事のラルフ・ローレンス・カーは、日系アメリカ人および日本人移民に対する内陸部への強制移住こそ賛成したものの、強制収容に対しては「非人道的でありアメリカ憲法違反である」として州知事クラスの政治家として唯一反対の意思を表明した。
さらに日系アメリカ人や日本人移民がアマチ収容所に到着した際に地元の反対派が抗議に現れたが、飛行機で現地に飛んで暴力的な行動を止め、日系アメリカ人を受け入れるよう呼びかけた。
しかし、このような戦時中における日系アメリカ人の基本的権利を保護するという勇気と良識のある言動が、アメリカ合衆国上院議員という将来展望も含めたカーの政治生命を絶ったと見られている。実際、カーはこれらの発言を行った同年に行われた1942年の上院議員選挙で、現職の民主党のエドウィン・ジョンソンにわずか4000票という僅差で敗北している。
ライシャワー博士
日本生まれのハーバード大学の東アジア研究学の講師で、開戦直前まで国務省で嘱託職員として勤務していた後の駐日アメリカ大使のエドウィン・O・ライシャワー博士は、1942年3月30日のマサチューセッツ州の「ボストン・グローブ」紙で、日系アメリカ人の祖国 (アメリカ) に対する忠誠心を指摘し、日系アメリカ人に対する強制収容政策を批判した[29]。
ビドル司法長官
また、「敵性外国人」である日系アメリカ人の家を令状なしに捜査する権限を与えたものの、上記のようにその後の行き過ぎた状況を憂慮していたビドル司法長官は、権限を与えてからちょうど2年後の1943年12月30日に、「善良なアメリカ市民を、その人種を理由に必要以上に強制収容所に抑留している現在の処置は危険であり、政府の基本方針と矛盾している」と発言している[10]。
ロバート最高裁判事
1944年12月18日には最高裁判事のオーエン・J・ロバートも、当時アメリカ政府が日系人および日本人が「強制収容」されている「強制収容所」のことを「Relocation Centers(転住センター)」と言い換えていたことに対して、「『転住センター』という表現は単なる『強制収容所』の言い換えにすぎない」と、批判した[10]。
強制収容の終焉
帰還命令
閉鎖されるアマチ強制収容所
1945年8月15日に日本がアメリカを含む連合国に対して降伏し、翌月の9月2日に連合国への降伏文書に署名したことで、日本とアメリカの間の戦闘状態が終結した。なお、日系人の強制収容を推し進めたルーズベルト大統領は、日米間の終戦の4か月強前の4月12日に死去していた。
戦闘終結に伴い、西海岸及びハワイに居住する日系アメリカ人及び日本人移民に対する強制収容の必要性がなくなったことにより、全ての強制収容所はこの年の10月から11月にかけて次々と閉鎖され、すべての強制収容者は着のみ着のままで元々住んでいた家に戻るように命令された。
「二級市民」扱い
しかし上記のように仕事や家、その他の財産のほとんどを放棄させられ長年に亘って強制収容された、西海岸4州及びハワイに居住する日系人及び日本人移民が、元通りの社会的立場に社会復帰することは容易ではなかった。
その後も、アメリカに住む日系人は、アメリカ国民であるにもかかわらず、旧敵国である日本にルーツを持つということだけを根拠に1952年6月に行われたマッカラン・ウォルター移民帰化法の施行までの長きの間、母国であるアメリカの市民権さえも剥奪された(なおドイツ系アメリカ人やイタリア系アメリカ人はこのような仕打ちを受けることはなかった)。
その上に、日本との戦争によって、今までにも増して酷い人種差別にさらされることとなった日系アメリカ人及び日本人移民の多くは、その後長い間「二級市民(英語版)」としての立場に耐え忍ぶことを余儀なくされ、その結果、多くの日本人移民が、生まれ故郷の日本に戻ることとなった。
強制収容所内には、急ごしらえの粗末な住居や各種工場や農場、病院、商店、学校、教会、劇場などが作られており、これらの施設で働くものには給与が与えられた。また、強制収容所内における移動は自由に行われたが、一部の許可されたもの以外は、強制収容所内の病院で治療することのできない病気や怪我にならない限り外部に出ることはできなかった[18]。
住居
強制収容者の住居にあてがわれた建物は、いずれの強制収容所においても急ごしらえの木造の「バラック」というべき粗末なもので、その後もきちんとした建物に建て替えられることはなかった。また暖房も冷房もなく、さらに砂塵などが部屋の中にも容赦なく吹き込んだ。
また、家具も粗末なものしかあたえられず、トイレの多くはしきりすらなかった。また、このように衛生管理が不十分であったため、集団食中毒や集団下痢などが多発した。
食事
なお、電気や水道こそ外部から供給されていたものの、戦時中で一部の食料の配給制限が行われているということもあって、日系人の好みに合う食料の調達が難しかった。このことから、食料などは基本的には自給自足でまかなう事が求められており、強制収容所内における食生活(全ての食事は食堂で行われた)の多くは強制収容所内の農場で獲れた作物があてられていた。特に、アメリカで生産された米の4割が、戦時転住局に買い上げられた年もあった程だった。
その多くが農民であった一世は野菜作りを得意としており、野菜以外にも養豚や養鶏、豆腐や醤油の製造、漬物作りも行っていたほか、日本酒やワイン、ビールの密造なども盛んだったという[19]。
リクリエーション
また、強制収容者へのリクリエーションとして相撲、剣道、野球やバスケットボールなどのスポーツが行われた他、「アメリカ化」への思想教育の一環としてボーイスカウトが組織された。
ボーイスカウトの日系アメリカ人の団員は、当然のことながらアメリカ国家に対する忠誠を宣誓し、常にアメリカ国旗を掲げているにもかかわらず、「普通のアメリカ人」として扱われず、逃亡防止のために銃を向けられた強制収容所から出ることができないという異常な状況下での活動を強いられていた。
情報伝達手段
強制収容所内ではラジオの所持は許可されたものの、戦前よりロサンゼルスなどの日系人が多く住む地で発行されていた「羅府新報」などの日本語新聞の発行は許されず、わずかに強制収容所内の情報のみが英語で書かれ、収容所の管理者に事前に検閲を受けた情報誌の発行が許されただけであった。
このように強制収容所内の情報を外部に発信することがほとんどできなかったため、強制収容以前に自ら移転先を確保して立ち退いた日系人の間では「収容所では遊んで暮らせる」との誤解も広まった。当時のアメリカ国内における日系人への迫害の影響から、自ら移転したものの移転先で生計を立てることがままならない者は少なくなかったため、一部には自ら希望して収容所入りするものも現れた[20]。
日系人部隊編成への動き
強制収容所に収監される母親を手伝う日系人兵士(1942年5月11日)
このように、アメリカ政府により日系人に対し酷い人種差別が行われていったものの、アメリカへの愛国心、忠誠心に突き動かされた日系人によって、収容者や非収容を問わずアメリカ軍内に日系人部隊を組織するような動きが活発化した。なお、非収容者による日系人のアメリカ軍人は戦争前から存在した。
1942年2月23日 全員日系二世からなる大学勝利奉仕団が、ハワイ準州で第34戦闘工兵連隊のもとに編成される。6月にはハワイ在住の日系人による陸軍第100歩兵大隊が編成された。11月24日にはマイク正岡らの主導で陸軍省に日系人部隊を組織するよう建白書を提出、翌年1月28日に請願が許可された。
忠誠心調査と分離
合衆国旗への「忠誠の誓い」をする子供たち(1942年4月)
このような動きがあったものの、1943年初頭に戦時転居当局は、アメリカに対し忠誠心を持った収容者を西海岸から離れた地での住居と仕事を供給する事を目的に、17歳以上の日系アメリカ人収容者に対し「出所許可申請書」と題された忠誠心の調査が行われ[21]、特に
質問27:貴方は命令を受けたら、如何なる地域であれ合衆国軍隊の戦闘任務に服しますか?
質問28:貴方は合衆国に忠誠を誓い、国内外における如何なる攻撃に対しても合衆国を忠実に守り、且つ日本国天皇、外国政府・団体への忠節・従順を誓って否定しますか?
の2つの質問が、忠誠登録の核となった[22]。
しかし、質問27と28は収容所内に混乱を招いた。女性と老人は質問27に困惑し、日本生まれで日本国籍を持つ一世は質問28へ「Yes」と答える事によって無国籍になる事を恐れ[21]、両方の質問に「No-No」と答えざるを得なかった[22]。
結果、両方の質問に「Yes」と答えたのは調査対象者の84%となった。両方の質問に「No」と答えた「No-No」は不忠誠と見なされツール・レイク収容所に送られた。「No-No」の中にも天皇崇拝者、強制収容に対する怒りから質問に回答した者、日本が戦争に勝つと信じていた者、様々だった。家族で違った回答をしてばらばらになるのを恐れた一世の親に説得された二世もいたという[23]。ちなみに、少数ながら「No-Yes」と答えた者もいたが、その場合も「No-No」と同じ扱いを受けることとなった[24]。
1943年2月19日には、ツール・レイク収容所で忠誠登録を強制されたことに反感を持つ17〜8歳の35名の二世が、「徴兵局に登録する意思は全く無い。しかし、日本への送還には何時でも署名する。」との抗議文を手渡す為に、管理局までデモ行進を行う、という事件が起きた。これに対し、管理局側は見せしめとして35名を検挙すべく、収容所の近くに駐屯していた陸軍の一個中隊を派遣することを決め、デモから2日後の2月21日夜に一斉検挙に踏み切った。このこともあってか、ツール・レイク収容所では3000名の二世が、忠誠登録の質問27と28を「No-No」若しくは無回答とした。徴兵に応じたのは僅か59名で、息子が徴兵に応じた家族は、他の収容者から邪険に扱われ、食堂内に「イヌの席」と書いた札を立て、その席で食事をすることを強要された[22]。
アメリカ政府が忠誠登録を行ったのには、兵役選考だけではなく、1942年から1946年の5年間で1億9000万ドルにも及んだ戦時転住居の予算を軽減することや、戦時下において、工場や農場では労働力が極度に不足しており、それらを補わせるべく、抑留者の社会復帰を促すことにもあった。いわゆる「危険人物」を野放しにすることは出来ない為、忠誠審査において「Yes」と答えた者だけを仮出所させ、出所した二世たちは中西部ならびに東部の大学に編入学したほか、労働力不足に悩む工場や農場での職を得た[19][22]。
1944年7月1日に希望した収容者にアメリカ国籍の放棄の権利を与える「Public Law 405」がフランクリン・D・ルーズベルト大統領の署名により成立すると、5589人の日系アメリカ人がアメリカ国籍を放棄し、その内1327人は終戦後に日本に送還された。多くの者は強制収容に対する怒りや抗議の意味で国籍を放棄したが、終戦後司法省が国外追放の用意を始めると事の重大さに気付いた[25]。
アメリカ国籍を放棄した5589人の内、多くのすでに送還された者もふくむ5409人が戦後にアメリカ国籍の回復を願い出た。ウェイン・コリンズ弁護士の尽力により極限的状況においてなされた多くの国籍放棄は無効だと証明され国籍の回復を果たした。1971年にはリチャード・ニクソン大統領によりすべての国籍放棄は無効化された[25]。
しかしアメリカ政府により赦されたあとも「No-No」と答えたものや国籍を放棄した者は日系アメリカ人の多くから冷たい目で見られ、一部の「No-No」は自分の過去を恥じ、家族に隠している事もあるという[25]。
暴動
僻地にある粗末な強制収容所に収容され、行動や表現の自由だけでなく、仕事も社会的地位も奪われた日系人の不満は鬱積し、強制収容所内ではハンガーストライキや暴動が多発した上、盗難や殺人などの犯罪も数多く起きた。また、強制収容所での生活に嫌気がさし、脱出しようとし射殺されてしまった者もいた。
著名な収容者
フレッド・コレマツ - コレマツ対アメリカ合衆国事件の原告
ミノル・ヤスイ
ゴードン・ヒラバヤシ(社会学者。戦後、アメリカ連邦政府を相手取り、日系人収容違憲裁判に勝訴。アメリカ・カナダの日系人補償に先駆的役割を果たした)
ノーマン・ミネタ ‐ アメリカ合衆国運輸長官
マイク・ホンダ - アメリカ合衆国下院議員
ジョージ・タケイ(『宇宙大作戦 (Star Trek) 』シリーズなどで有名な日系アメリカ人俳優。少年時代であった戦時中をツール・レイク収容所で過ごした)
ケン・エトウ(モンタナ・ジョー)(シカゴ・アウトフィットに属したギャングスター。トーキョー・ジョー(Tokyo Joe)とも呼ばれた)
イサム・ノグチ(日系芸術家)
ジョージ・ナカシマ
シンキチ・タジリ
ジミー佐古田 - ロサンゼルス市警刑事
パット・モリタ
ジミー・ツトム・ミリキタニ(ツール・レイク収容所で3年半を過ごした日系アメリカ人画家。ドキュメンタリー映画『ミリキタニの猫(The Cats of Mirikitani)』〈2006年、アメリカ映画〉には当時を振り返るシーンが多数出てくる)
フランク安田(アラスカでジャパニーズモーゼと呼ばれ、ビーバー村をつくった日系一世。アラスカからアメリカ本土にかけて4ヶ所の収容所に4年間過ごした)
サダオ・ムネモリ
高野虎市 - 喜劇王チャールズ・チャップリンの秘書。
国府田敬三郎
原田重吉
宮武東洋(写真家。収容所内での日系人たちの様子を写真で収めた)
小圃千浦(画家・カリフォルニア大学バークレー校教授、日系人収容所内で美術学校の設立者。瑞宝章受賞者)
石元泰博(写真家。1969年日本に帰化。1996年文化功労者に選ばれた)
山本紅浦(画家・ニューヨーク・マンハッタンのソーホー地区にある紅浦墨絵学校の設立者。ニューヨークで墨絵を教える第一人者)
山川浦路
ユリ・コウチヤマ (活動家。マルコムX支援者[26])
リチャード・アオキ(英語版)(ブラックパンサー党元メンバー、活動家)
ヒサエ・ヤマモト(作家)
ヨシコ・ウチダ(作家。「強制収容を扱った作品」参照)
トシオ・モリ(作家)
ワカコ・ヤマウチ(劇作家)
ミネ・オオクボ(画家、イラストレーター。「強制収容を扱った作品」参照)
ミツエ・ヤマダ(詩人。「強制収容を扱った作品」参照)
ジョン・オカダ(作家。「強制収容を扱った作品」参照)
甲斐美和 (ピアニスト、司書)
ジェームズ・シモウラ(ミシガン州弁護士)[27]
城戸三郎(カリフォルニア州弁護士、第二次世界大戦下の日系アメリカ人市民同盟会長)
被害
財産放棄
「閉店セール」を行う日系人経営の商店
上記のように、準備期間すら満足に与えられなかった上、わずかな手荷物だけしか手にすることを許されず、着の身着のままで強制収容所に収容された日系アメリカ人及び日本人移民は、強制収容時に家や会社、土地や車などの資産を安値で買い叩かれただけではなく、中にはそのまま放棄せざるを得なかった者も沢山いた。
しかもその後長年に亘り強制収容時に手放した財産や社会的地位に対する何の補償も得られず、その結果全ての財産をこの強制収容によって失ってしまった人もいた。
なお、大統領行政令9066号の発令に伴うこのような措置に対してフランシス・ビドル(en)司法長官は「西海岸の反日感情に迎合し日系人の所有する農地を手に入れようとする利益誘導が絡んでいる」[6] と強く批判している。
ミシガン州の弁護士で日系アメリカ人3世のジェームズ・シモウラ(James Shimoura)は、家族や親族が日系人強制収容所に入れられ、農地・自宅・財産を全て奪われたと述べている[27]。シモウラはビンセント・チン事件当時、アジア系コミュニティを支えた1人でもある[27]。シモウラ家は祖父の仕事の関係で1914年に徳島からミシガンへ渡米し、母方の親戚はサンフランシスコ・ベイエリアで農業に従事していた[27]。
財産保全
なお、強制収容の開始に際しアメリカ政府は、「申し出があった場合に限り、収容される日系アメリカ人及び日本人移民の財産の保全を政府管理の下で行う」旨の通告を行ったが、申し出を行う時間的余裕さえ十分に与えられていなかった上に、強制収容という差別的かつ過酷な仕打ちを行うアメリカ政府を信用して財産保全の申し出を行うものは殆どいなかった。また、もし申し出た場合でもそれらは実際には記録されず、さらには地元政府によって保全の申し出自体が否定されるケースも相次いだ。
また、政府に対する財産保全の申し出を行わなかったものの、国府田敬三郎や原田重吉のほか、子供・孫が非日系人と婚約・結婚していた人物など、日系人以外の知人に、強制収容所に収容されている間に資産を管理・保全してもらうことに成功した者もいたが、当時の反日的な風潮から、そのような措置に成功したのは、ほんの僅かであった。
アメリカ国内における批判
日系人の強制収容を報じる新聞
日系人の強制収容が開始された当時は、黄色人種に対する人種差別が激しかっただけでなく、上記のように日本軍によるアメリカ西海岸への本土上陸が危惧されたうえに、その後もアメリカ本土への攻撃や空襲が行われ、さらにアメリカ軍の敗退が続いたためにアメリカ国内で表立って批判する政界や法曹界、報道の者は少なかった。
また、このような状況下においても「なぜ白人のドイツ系やイタリア系は強制収容せず、なぜ黄色人種の日系人だけか」という疑問を唱えるものすら殆どいなかった。さらに、日本軍が各地で連合国に対し劣勢になり、日本軍によるアメリカ本土への攻撃の可能性が少なくなった1944年以降も、ルーズベルト大統領以下のアメリカ政府と軍内部からは、日系人の強制収容を止めるべきという意見は殆ど出てこなかった。
しかし、強制収容そのものや、強制収容のやり方などについて批判する者も、中央政府や4州やそれ以外の州の上層部、法曹界に少数ながら存在した。
ジョン・エドガー・フーヴァー
当時FBI長官だったジョン・エドガー・フーヴァーはFBI捜査官に有色人種をほとんど起用しないなど人種差別的な人物だったが、日系人の強制収容に対しては「スパイと思しき者たちは真珠湾攻撃の直後にFBIが既に拘束している」として反対していた[28]。
カー・コロラド州知事
ラルフ・ローレンス・カーの銅像
そのような状況下で、アマチ収容所が置かれたコロラド州知事のラルフ・ローレンス・カーは、日系アメリカ人および日本人移民に対する内陸部への強制移住こそ賛成したものの、強制収容に対しては「非人道的でありアメリカ憲法違反である」として州知事クラスの政治家として唯一反対の意思を表明した。
さらに日系アメリカ人や日本人移民がアマチ収容所に到着した際に地元の反対派が抗議に現れたが、飛行機で現地に飛んで暴力的な行動を止め、日系アメリカ人を受け入れるよう呼びかけた。
しかし、このような戦時中における日系アメリカ人の基本的権利を保護するという勇気と良識のある言動が、アメリカ合衆国上院議員という将来展望も含めたカーの政治生命を絶ったと見られている。実際、カーはこれらの発言を行った同年に行われた1942年の上院議員選挙で、現職の民主党のエドウィン・ジョンソンにわずか4000票という僅差で敗北している。
ライシャワー博士
日本生まれのハーバード大学の東アジア研究学の講師で、開戦直前まで国務省で嘱託職員として勤務していた後の駐日アメリカ大使のエドウィン・O・ライシャワー博士は、1942年3月30日のマサチューセッツ州の「ボストン・グローブ」紙で、日系アメリカ人の祖国 (アメリカ) に対する忠誠心を指摘し、日系アメリカ人に対する強制収容政策を批判した[29]。
ビドル司法長官
また、「敵性外国人」である日系アメリカ人の家を令状なしに捜査する権限を与えたものの、上記のようにその後の行き過ぎた状況を憂慮していたビドル司法長官は、権限を与えてからちょうど2年後の1943年12月30日に、「善良なアメリカ市民を、その人種を理由に必要以上に強制収容所に抑留している現在の処置は危険であり、政府の基本方針と矛盾している」と発言している[10]。
ロバート最高裁判事
1944年12月18日には最高裁判事のオーエン・J・ロバートも、当時アメリカ政府が日系人および日本人が「強制収容」されている「強制収容所」のことを「Relocation Centers(転住センター)」と言い換えていたことに対して、「『転住センター』という表現は単なる『強制収容所』の言い換えにすぎない」と、批判した[10]。
強制収容の終焉
帰還命令
閉鎖されるアマチ強制収容所
1945年8月15日に日本がアメリカを含む連合国に対して降伏し、翌月の9月2日に連合国への降伏文書に署名したことで、日本とアメリカの間の戦闘状態が終結した。なお、日系人の強制収容を推し進めたルーズベルト大統領は、日米間の終戦の4か月強前の4月12日に死去していた。
戦闘終結に伴い、西海岸及びハワイに居住する日系アメリカ人及び日本人移民に対する強制収容の必要性がなくなったことにより、全ての強制収容所はこの年の10月から11月にかけて次々と閉鎖され、すべての強制収容者は着のみ着のままで元々住んでいた家に戻るように命令された。
「二級市民」扱い
しかし上記のように仕事や家、その他の財産のほとんどを放棄させられ長年に亘って強制収容された、西海岸4州及びハワイに居住する日系人及び日本人移民が、元通りの社会的立場に社会復帰することは容易ではなかった。
その後も、アメリカに住む日系人は、アメリカ国民であるにもかかわらず、旧敵国である日本にルーツを持つということだけを根拠に1952年6月に行われたマッカラン・ウォルター移民帰化法の施行までの長きの間、母国であるアメリカの市民権さえも剥奪された(なおドイツ系アメリカ人やイタリア系アメリカ人はこのような仕打ちを受けることはなかった)。
その上に、日本との戦争によって、今までにも増して酷い人種差別にさらされることとなった日系アメリカ人及び日本人移民の多くは、その後長い間「二級市民(英語版)」としての立場に耐え忍ぶことを余儀なくされ、その結果、多くの日本人移民が、生まれ故郷の日本に戻ることとなった。