アメリカ政府による謝罪と賠償
日系アメリカ人
1948年7月2日に、日系人の強制収容に対する、連邦政府による補償策としては、最初のものとなる「日系人退去補償請求法(英語版)」が、ハリー・S・トルーマン大統領によって署名された。しかし、国家補償の対象となる日系人の損害・喪失は、文書によって証明できる不動産・私有財産に限られ、精神的苦痛や教育・職業によって見込まれた、逸失利益に対する補償は否定された。また、1件当たりの補償額の上限は2,500ドル、請求権の時効期間も1年半と定められた。
1948年法に基づいた請求は、時効を迎えるまでに22,945件提出され、その4割は限度額である2,500ドルを越えたものだった。しかし、立証責任が請求者に課せられた事から、手続きに時間がかかり、1950年末までに処理された請求は、僅か137件に止まった。それ以降も、1951年の修正法では、補償額を請求額の75%または限度額より少ない額とする事とされた。更に1956年の再修正法では、示談により総額10万ドル以内で補償額を決定する事が基本となり、請求者が不服を申し立てた場合は、連邦請求裁判所(英語版)において裁決が行われる事とされた。
同法に基づいた補償処理は、1965年に終了したものの、補償総額は請求総額の約25%、日系人の損害総額の10%未満に過ぎなかった[30]。
そうした中で、1950年代半ば頃からアフリカ系住民による公民権運動が展開された結果として、1964年に公民権法、翌1965年には投票権法が、各々制定される事となった。こうした動きに触発された日系人達により、1948年法では考慮されなかった、無形の損害や日系人の自由及び尊厳の回復を求めた、所謂「リドレス運動」が、1970年より展開される事となった[31]。
1976年2月19日にジェラルド・R・フォード大統領は、「大統領令9066号」の正式な終了を確認する布告「アメリカの誓い」に署名し、「我々は、当時から理解するべきだった事を、今日知った。日系人の強制収容は、誤りだっただけではなく、彼らは当時も今も、忠実なアメリカ人である」と述べた[32][33]。
また、当初は強制収容政策の実施を支持したものの、その後批判に転じたビドル司法長官は、戦後発刊された自書の中で自己批判を行っている。他にも、かつて収容を支持していたカリフォルニア州のウォーレン検事総長も、後に自伝の中で、「誤っており(wrong)」「深く後悔している(deeply regretted)」と述べその過ちを認めている[34][35]。
1979年に日系アメリカ人市民同盟は、強制収容所の実態を調査する為の連邦委員会の設置を提案した。これを受けた、民主党のダニエル・イノウエ上院議員とジム・ライト(英語版)下院議員によって、
「大統領令9066号」に関する事実と、その影響に関する調査
軍による指令の検証
適切な救済策の提示
を目的とした、「戦時における民間人の転住・抑留に関する委員会(英語版)」(CWRIC)の設置を要求する法案が、連邦議会に提出された。同法案は1980年7月31日に、ジミー・カーター大統領によって署名された。その後、1981年7月から12月にかけて、公聴会が開かれた。ワシントンD.C.・ロサンゼルス・サンフランシスコ・シアトル・アンカレッジ・ウナラスカ・シカゴ・ワシントンD.C.(2度目)・ニューヨーク・ボストンの順で実施された会では、計20日間に亘って、750名の関係者が証言する事となった[36][37][38][39]。
1982年12月にCWRICは、『拒否された個人の正義(Personal Justice Denied)』と題した、467ページにも及ぶ報告書を、連邦議会に提出した。翌1983年2月24日に、同報告書の内容は公表され、そのうえで「日系人の強制収容は、軍事的な必要性ではなく、人種差別・戦時中の集団ヒステリー・政権の失策に基づいた、不当なものだった」と結論付けられた。また、1983年6月22日にCWRICは、存命している元収容者約6万人に対し、1人当たり2万ドルの賠償金を支払う事を、連邦議会に対して勧告した[33][38][40][41]。
「市民の自由法」に署名するレーガン大統領と、その様子を見守る(左から)スパーク・マツナガ上院議員、ノーマン・ミネタ下院議員、パット・サイキ下院議員、ピート・ウィルソン上院議員、ドン・ヤング下院議員、ボブ・マツイ下院議員、ビル・ローリー(英語版)下院議員、ハリー・カジハラJACL会長。
1988年8月10日に、ロナルド・レーガン大統領は「市民の自由法(英語版)」(別称: 日系アメリカ人補償法)に署名。「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と、憲法で保障された権利を侵害した事に対して、連邦議会は国を代表して謝罪する」として、強制収容を経験した日系人に対して、公式に謝罪を表明した。また、1人当たり2万ドルの賠償金が、存命者にのみ支払われる事と、全米の学校において日系人の強制収容に関する教育を行う為の、総額12億5千万ドルの教育基金が設立される事も、同時に発表された[37][38][42][43]。
なおレーガン大統領は、第442連隊戦闘団(強制収容所の被収容者を含む日系アメリカ人のみによって構成された部隊 ヨーロッパ戦線で大戦時のアメリカ陸軍部隊として最高の殊勲を上げ、ダッハウの強制収容所付属のフルラッハ衛星収容所解放も行った[44])に対しては、「諸君はファシズムと人種差別という二つの敵と闘い、その両方に堂々と勝利した」と特に言及し讃えている。
1992年には再びジョージ・H・W・ブッシュ大統領が国を代表して謝罪すると同時に、全ての現存者に2万ドルの賠償金が行き渡るように4億ドルの追加割り当て法に署名し成立させた。1999年に賠償金の最後の支払いが行なわれ、11年間に総額16億ドルが82,210人の収容された日系アメリカ人、もしくはその子孫に支払われ賠償を終えた[45]。
フレッド・コレマツ
1942年に日系アメリカ人であるフレッド・コレマツが「日系アメリカ人の強制収容は違憲」と主張し提訴したが、最終的には1944年に違憲ではないとの判断が下った。この判決自体は現在でも覆ってはいないが、2011年にはアメリカ合衆国司法省が公式的に過ちだったことを認めた[46]。なお、1998年にコレマツは、アメリカにおける文民向けの最高位の勲章である大統領自由勲章を受章した。ホワイトハウスにおいて執り行われた勲章を授与するための式典において、ビル・クリントン大統領は「我が国の正義を希求する長い歴史の中で、多くの魂のために闘った市民の名が輝いています。プレッシー、ブラウン、パークス…。その栄光の人々の列に、今日、フレッド・コレマツという名が新たに刻まれたのです」と述べた[47]。
元第442連隊戦闘団らの前で議会名誉黄金勲章を授与する法案に署名するオバマ大統領(2010年)
また2012年6月6日にロサンゼルス郡参事会は、1942年に行われた日系人強制収容を行うように求める決議を改めて取り下げ[48]、マーク・リドリー・トーマス郡参事は、「この事実を無視し、無解決事件のように扱うことはできない」、「正しいことをするのに遅すぎることはない」と述べた。
マンザナー強制収容所内に設けられた慰霊碑
2020年2月20日、カリフォルニア州議会で、大統領選挙を控える中、日系人強制収容に対する謝罪の決議が全会一致で採択された。アル・ムラツチ州議会議員が他の議員数名と連名で決議案を提出した。ムラツチ議員は、ドナルド・トランプ政権による不法移民政策に対して日系人が懸念を抱いているという認識を示した。[49] ムラツチ議員は、議員就任以来毎年、2月19日を日系人強制収容所の被害者追悼の日とするよう求める法案を提出している[50]。
2021年2月19日、ジョー・バイデン大統領は強制収容を「アメリカ史で最も恥ずべき歴史のひとつ」と位置づけ非難し、「日系アメリカ人はただ出自のみによって標的とされ、収容された。連邦政府の行いは不道徳で、憲法にも反していた」との認識を示し、正式な謝罪を再表明した[51]。
またバイデン大統領は、大統領令9066号の発令から80年目の『追憶の日』を控える2022年2月18日にも、発表した公式声明において、「アメリカの最も恥ずべき章の一つだ。取り返しのつかない被害を受けた日系人への、連邦政府の公式謝罪を再確認する」「80年前に日系アメリカ人を収監した事は、人種差別や恐怖などの増長を許した時、招く事になる悲劇的な結果を、今日の私達に思い起こさせる」としたうえで、『ベインブリッジ島日系アメリカ人排除記念碑』から引用した「二度とないように」という言葉を日本語で記し、過ちを繰り返さない事を約束すると同時に、国内における人種差別問題に向き合う決意を強調した[52][53]。
ワシントンD.C.には捉えられた鶴を日系人に喩えた「碑」と、経緯を記した「碑文」によって形作られたJapanese American Memorial to Patriotism During World War II(全米日系米国人記念碑)が2001年に完成した。
日系ペルー人
またアメリカ政府は、日系ペルー人に対しては戦争終結後はアメリカから強制退去させたが、ペルー政府による入国拒否により、多くの日系ペルー人が含まれるにもかかわらず900人が日本に送還させられた。それ以外の者はアメリカ国内で仮釈放され、その後アメリカ政府に対して強制退去に対する異議申し立てを行ってアメリカに残留し、1952年にアメリカの市民権を獲得した。
その後、1999年にアメリカのビル・クリントン大統領は、正式にアメリカ国内の強制収容所に収容されていた日系ペルー人に対して謝罪し、原告一人当たり5,000ドルの賠償金と謝罪の手紙を出した。 また、2011年にペルーのアラン・ガルシア大統領は、日系ペルー人が拘束、財産を没収しアメリカの強制収容所に送り込まれた事を会見で正式に謝罪した[54]。
史跡保存
2006年に、アメリカ上下両院はマイク・ホンダ議員等の日系議員が中心になって提案した、カリフォルニア州やアリゾナ州、ユタ州の砂漠の中などに点在する日系人の強制収容所を国立公園局によって「アメリカの歴史にとって重要な史跡」として保存する法案を可決した[55]。
記録
写真家アンセル・アダムスが1943年にマンザナー収容所で日系人の収容所生活の様子などを撮影した写真と随筆集「Born Free and Equal」が、アメリカ議会図書館に収容されている[56]。
他の連合国における強制収容
なお、在留日本人および日系人に対する戦争時の強制収容は他の連合国でも行われたが、直接日本と交戦状態に置かれるか置かれないか、または日本人および日系人の数が多いか少ないか、または日本との間に開戦した時期によってその対応はまちまちであった。
ブラジル
国交断絶
ヴァルガス大統領とルーズベルト大統領(1936年/前列)
親米派で、しかも戦前から日本人学校の閉鎖や全ての日本語新聞の発行停止処分などの、日系ブラジル人及び日本人移民に対する同化政策を進めていたジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス大統領の政権下にあったブラジルは、日英米間の開戦後も中立を保っていた。
しかし1942年1月28日に、アメリカの圧力により日本を含む枢軸諸国と国交断絶させられた。なお、国交こそ断絶したものの、ブラジルによる日本への宣戦布告は長く行われず、1945年6月6日になりようやく宣戦布告した。
各種処分の執行
国交断絶後にブラジル政府や日本人人口が多いサンパウロ州政府は、日本人に対して公共の場所での日本語の会話の禁止や移動の自由の制限、財産処分の禁止、日本人が多く集まる地域からの立ち退きなどを命じたほか、事実無根のスパイ容疑で多くの日本人を逮捕した[57]。なお、日系ブラジル人及び日本人移民人数が多いこともあり、アメリカに強制連行させるような要求こそなかったが、一部の日本人移民は1942年7月に運行された戦時交換船で帰国させられた。
強制収容の執行
ブラジル内陸部で働く日系移民
その後1943年8月には「日本海軍船艇との連絡をさせないこと」を目的に、日本人移民および日系人ブラジル人はサントスなどの全ての大西洋沿岸都市から退去させられた上に、その多くはサンパウロ州の内陸部に設けられた強制収容所に一時的に収容された[58]。このため、サントスに住む多くの日系人が職業を奪われた上に資産の凍結も行われ、自宅などの不動産を二束三文で手放すことを余儀なくされた。彼らはサンパウロ州内陸部の未開拓地に強制的に移住された。
内陸部への強制移住は大戦が終結した間もなく後に解除されたものの、資産の没収、凍結の解除は、日本とブラジル間の国交が回復した後の1950年代まで続けて行なわれ、その際に解除を忘れられたままとなった没収資産の一部は、2000年代に至るまで返還されなかった。
「勝ち組」と「負け組」
なお、戦後のブラジルの日本人移民の間においては、戦時中に日本語新聞の発刊が停止された事による情報の枯渇、教育程度の低さとポルトガル語能力不足などから、日本が戦勝したと信じる「勝ち組」と、日本の敗戦を受け止めた「負け組」との間で争いが勃発し、両者の間の暴動により数十名の死者が出る騒ぎとなり社会問題となった。
後に両国の国交が回復し、特命全権大使がリオ・デ・ジャネイロに再度赴任した後の1950年代初頭に、教育程度の低い地方に多かった「勝ち組」に対して大使自らが説明を行うに至るまで、両者の間の対立が続くこととなった。
ペルー
同じくアメリカの圧力により日本を含む枢軸諸国と1942年に開戦、国交断絶させられたペルーでは、多くの日系ペルー人と日本人移民がアメリカに強制連行され、日系ペルー人に対しては戦争終結後はアメリカから強制退去させたが、ペルー政府による入国拒否により、多くの日系ペルー人が含まれるにもかかわらず900人が日本に送還させられた。
アルゼンチン
ファン・ペロン
大戦勃発後は中立を保ちつつも親ドイツ派の政策を取り続け、1943年6月のクーデターによって絶対中立派政権(事実上の親枢軸政権)が成立したアルゼンチンでは、1945年まで日本を含む枢軸国への宣戦布告は行われなかったことと、当時軍の高官であり、労働長官でその後副大統領となったフアン・ペロン将軍が日系アルゼンチン人を重用したこともあり、日本への宣戦布告後には政府による日系団体の監視や在アルゼンチン日本公使の追放が行われたものの、万単位で日系人が居住する国としては唯一大規模な弾圧が行われなかった。
メキシコ
メキシコは、ブラジルと同じく日系メキシコ人及び日本人移民人数が比較的多いこともあり、ブラジルと同じくアメリカに強制連行させるような要求こそなかったものの、その多くが「日本海軍船艇との連絡をさせないこと」を目的に太平洋沿岸から離れた2ヵ所の強制収容所に収容され、その資産は没収、または凍結されることとなった。
カナダ
詳細は「en:Japanese-Canadian internment」を参照
ブリティッシュコロンビア州内陸部に設けられた強制収容所
カナダにおいても、日系カナダ人に対する財産没収や強制収容が行われた。
日加間の開戦後すぐに日系カナダ人と在加日本人の財産は没収され、さらに1942年初頭にバンクーバー島の軍施設が日本海軍の艦艇に攻撃されたことや、その後もカナダの太平洋沿岸部で多くの連合軍の船艇が日本軍の潜水艦に撃沈されたこともあり、ブリティッシュコロンビア州の内陸部にあるタシュミ強制収容所に移された後、ベイ・ファームスとレモン・クリークにある強制収容所への移動を余儀なくされた。
なおこれらの強制収容所に抑留された日系カナダ人は、終戦後4年が経過した1949年まで沿岸部160キロ以内に移動することが許されなかった。
「日系カナダ人#抑留」も参照
オーストラリアおよび周辺諸国
オーストラリアにおいても、日系オーストラリア人及び日本人移民と、ニュージーランドやフィジーなど周辺のイギリス連邦諸国及びその植民地や、同盟国のオランダ領東インド諸島などに在住していた日本人移民と日系人に対する強制収容所への収容が行われ、全体で約4,000人が強制収容された[59]。なお戦後そのほとんどが日本に強制的に送還させられた。
強制収容を扱った作品
1946年、解説入り画集『市民13660号 ― 日系女性画家による戦時強制収容所の記録』(前山隆訳、御茶の水書房、1984年)。画家ミネ・オオクボがタンフォラン仮収容所・トパーズ戦争移住センターで描いた画を編纂したもの。
1956年、小説『ノー・ノー・ボーイ』 - 収容体験を持つ日系人作家ジョン・オカダによる小説。シアトルに住むイチローが家族と共に収容され、忠誠心調査での最後の2問で「ノー」と応える。戦後の太平洋岸北西部の様子が描かれている[60]。
1971年、自伝的小説『強制収容所 トパーズへの旅 ― 日系少女ユキの物語』- ヨシコ・ウチダ著(柴田寛二訳、評論社、1983年)。
1973年、ジーン・ワカツキ・ヒューストン(英語版)と夫のジェームズ・ヒューストン(英語版)が共著で回想記『マンザナールよさらば』を出版した。1976年、ジョン・コーティ(英語版)監督はこれをもとに、同名のTV番組を制作し、米三大ネットワークのNBCで放送された。
1976年、児童文学作品『わすれないよ いつまでも ― 日系アメリカ人少女の物語』- ヨシコ・ウチダ著(ジョアナ・ヤードリー (イラスト)、浜崎絵梨訳、晶文社、2013年)。
1976年、詩集『収容所ノート ― ミツエ・ヤマダ作品集』- ミツエ・ヤマダ著(石幡直樹、森正樹共訳、松柏社、2004年)。
1980年、漫画『がんがらがん』 - 長谷川法世原作の青年漫画。当時の日系アメリカ人への迫害の様子や、収容所内での暮らしぶりなどを描いている。
1982年、自伝的小説『荒野に追われた人々 ― 戦時下日系米人家族の記録』- ヨシコ・ウチダ著(波多野和夫訳、岩波書店、1985年)。
1984年、ドラマ『山河燃ゆ』 - 日系人強制収容をテーマにした山崎豊子の「二つの祖国」を基にしたNHK大河ドラマ。
1987年、小説『写真花嫁』- ヨシコ・ウチダ著(中山庸子訳、學藝書林、1990年)。後半はトパーズ戦争移住センターを舞台とする。1943年4月、見張りの米兵に銃殺された63歳の日系一世の男性ジェイムズ・ハツキ・ワカサの話を織り込んでいる。
1988年、詩集『砂漠行』- 上記『収容所ノート ― ミツエ・ヤマダ作品集』所収。
1990年、映画『愛と哀しみの旅路』 - アラン・パーカー作、監督。日系アメリカ人女性と駆け落ちするアメリカ人男性の物語[61]。
1994年の小説、1999年の映画『ヒマラヤ杉に降る雪』 - マンザナー強制収容所でのイマダ家の様子が描かれている[62][63]。
1997年、ジョージ・カーリンのネタ - 個人の権利や、アメリカ合衆国の政治への批判のネタの中で、日系アメリカ人が収容所に送られたことを語った[64]。
1998年、マイケル・O.タンネル, ジョージ・W.チルコート 著, 竹下千花子 訳『トパーズの日記 : 日系アメリカ人強制収容所の子どもたち』金の星社, ISBN 4-323-06072-6
2000年、写真集『約束の大地/アメリカ』新正卓 みすず書房。
2002年、小説『天皇が神だったころ(英語版)』 - ジュリー・オオツカ著。名もなき日本人一家がユタ州にあるトパーズ戦争移住センターに収容される。オーツカ一家の経験に基づいて描かれている[65]。
2005年、曲『ケンジ』 - フォート・マイナーのアルバム『The Rising Tied 』に収録されている。マイク・シノダの祖父のキャンプでの経験について描かれている。
2006年、小説『草花とよばれた少女』- シンシア・カドハタ著。ポストン戦争強制収容センターを舞台とする小説。
2007年、映画『アメリカンパスタイム 俺たちの星条旗』 - デズモンド・ナカノ監督。ユタ州のトパーズ戦争移住センターを舞台とする映画。
2008年、『親愛なるブリードさま : 強制収容された日系二世とアメリカ人図書館司書の物語』柏書房 - 収容された日系人の子どもに本を送り続けて励ました司書クララ・ブリード(英語版)。ISBN 978-4-7601-3388-8
2009年、小説『あの日、パナマホテルで(英語版)』 - ジェイミー・フォード(英語版)』著。シアトルにて、中国人少年が日本人少女と共にオスカー・ホルデンのジャズのレコードを買う。少女がそのレコードを持ったまま、一家は強制収容所に送られてしまう。大人になった少年はそのレコードを探す[66]。
2010年、ドラマ『99年の愛〜JAPANESE AMERICANS〜』 - TBSテレビの開局60周年記念として放映されたTVドラマ。当時の日系アメリカ人への迫害の様子や、マンザナー強制収容所内での暮らしぶりなどを描いている。
2011年、曲『Go For Broke 』 - ジェイク・シマブクロのアルバム『アイ・ラヴ・ウクレレ(英語版)』の収録曲。日系アメリカ人で構成された第442連隊戦闘団からインスパイアされた[67]。
2012年、ミュージカル『アリージャンス』 - カリフォルニア州サンディエゴで初演された。主演のジョージ・タケイの収容所での実体験にインスパイアされた[68]。
2013年、小説『Camp Nine 』 - ヴィヴィアン・シファー著。アーカンソー州のローワー戦争移住センター内外を舞台にしている[69]。
2013年12月、ドラマ『Hawaii Five-0』81話『父に捧ぐ』 - 約70年前のホノウリウリ抑留キャンプでのコールド・ケースとなった殺人事件を解決する[70]。
2014年、ドキュメンタリー『The Legacy of Heart Mountain 』 - ワイオミング州のハートマウンテン移住センターでの生活を探る[71]。
2014年、ドキュメンタリー映画『To Be Takei 』 - 数年間強制収容所で過ごした俳優ジョージ・タケイの若い頃を記録する[72][73]。
2014年、フィーチャー映画『Under the Blood Red Sun 』 - 日系アメリカ人監督ティム・サヴェッジが、日系アメリカ人グレアム・ソースベリーのハワイでの13歳の頃の実体験を基にした小説を基に映画化した。サヴェッジの父親は真珠湾攻撃後強制収容されていた[74][75]。
2015年、ドキュメンタリー映画『Relocation, Arkansas 』 - ヴィヴィアン・シファーがアーカンソー州のローワー戦争移住センターおよびジェローム戦争移住センター跡地を訪れる[76]。
2015年、歴史小説『Allegiance 』 - カーミット・ルーズヴェルト著。アメリカ政府や最高裁判所での日系人の強制収容に関する法律上および倫理上の議論やあまり知られていない事実を基にしている。ハーパー・リー賞最終候補となった[77]。
2017年、ドキュメンタリー映画『Resistance at Tule Lake』 - 元被収容者へのインタビューを多く含む、トゥーリーレイク収容所の歴史を描いたドキュメンタリー。
2019年、ドラマ『二つの祖国』 - 日系人強制収容をテーマにした山崎豊子の「二つの祖国」を基にしたドラマ。
日系アメリカ人
1948年7月2日に、日系人の強制収容に対する、連邦政府による補償策としては、最初のものとなる「日系人退去補償請求法(英語版)」が、ハリー・S・トルーマン大統領によって署名された。しかし、国家補償の対象となる日系人の損害・喪失は、文書によって証明できる不動産・私有財産に限られ、精神的苦痛や教育・職業によって見込まれた、逸失利益に対する補償は否定された。また、1件当たりの補償額の上限は2,500ドル、請求権の時効期間も1年半と定められた。
1948年法に基づいた請求は、時効を迎えるまでに22,945件提出され、その4割は限度額である2,500ドルを越えたものだった。しかし、立証責任が請求者に課せられた事から、手続きに時間がかかり、1950年末までに処理された請求は、僅か137件に止まった。それ以降も、1951年の修正法では、補償額を請求額の75%または限度額より少ない額とする事とされた。更に1956年の再修正法では、示談により総額10万ドル以内で補償額を決定する事が基本となり、請求者が不服を申し立てた場合は、連邦請求裁判所(英語版)において裁決が行われる事とされた。
同法に基づいた補償処理は、1965年に終了したものの、補償総額は請求総額の約25%、日系人の損害総額の10%未満に過ぎなかった[30]。
そうした中で、1950年代半ば頃からアフリカ系住民による公民権運動が展開された結果として、1964年に公民権法、翌1965年には投票権法が、各々制定される事となった。こうした動きに触発された日系人達により、1948年法では考慮されなかった、無形の損害や日系人の自由及び尊厳の回復を求めた、所謂「リドレス運動」が、1970年より展開される事となった[31]。
1976年2月19日にジェラルド・R・フォード大統領は、「大統領令9066号」の正式な終了を確認する布告「アメリカの誓い」に署名し、「我々は、当時から理解するべきだった事を、今日知った。日系人の強制収容は、誤りだっただけではなく、彼らは当時も今も、忠実なアメリカ人である」と述べた[32][33]。
また、当初は強制収容政策の実施を支持したものの、その後批判に転じたビドル司法長官は、戦後発刊された自書の中で自己批判を行っている。他にも、かつて収容を支持していたカリフォルニア州のウォーレン検事総長も、後に自伝の中で、「誤っており(wrong)」「深く後悔している(deeply regretted)」と述べその過ちを認めている[34][35]。
1979年に日系アメリカ人市民同盟は、強制収容所の実態を調査する為の連邦委員会の設置を提案した。これを受けた、民主党のダニエル・イノウエ上院議員とジム・ライト(英語版)下院議員によって、
「大統領令9066号」に関する事実と、その影響に関する調査
軍による指令の検証
適切な救済策の提示
を目的とした、「戦時における民間人の転住・抑留に関する委員会(英語版)」(CWRIC)の設置を要求する法案が、連邦議会に提出された。同法案は1980年7月31日に、ジミー・カーター大統領によって署名された。その後、1981年7月から12月にかけて、公聴会が開かれた。ワシントンD.C.・ロサンゼルス・サンフランシスコ・シアトル・アンカレッジ・ウナラスカ・シカゴ・ワシントンD.C.(2度目)・ニューヨーク・ボストンの順で実施された会では、計20日間に亘って、750名の関係者が証言する事となった[36][37][38][39]。
1982年12月にCWRICは、『拒否された個人の正義(Personal Justice Denied)』と題した、467ページにも及ぶ報告書を、連邦議会に提出した。翌1983年2月24日に、同報告書の内容は公表され、そのうえで「日系人の強制収容は、軍事的な必要性ではなく、人種差別・戦時中の集団ヒステリー・政権の失策に基づいた、不当なものだった」と結論付けられた。また、1983年6月22日にCWRICは、存命している元収容者約6万人に対し、1人当たり2万ドルの賠償金を支払う事を、連邦議会に対して勧告した[33][38][40][41]。
「市民の自由法」に署名するレーガン大統領と、その様子を見守る(左から)スパーク・マツナガ上院議員、ノーマン・ミネタ下院議員、パット・サイキ下院議員、ピート・ウィルソン上院議員、ドン・ヤング下院議員、ボブ・マツイ下院議員、ビル・ローリー(英語版)下院議員、ハリー・カジハラJACL会長。
1988年8月10日に、ロナルド・レーガン大統領は「市民の自由法(英語版)」(別称: 日系アメリカ人補償法)に署名。「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と、憲法で保障された権利を侵害した事に対して、連邦議会は国を代表して謝罪する」として、強制収容を経験した日系人に対して、公式に謝罪を表明した。また、1人当たり2万ドルの賠償金が、存命者にのみ支払われる事と、全米の学校において日系人の強制収容に関する教育を行う為の、総額12億5千万ドルの教育基金が設立される事も、同時に発表された[37][38][42][43]。
なおレーガン大統領は、第442連隊戦闘団(強制収容所の被収容者を含む日系アメリカ人のみによって構成された部隊 ヨーロッパ戦線で大戦時のアメリカ陸軍部隊として最高の殊勲を上げ、ダッハウの強制収容所付属のフルラッハ衛星収容所解放も行った[44])に対しては、「諸君はファシズムと人種差別という二つの敵と闘い、その両方に堂々と勝利した」と特に言及し讃えている。
1992年には再びジョージ・H・W・ブッシュ大統領が国を代表して謝罪すると同時に、全ての現存者に2万ドルの賠償金が行き渡るように4億ドルの追加割り当て法に署名し成立させた。1999年に賠償金の最後の支払いが行なわれ、11年間に総額16億ドルが82,210人の収容された日系アメリカ人、もしくはその子孫に支払われ賠償を終えた[45]。
フレッド・コレマツ
1942年に日系アメリカ人であるフレッド・コレマツが「日系アメリカ人の強制収容は違憲」と主張し提訴したが、最終的には1944年に違憲ではないとの判断が下った。この判決自体は現在でも覆ってはいないが、2011年にはアメリカ合衆国司法省が公式的に過ちだったことを認めた[46]。なお、1998年にコレマツは、アメリカにおける文民向けの最高位の勲章である大統領自由勲章を受章した。ホワイトハウスにおいて執り行われた勲章を授与するための式典において、ビル・クリントン大統領は「我が国の正義を希求する長い歴史の中で、多くの魂のために闘った市民の名が輝いています。プレッシー、ブラウン、パークス…。その栄光の人々の列に、今日、フレッド・コレマツという名が新たに刻まれたのです」と述べた[47]。
元第442連隊戦闘団らの前で議会名誉黄金勲章を授与する法案に署名するオバマ大統領(2010年)
また2012年6月6日にロサンゼルス郡参事会は、1942年に行われた日系人強制収容を行うように求める決議を改めて取り下げ[48]、マーク・リドリー・トーマス郡参事は、「この事実を無視し、無解決事件のように扱うことはできない」、「正しいことをするのに遅すぎることはない」と述べた。
マンザナー強制収容所内に設けられた慰霊碑
2020年2月20日、カリフォルニア州議会で、大統領選挙を控える中、日系人強制収容に対する謝罪の決議が全会一致で採択された。アル・ムラツチ州議会議員が他の議員数名と連名で決議案を提出した。ムラツチ議員は、ドナルド・トランプ政権による不法移民政策に対して日系人が懸念を抱いているという認識を示した。[49] ムラツチ議員は、議員就任以来毎年、2月19日を日系人強制収容所の被害者追悼の日とするよう求める法案を提出している[50]。
2021年2月19日、ジョー・バイデン大統領は強制収容を「アメリカ史で最も恥ずべき歴史のひとつ」と位置づけ非難し、「日系アメリカ人はただ出自のみによって標的とされ、収容された。連邦政府の行いは不道徳で、憲法にも反していた」との認識を示し、正式な謝罪を再表明した[51]。
またバイデン大統領は、大統領令9066号の発令から80年目の『追憶の日』を控える2022年2月18日にも、発表した公式声明において、「アメリカの最も恥ずべき章の一つだ。取り返しのつかない被害を受けた日系人への、連邦政府の公式謝罪を再確認する」「80年前に日系アメリカ人を収監した事は、人種差別や恐怖などの増長を許した時、招く事になる悲劇的な結果を、今日の私達に思い起こさせる」としたうえで、『ベインブリッジ島日系アメリカ人排除記念碑』から引用した「二度とないように」という言葉を日本語で記し、過ちを繰り返さない事を約束すると同時に、国内における人種差別問題に向き合う決意を強調した[52][53]。
ワシントンD.C.には捉えられた鶴を日系人に喩えた「碑」と、経緯を記した「碑文」によって形作られたJapanese American Memorial to Patriotism During World War II(全米日系米国人記念碑)が2001年に完成した。
日系ペルー人
またアメリカ政府は、日系ペルー人に対しては戦争終結後はアメリカから強制退去させたが、ペルー政府による入国拒否により、多くの日系ペルー人が含まれるにもかかわらず900人が日本に送還させられた。それ以外の者はアメリカ国内で仮釈放され、その後アメリカ政府に対して強制退去に対する異議申し立てを行ってアメリカに残留し、1952年にアメリカの市民権を獲得した。
その後、1999年にアメリカのビル・クリントン大統領は、正式にアメリカ国内の強制収容所に収容されていた日系ペルー人に対して謝罪し、原告一人当たり5,000ドルの賠償金と謝罪の手紙を出した。 また、2011年にペルーのアラン・ガルシア大統領は、日系ペルー人が拘束、財産を没収しアメリカの強制収容所に送り込まれた事を会見で正式に謝罪した[54]。
史跡保存
2006年に、アメリカ上下両院はマイク・ホンダ議員等の日系議員が中心になって提案した、カリフォルニア州やアリゾナ州、ユタ州の砂漠の中などに点在する日系人の強制収容所を国立公園局によって「アメリカの歴史にとって重要な史跡」として保存する法案を可決した[55]。
記録
写真家アンセル・アダムスが1943年にマンザナー収容所で日系人の収容所生活の様子などを撮影した写真と随筆集「Born Free and Equal」が、アメリカ議会図書館に収容されている[56]。
他の連合国における強制収容
なお、在留日本人および日系人に対する戦争時の強制収容は他の連合国でも行われたが、直接日本と交戦状態に置かれるか置かれないか、または日本人および日系人の数が多いか少ないか、または日本との間に開戦した時期によってその対応はまちまちであった。
ブラジル
国交断絶
ヴァルガス大統領とルーズベルト大統領(1936年/前列)
親米派で、しかも戦前から日本人学校の閉鎖や全ての日本語新聞の発行停止処分などの、日系ブラジル人及び日本人移民に対する同化政策を進めていたジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス大統領の政権下にあったブラジルは、日英米間の開戦後も中立を保っていた。
しかし1942年1月28日に、アメリカの圧力により日本を含む枢軸諸国と国交断絶させられた。なお、国交こそ断絶したものの、ブラジルによる日本への宣戦布告は長く行われず、1945年6月6日になりようやく宣戦布告した。
各種処分の執行
国交断絶後にブラジル政府や日本人人口が多いサンパウロ州政府は、日本人に対して公共の場所での日本語の会話の禁止や移動の自由の制限、財産処分の禁止、日本人が多く集まる地域からの立ち退きなどを命じたほか、事実無根のスパイ容疑で多くの日本人を逮捕した[57]。なお、日系ブラジル人及び日本人移民人数が多いこともあり、アメリカに強制連行させるような要求こそなかったが、一部の日本人移民は1942年7月に運行された戦時交換船で帰国させられた。
強制収容の執行
ブラジル内陸部で働く日系移民
その後1943年8月には「日本海軍船艇との連絡をさせないこと」を目的に、日本人移民および日系人ブラジル人はサントスなどの全ての大西洋沿岸都市から退去させられた上に、その多くはサンパウロ州の内陸部に設けられた強制収容所に一時的に収容された[58]。このため、サントスに住む多くの日系人が職業を奪われた上に資産の凍結も行われ、自宅などの不動産を二束三文で手放すことを余儀なくされた。彼らはサンパウロ州内陸部の未開拓地に強制的に移住された。
内陸部への強制移住は大戦が終結した間もなく後に解除されたものの、資産の没収、凍結の解除は、日本とブラジル間の国交が回復した後の1950年代まで続けて行なわれ、その際に解除を忘れられたままとなった没収資産の一部は、2000年代に至るまで返還されなかった。
「勝ち組」と「負け組」
なお、戦後のブラジルの日本人移民の間においては、戦時中に日本語新聞の発刊が停止された事による情報の枯渇、教育程度の低さとポルトガル語能力不足などから、日本が戦勝したと信じる「勝ち組」と、日本の敗戦を受け止めた「負け組」との間で争いが勃発し、両者の間の暴動により数十名の死者が出る騒ぎとなり社会問題となった。
後に両国の国交が回復し、特命全権大使がリオ・デ・ジャネイロに再度赴任した後の1950年代初頭に、教育程度の低い地方に多かった「勝ち組」に対して大使自らが説明を行うに至るまで、両者の間の対立が続くこととなった。
ペルー
同じくアメリカの圧力により日本を含む枢軸諸国と1942年に開戦、国交断絶させられたペルーでは、多くの日系ペルー人と日本人移民がアメリカに強制連行され、日系ペルー人に対しては戦争終結後はアメリカから強制退去させたが、ペルー政府による入国拒否により、多くの日系ペルー人が含まれるにもかかわらず900人が日本に送還させられた。
アルゼンチン
ファン・ペロン
大戦勃発後は中立を保ちつつも親ドイツ派の政策を取り続け、1943年6月のクーデターによって絶対中立派政権(事実上の親枢軸政権)が成立したアルゼンチンでは、1945年まで日本を含む枢軸国への宣戦布告は行われなかったことと、当時軍の高官であり、労働長官でその後副大統領となったフアン・ペロン将軍が日系アルゼンチン人を重用したこともあり、日本への宣戦布告後には政府による日系団体の監視や在アルゼンチン日本公使の追放が行われたものの、万単位で日系人が居住する国としては唯一大規模な弾圧が行われなかった。
メキシコ
メキシコは、ブラジルと同じく日系メキシコ人及び日本人移民人数が比較的多いこともあり、ブラジルと同じくアメリカに強制連行させるような要求こそなかったものの、その多くが「日本海軍船艇との連絡をさせないこと」を目的に太平洋沿岸から離れた2ヵ所の強制収容所に収容され、その資産は没収、または凍結されることとなった。
カナダ
詳細は「en:Japanese-Canadian internment」を参照
ブリティッシュコロンビア州内陸部に設けられた強制収容所
カナダにおいても、日系カナダ人に対する財産没収や強制収容が行われた。
日加間の開戦後すぐに日系カナダ人と在加日本人の財産は没収され、さらに1942年初頭にバンクーバー島の軍施設が日本海軍の艦艇に攻撃されたことや、その後もカナダの太平洋沿岸部で多くの連合軍の船艇が日本軍の潜水艦に撃沈されたこともあり、ブリティッシュコロンビア州の内陸部にあるタシュミ強制収容所に移された後、ベイ・ファームスとレモン・クリークにある強制収容所への移動を余儀なくされた。
なおこれらの強制収容所に抑留された日系カナダ人は、終戦後4年が経過した1949年まで沿岸部160キロ以内に移動することが許されなかった。
「日系カナダ人#抑留」も参照
オーストラリアおよび周辺諸国
オーストラリアにおいても、日系オーストラリア人及び日本人移民と、ニュージーランドやフィジーなど周辺のイギリス連邦諸国及びその植民地や、同盟国のオランダ領東インド諸島などに在住していた日本人移民と日系人に対する強制収容所への収容が行われ、全体で約4,000人が強制収容された[59]。なお戦後そのほとんどが日本に強制的に送還させられた。
強制収容を扱った作品
1946年、解説入り画集『市民13660号 ― 日系女性画家による戦時強制収容所の記録』(前山隆訳、御茶の水書房、1984年)。画家ミネ・オオクボがタンフォラン仮収容所・トパーズ戦争移住センターで描いた画を編纂したもの。
1956年、小説『ノー・ノー・ボーイ』 - 収容体験を持つ日系人作家ジョン・オカダによる小説。シアトルに住むイチローが家族と共に収容され、忠誠心調査での最後の2問で「ノー」と応える。戦後の太平洋岸北西部の様子が描かれている[60]。
1971年、自伝的小説『強制収容所 トパーズへの旅 ― 日系少女ユキの物語』- ヨシコ・ウチダ著(柴田寛二訳、評論社、1983年)。
1973年、ジーン・ワカツキ・ヒューストン(英語版)と夫のジェームズ・ヒューストン(英語版)が共著で回想記『マンザナールよさらば』を出版した。1976年、ジョン・コーティ(英語版)監督はこれをもとに、同名のTV番組を制作し、米三大ネットワークのNBCで放送された。
1976年、児童文学作品『わすれないよ いつまでも ― 日系アメリカ人少女の物語』- ヨシコ・ウチダ著(ジョアナ・ヤードリー (イラスト)、浜崎絵梨訳、晶文社、2013年)。
1976年、詩集『収容所ノート ― ミツエ・ヤマダ作品集』- ミツエ・ヤマダ著(石幡直樹、森正樹共訳、松柏社、2004年)。
1980年、漫画『がんがらがん』 - 長谷川法世原作の青年漫画。当時の日系アメリカ人への迫害の様子や、収容所内での暮らしぶりなどを描いている。
1982年、自伝的小説『荒野に追われた人々 ― 戦時下日系米人家族の記録』- ヨシコ・ウチダ著(波多野和夫訳、岩波書店、1985年)。
1984年、ドラマ『山河燃ゆ』 - 日系人強制収容をテーマにした山崎豊子の「二つの祖国」を基にしたNHK大河ドラマ。
1987年、小説『写真花嫁』- ヨシコ・ウチダ著(中山庸子訳、學藝書林、1990年)。後半はトパーズ戦争移住センターを舞台とする。1943年4月、見張りの米兵に銃殺された63歳の日系一世の男性ジェイムズ・ハツキ・ワカサの話を織り込んでいる。
1988年、詩集『砂漠行』- 上記『収容所ノート ― ミツエ・ヤマダ作品集』所収。
1990年、映画『愛と哀しみの旅路』 - アラン・パーカー作、監督。日系アメリカ人女性と駆け落ちするアメリカ人男性の物語[61]。
1994年の小説、1999年の映画『ヒマラヤ杉に降る雪』 - マンザナー強制収容所でのイマダ家の様子が描かれている[62][63]。
1997年、ジョージ・カーリンのネタ - 個人の権利や、アメリカ合衆国の政治への批判のネタの中で、日系アメリカ人が収容所に送られたことを語った[64]。
1998年、マイケル・O.タンネル, ジョージ・W.チルコート 著, 竹下千花子 訳『トパーズの日記 : 日系アメリカ人強制収容所の子どもたち』金の星社, ISBN 4-323-06072-6
2000年、写真集『約束の大地/アメリカ』新正卓 みすず書房。
2002年、小説『天皇が神だったころ(英語版)』 - ジュリー・オオツカ著。名もなき日本人一家がユタ州にあるトパーズ戦争移住センターに収容される。オーツカ一家の経験に基づいて描かれている[65]。
2005年、曲『ケンジ』 - フォート・マイナーのアルバム『The Rising Tied 』に収録されている。マイク・シノダの祖父のキャンプでの経験について描かれている。
2006年、小説『草花とよばれた少女』- シンシア・カドハタ著。ポストン戦争強制収容センターを舞台とする小説。
2007年、映画『アメリカンパスタイム 俺たちの星条旗』 - デズモンド・ナカノ監督。ユタ州のトパーズ戦争移住センターを舞台とする映画。
2008年、『親愛なるブリードさま : 強制収容された日系二世とアメリカ人図書館司書の物語』柏書房 - 収容された日系人の子どもに本を送り続けて励ました司書クララ・ブリード(英語版)。ISBN 978-4-7601-3388-8
2009年、小説『あの日、パナマホテルで(英語版)』 - ジェイミー・フォード(英語版)』著。シアトルにて、中国人少年が日本人少女と共にオスカー・ホルデンのジャズのレコードを買う。少女がそのレコードを持ったまま、一家は強制収容所に送られてしまう。大人になった少年はそのレコードを探す[66]。
2010年、ドラマ『99年の愛〜JAPANESE AMERICANS〜』 - TBSテレビの開局60周年記念として放映されたTVドラマ。当時の日系アメリカ人への迫害の様子や、マンザナー強制収容所内での暮らしぶりなどを描いている。
2011年、曲『Go For Broke 』 - ジェイク・シマブクロのアルバム『アイ・ラヴ・ウクレレ(英語版)』の収録曲。日系アメリカ人で構成された第442連隊戦闘団からインスパイアされた[67]。
2012年、ミュージカル『アリージャンス』 - カリフォルニア州サンディエゴで初演された。主演のジョージ・タケイの収容所での実体験にインスパイアされた[68]。
2013年、小説『Camp Nine 』 - ヴィヴィアン・シファー著。アーカンソー州のローワー戦争移住センター内外を舞台にしている[69]。
2013年12月、ドラマ『Hawaii Five-0』81話『父に捧ぐ』 - 約70年前のホノウリウリ抑留キャンプでのコールド・ケースとなった殺人事件を解決する[70]。
2014年、ドキュメンタリー『The Legacy of Heart Mountain 』 - ワイオミング州のハートマウンテン移住センターでの生活を探る[71]。
2014年、ドキュメンタリー映画『To Be Takei 』 - 数年間強制収容所で過ごした俳優ジョージ・タケイの若い頃を記録する[72][73]。
2014年、フィーチャー映画『Under the Blood Red Sun 』 - 日系アメリカ人監督ティム・サヴェッジが、日系アメリカ人グレアム・ソースベリーのハワイでの13歳の頃の実体験を基にした小説を基に映画化した。サヴェッジの父親は真珠湾攻撃後強制収容されていた[74][75]。
2015年、ドキュメンタリー映画『Relocation, Arkansas 』 - ヴィヴィアン・シファーがアーカンソー州のローワー戦争移住センターおよびジェローム戦争移住センター跡地を訪れる[76]。
2015年、歴史小説『Allegiance 』 - カーミット・ルーズヴェルト著。アメリカ政府や最高裁判所での日系人の強制収容に関する法律上および倫理上の議論やあまり知られていない事実を基にしている。ハーパー・リー賞最終候補となった[77]。
2017年、ドキュメンタリー映画『Resistance at Tule Lake』 - 元被収容者へのインタビューを多く含む、トゥーリーレイク収容所の歴史を描いたドキュメンタリー。
2019年、ドラマ『二つの祖国』 - 日系人強制収容をテーマにした山崎豊子の「二つの祖国」を基にしたドラマ。