山口県周防大島物語

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戦時中米国の日系人強制収容 3  ウイキ

2024年08月14日 09時31分01秒 | 米国日系人強制収容
アメリカ政府による謝罪と賠償
日系アメリカ人
1948年7月2日に、日系人の強制収容に対する、連邦政府による補償策としては、最初のものとなる「日系人退去補償請求法(英語版)」が、ハリー・S・トルーマン大統領によって署名された。しかし、国家補償の対象となる日系人の損害・喪失は、文書によって証明できる不動産・私有財産に限られ、精神的苦痛や教育・職業によって見込まれた、逸失利益に対する補償は否定された。また、1件当たりの補償額の上限は2,500ドル、請求権の時効期間も1年半と定められた。

1948年法に基づいた請求は、時効を迎えるまでに22,945件提出され、その4割は限度額である2,500ドルを越えたものだった。しかし、立証責任が請求者に課せられた事から、手続きに時間がかかり、1950年末までに処理された請求は、僅か137件に止まった。それ以降も、1951年の修正法では、補償額を請求額の75%または限度額より少ない額とする事とされた。更に1956年の再修正法では、示談により総額10万ドル以内で補償額を決定する事が基本となり、請求者が不服を申し立てた場合は、連邦請求裁判所(英語版)において裁決が行われる事とされた。

同法に基づいた補償処理は、1965年に終了したものの、補償総額は請求総額の約25%、日系人の損害総額の10%未満に過ぎなかった[30]。

そうした中で、1950年代半ば頃からアフリカ系住民による公民権運動が展開された結果として、1964年に公民権法、翌1965年には投票権法が、各々制定される事となった。こうした動きに触発された日系人達により、1948年法では考慮されなかった、無形の損害や日系人の自由及び尊厳の回復を求めた、所謂「リドレス運動」が、1970年より展開される事となった[31]。

1976年2月19日にジェラルド・R・フォード大統領は、「大統領令9066号」の正式な終了を確認する布告「アメリカの誓い」に署名し、「我々は、当時から理解するべきだった事を、今日知った。日系人の強制収容は、誤りだっただけではなく、彼らは当時も今も、忠実なアメリカ人である」と述べた[32][33]。

また、当初は強制収容政策の実施を支持したものの、その後批判に転じたビドル司法長官は、戦後発刊された自書の中で自己批判を行っている。他にも、かつて収容を支持していたカリフォルニア州のウォーレン検事総長も、後に自伝の中で、「誤っており(wrong)」「深く後悔している(deeply regretted)」と述べその過ちを認めている[34][35]。

1979年に日系アメリカ人市民同盟は、強制収容所の実態を調査する為の連邦委員会の設置を提案した。これを受けた、民主党のダニエル・イノウエ上院議員とジム・ライト(英語版)下院議員によって、

「大統領令9066号」に関する事実と、その影響に関する調査
軍による指令の検証
適切な救済策の提示
を目的とした、「戦時における民間人の転住・抑留に関する委員会(英語版)」(CWRIC)の設置を要求する法案が、連邦議会に提出された。同法案は1980年7月31日に、ジミー・カーター大統領によって署名された。その後、1981年7月から12月にかけて、公聴会が開かれた。ワシントンD.C.・ロサンゼルス・サンフランシスコ・シアトル・アンカレッジ・ウナラスカ・シカゴ・ワシントンD.C.(2度目)・ニューヨーク・ボストンの順で実施された会では、計20日間に亘って、750名の関係者が証言する事となった[36][37][38][39]。

1982年12月にCWRICは、『拒否された個人の正義(Personal Justice Denied)』と題した、467ページにも及ぶ報告書を、連邦議会に提出した。翌1983年2月24日に、同報告書の内容は公表され、そのうえで「日系人の強制収容は、軍事的な必要性ではなく、人種差別・戦時中の集団ヒステリー・政権の失策に基づいた、不当なものだった」と結論付けられた。また、1983年6月22日にCWRICは、存命している元収容者約6万人に対し、1人当たり2万ドルの賠償金を支払う事を、連邦議会に対して勧告した[33][38][40][41]。


「市民の自由法」に署名するレーガン大統領と、その様子を見守る(左から)スパーク・マツナガ上院議員、ノーマン・ミネタ下院議員、パット・サイキ下院議員、ピート・ウィルソン上院議員、ドン・ヤング下院議員、ボブ・マツイ下院議員、ビル・ローリー(英語版)下院議員、ハリー・カジハラJACL会長。
1988年8月10日に、ロナルド・レーガン大統領は「市民の自由法(英語版)」(別称: 日系アメリカ人補償法)に署名。「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と、憲法で保障された権利を侵害した事に対して、連邦議会は国を代表して謝罪する」として、強制収容を経験した日系人に対して、公式に謝罪を表明した。また、1人当たり2万ドルの賠償金が、存命者にのみ支払われる事と、全米の学校において日系人の強制収容に関する教育を行う為の、総額12億5千万ドルの教育基金が設立される事も、同時に発表された[37][38][42][43]。

なおレーガン大統領は、第442連隊戦闘団(強制収容所の被収容者を含む日系アメリカ人のみによって構成された部隊 ヨーロッパ戦線で大戦時のアメリカ陸軍部隊として最高の殊勲を上げ、ダッハウの強制収容所付属のフルラッハ衛星収容所解放も行った[44])に対しては、「諸君はファシズムと人種差別という二つの敵と闘い、その両方に堂々と勝利した」と特に言及し讃えている。

1992年には再びジョージ・H・W・ブッシュ大統領が国を代表して謝罪すると同時に、全ての現存者に2万ドルの賠償金が行き渡るように4億ドルの追加割り当て法に署名し成立させた。1999年に賠償金の最後の支払いが行なわれ、11年間に総額16億ドルが82,210人の収容された日系アメリカ人、もしくはその子孫に支払われ賠償を終えた[45]。


フレッド・コレマツ
1942年に日系アメリカ人であるフレッド・コレマツが「日系アメリカ人の強制収容は違憲」と主張し提訴したが、最終的には1944年に違憲ではないとの判断が下った。この判決自体は現在でも覆ってはいないが、2011年にはアメリカ合衆国司法省が公式的に過ちだったことを認めた[46]。なお、1998年にコレマツは、アメリカにおける文民向けの最高位の勲章である大統領自由勲章を受章した。ホワイトハウスにおいて執り行われた勲章を授与するための式典において、ビル・クリントン大統領は「我が国の正義を希求する長い歴史の中で、多くの魂のために闘った市民の名が輝いています。プレッシー、ブラウン、パークス…。その栄光の人々の列に、今日、フレッド・コレマツという名が新たに刻まれたのです」と述べた[47]。


元第442連隊戦闘団らの前で議会名誉黄金勲章を授与する法案に署名するオバマ大統領(2010年)
また2012年6月6日にロサンゼルス郡参事会は、1942年に行われた日系人強制収容を行うように求める決議を改めて取り下げ[48]、マーク・リドリー・トーマス郡参事は、「この事実を無視し、無解決事件のように扱うことはできない」、「正しいことをするのに遅すぎることはない」と述べた。


マンザナー強制収容所内に設けられた慰霊碑
2020年2月20日、カリフォルニア州議会で、大統領選挙を控える中、日系人強制収容に対する謝罪の決議が全会一致で採択された。アル・ムラツチ州議会議員が他の議員数名と連名で決議案を提出した。ムラツチ議員は、ドナルド・トランプ政権による不法移民政策に対して日系人が懸念を抱いているという認識を示した。[49] ムラツチ議員は、議員就任以来毎年、2月19日を日系人強制収容所の被害者追悼の日とするよう求める法案を提出している[50]。

2021年2月19日、ジョー・バイデン大統領は強制収容を「アメリカ史で最も恥ずべき歴史のひとつ」と位置づけ非難し、「日系アメリカ人はただ出自のみによって標的とされ、収容された。連邦政府の行いは不道徳で、憲法にも反していた」との認識を示し、正式な謝罪を再表明した[51]。

またバイデン大統領は、大統領令9066号の発令から80年目の『追憶の日』を控える2022年2月18日にも、発表した公式声明において、「アメリカの最も恥ずべき章の一つだ。取り返しのつかない被害を受けた日系人への、連邦政府の公式謝罪を再確認する」「80年前に日系アメリカ人を収監した事は、人種差別や恐怖などの増長を許した時、招く事になる悲劇的な結果を、今日の私達に思い起こさせる」としたうえで、『ベインブリッジ島日系アメリカ人排除記念碑』から引用した「二度とないように」という言葉を日本語で記し、過ちを繰り返さない事を約束すると同時に、国内における人種差別問題に向き合う決意を強調した[52][53]。

ワシントンD.C.には捉えられた鶴を日系人に喩えた「碑」と、経緯を記した「碑文」によって形作られたJapanese American Memorial to Patriotism During World War II(全米日系米国人記念碑)が2001年に完成した。

日系ペルー人
またアメリカ政府は、日系ペルー人に対しては戦争終結後はアメリカから強制退去させたが、ペルー政府による入国拒否により、多くの日系ペルー人が含まれるにもかかわらず900人が日本に送還させられた。それ以外の者はアメリカ国内で仮釈放され、その後アメリカ政府に対して強制退去に対する異議申し立てを行ってアメリカに残留し、1952年にアメリカの市民権を獲得した。

その後、1999年にアメリカのビル・クリントン大統領は、正式にアメリカ国内の強制収容所に収容されていた日系ペルー人に対して謝罪し、原告一人当たり5,000ドルの賠償金と謝罪の手紙を出した。 また、2011年にペルーのアラン・ガルシア大統領は、日系ペルー人が拘束、財産を没収しアメリカの強制収容所に送り込まれた事を会見で正式に謝罪した[54]。

史跡保存
2006年に、アメリカ上下両院はマイク・ホンダ議員等の日系議員が中心になって提案した、カリフォルニア州やアリゾナ州、ユタ州の砂漠の中などに点在する日系人の強制収容所を国立公園局によって「アメリカの歴史にとって重要な史跡」として保存する法案を可決した[55]。

記録
写真家アンセル・アダムスが1943年にマンザナー収容所で日系人の収容所生活の様子などを撮影した写真と随筆集「Born Free and Equal」が、アメリカ議会図書館に収容されている[56]。

他の連合国における強制収容
なお、在留日本人および日系人に対する戦争時の強制収容は他の連合国でも行われたが、直接日本と交戦状態に置かれるか置かれないか、または日本人および日系人の数が多いか少ないか、または日本との間に開戦した時期によってその対応はまちまちであった。

ブラジル
国交断絶

ヴァルガス大統領とルーズベルト大統領(1936年/前列)
親米派で、しかも戦前から日本人学校の閉鎖や全ての日本語新聞の発行停止処分などの、日系ブラジル人及び日本人移民に対する同化政策を進めていたジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス大統領の政権下にあったブラジルは、日英米間の開戦後も中立を保っていた。

しかし1942年1月28日に、アメリカの圧力により日本を含む枢軸諸国と国交断絶させられた。なお、国交こそ断絶したものの、ブラジルによる日本への宣戦布告は長く行われず、1945年6月6日になりようやく宣戦布告した。

各種処分の執行
国交断絶後にブラジル政府や日本人人口が多いサンパウロ州政府は、日本人に対して公共の場所での日本語の会話の禁止や移動の自由の制限、財産処分の禁止、日本人が多く集まる地域からの立ち退きなどを命じたほか、事実無根のスパイ容疑で多くの日本人を逮捕した[57]。なお、日系ブラジル人及び日本人移民人数が多いこともあり、アメリカに強制連行させるような要求こそなかったが、一部の日本人移民は1942年7月に運行された戦時交換船で帰国させられた。

強制収容の執行

ブラジル内陸部で働く日系移民
その後1943年8月には「日本海軍船艇との連絡をさせないこと」を目的に、日本人移民および日系人ブラジル人はサントスなどの全ての大西洋沿岸都市から退去させられた上に、その多くはサンパウロ州の内陸部に設けられた強制収容所に一時的に収容された[58]。このため、サントスに住む多くの日系人が職業を奪われた上に資産の凍結も行われ、自宅などの不動産を二束三文で手放すことを余儀なくされた。彼らはサンパウロ州内陸部の未開拓地に強制的に移住された。

内陸部への強制移住は大戦が終結した間もなく後に解除されたものの、資産の没収、凍結の解除は、日本とブラジル間の国交が回復した後の1950年代まで続けて行なわれ、その際に解除を忘れられたままとなった没収資産の一部は、2000年代に至るまで返還されなかった。

「勝ち組」と「負け組」
なお、戦後のブラジルの日本人移民の間においては、戦時中に日本語新聞の発刊が停止された事による情報の枯渇、教育程度の低さとポルトガル語能力不足などから、日本が戦勝したと信じる「勝ち組」と、日本の敗戦を受け止めた「負け組」との間で争いが勃発し、両者の間の暴動により数十名の死者が出る騒ぎとなり社会問題となった。

後に両国の国交が回復し、特命全権大使がリオ・デ・ジャネイロに再度赴任した後の1950年代初頭に、教育程度の低い地方に多かった「勝ち組」に対して大使自らが説明を行うに至るまで、両者の間の対立が続くこととなった。

ペルー
同じくアメリカの圧力により日本を含む枢軸諸国と1942年に開戦、国交断絶させられたペルーでは、多くの日系ペルー人と日本人移民がアメリカに強制連行され、日系ペルー人に対しては戦争終結後はアメリカから強制退去させたが、ペルー政府による入国拒否により、多くの日系ペルー人が含まれるにもかかわらず900人が日本に送還させられた。

アルゼンチン

ファン・ペロン
大戦勃発後は中立を保ちつつも親ドイツ派の政策を取り続け、1943年6月のクーデターによって絶対中立派政権(事実上の親枢軸政権)が成立したアルゼンチンでは、1945年まで日本を含む枢軸国への宣戦布告は行われなかったことと、当時軍の高官であり、労働長官でその後副大統領となったフアン・ペロン将軍が日系アルゼンチン人を重用したこともあり、日本への宣戦布告後には政府による日系団体の監視や在アルゼンチン日本公使の追放が行われたものの、万単位で日系人が居住する国としては唯一大規模な弾圧が行われなかった。

メキシコ
メキシコは、ブラジルと同じく日系メキシコ人及び日本人移民人数が比較的多いこともあり、ブラジルと同じくアメリカに強制連行させるような要求こそなかったものの、その多くが「日本海軍船艇との連絡をさせないこと」を目的に太平洋沿岸から離れた2ヵ所の強制収容所に収容され、その資産は没収、または凍結されることとなった。

カナダ
詳細は「en:Japanese-Canadian internment」を参照

ブリティッシュコロンビア州内陸部に設けられた強制収容所
カナダにおいても、日系カナダ人に対する財産没収や強制収容が行われた。

日加間の開戦後すぐに日系カナダ人と在加日本人の財産は没収され、さらに1942年初頭にバンクーバー島の軍施設が日本海軍の艦艇に攻撃されたことや、その後もカナダの太平洋沿岸部で多くの連合軍の船艇が日本軍の潜水艦に撃沈されたこともあり、ブリティッシュコロンビア州の内陸部にあるタシュミ強制収容所に移された後、ベイ・ファームスとレモン・クリークにある強制収容所への移動を余儀なくされた。

なおこれらの強制収容所に抑留された日系カナダ人は、終戦後4年が経過した1949年まで沿岸部160キロ以内に移動することが許されなかった。

「日系カナダ人#抑留」も参照
オーストラリアおよび周辺諸国
オーストラリアにおいても、日系オーストラリア人及び日本人移民と、ニュージーランドやフィジーなど周辺のイギリス連邦諸国及びその植民地や、同盟国のオランダ領東インド諸島などに在住していた日本人移民と日系人に対する強制収容所への収容が行われ、全体で約4,000人が強制収容された[59]。なお戦後そのほとんどが日本に強制的に送還させられた。

強制収容を扱った作品
1946年、解説入り画集『市民13660号 ― 日系女性画家による戦時強制収容所の記録』(前山隆訳、御茶の水書房、1984年)。画家ミネ・オオクボがタンフォラン仮収容所・トパーズ戦争移住センターで描いた画を編纂したもの。
1956年、小説『ノー・ノー・ボーイ』 - 収容体験を持つ日系人作家ジョン・オカダによる小説。シアトルに住むイチローが家族と共に収容され、忠誠心調査での最後の2問で「ノー」と応える。戦後の太平洋岸北西部の様子が描かれている[60]。
1971年、自伝的小説『強制収容所 トパーズへの旅 ― 日系少女ユキの物語』- ヨシコ・ウチダ著(柴田寛二訳、評論社、1983年)。
1973年、ジーン・ワカツキ・ヒューストン(英語版)と夫のジェームズ・ヒューストン(英語版)が共著で回想記『マンザナールよさらば』を出版した。1976年、ジョン・コーティ(英語版)監督はこれをもとに、同名のTV番組を制作し、米三大ネットワークのNBCで放送された。
1976年、児童文学作品『わすれないよ いつまでも ― 日系アメリカ人少女の物語』- ヨシコ・ウチダ著(ジョアナ・ヤードリー (イラスト)、浜崎絵梨訳、晶文社、2013年)。
1976年、詩集『収容所ノート ― ミツエ・ヤマダ作品集』- ミツエ・ヤマダ著(石幡直樹、森正樹共訳、松柏社、2004年)。
1980年、漫画『がんがらがん』 - 長谷川法世原作の青年漫画。当時の日系アメリカ人への迫害の様子や、収容所内での暮らしぶりなどを描いている。
1982年、自伝的小説『荒野に追われた人々 ― 戦時下日系米人家族の記録』- ヨシコ・ウチダ著(波多野和夫訳、岩波書店、1985年)。
1984年、ドラマ『山河燃ゆ』 - 日系人強制収容をテーマにした山崎豊子の「二つの祖国」を基にしたNHK大河ドラマ。
1987年、小説『写真花嫁』- ヨシコ・ウチダ著(中山庸子訳、學藝書林、1990年)。後半はトパーズ戦争移住センターを舞台とする。1943年4月、見張りの米兵に銃殺された63歳の日系一世の男性ジェイムズ・ハツキ・ワカサの話を織り込んでいる。
1988年、詩集『砂漠行』- 上記『収容所ノート ― ミツエ・ヤマダ作品集』所収。
1990年、映画『愛と哀しみの旅路』 - アラン・パーカー作、監督。日系アメリカ人女性と駆け落ちするアメリカ人男性の物語[61]。
1994年の小説、1999年の映画『ヒマラヤ杉に降る雪』 - マンザナー強制収容所でのイマダ家の様子が描かれている[62][63]。
1997年、ジョージ・カーリンのネタ - 個人の権利や、アメリカ合衆国の政治への批判のネタの中で、日系アメリカ人が収容所に送られたことを語った[64]。
1998年、マイケル・O.タンネル, ジョージ・W.チルコート 著, 竹下千花子 訳『トパーズの日記 : 日系アメリカ人強制収容所の子どもたち』金の星社, ISBN 4-323-06072-6
2000年、写真集『約束の大地/アメリカ』新正卓 みすず書房。
2002年、小説『天皇が神だったころ(英語版)』 - ジュリー・オオツカ著。名もなき日本人一家がユタ州にあるトパーズ戦争移住センターに収容される。オーツカ一家の経験に基づいて描かれている[65]。
2005年、曲『ケンジ』 - フォート・マイナーのアルバム『The Rising Tied 』に収録されている。マイク・シノダの祖父のキャンプでの経験について描かれている。
2006年、小説『草花とよばれた少女』- シンシア・カドハタ著。ポストン戦争強制収容センターを舞台とする小説。
2007年、映画『アメリカンパスタイム 俺たちの星条旗』 - デズモンド・ナカノ監督。ユタ州のトパーズ戦争移住センターを舞台とする映画。
2008年、『親愛なるブリードさま : 強制収容された日系二世とアメリカ人図書館司書の物語』柏書房 - 収容された日系人の子どもに本を送り続けて励ました司書クララ・ブリード(英語版)。ISBN 978-4-7601-3388-8
2009年、小説『あの日、パナマホテルで(英語版)』 - ジェイミー・フォード(英語版)』著。シアトルにて、中国人少年が日本人少女と共にオスカー・ホルデンのジャズのレコードを買う。少女がそのレコードを持ったまま、一家は強制収容所に送られてしまう。大人になった少年はそのレコードを探す[66]。
2010年、ドラマ『99年の愛〜JAPANESE AMERICANS〜』 - TBSテレビの開局60周年記念として放映されたTVドラマ。当時の日系アメリカ人への迫害の様子や、マンザナー強制収容所内での暮らしぶりなどを描いている。
2011年、曲『Go For Broke 』 - ジェイク・シマブクロのアルバム『アイ・ラヴ・ウクレレ(英語版)』の収録曲。日系アメリカ人で構成された第442連隊戦闘団からインスパイアされた[67]。
2012年、ミュージカル『アリージャンス』 - カリフォルニア州サンディエゴで初演された。主演のジョージ・タケイの収容所での実体験にインスパイアされた[68]。
2013年、小説『Camp Nine 』 - ヴィヴィアン・シファー著。アーカンソー州のローワー戦争移住センター内外を舞台にしている[69]。
2013年12月、ドラマ『Hawaii Five-0』81話『父に捧ぐ』 - 約70年前のホノウリウリ抑留キャンプでのコールド・ケースとなった殺人事件を解決する[70]。
2014年、ドキュメンタリー『The Legacy of Heart Mountain 』 - ワイオミング州のハートマウンテン移住センターでの生活を探る[71]。
2014年、ドキュメンタリー映画『To Be Takei 』 - 数年間強制収容所で過ごした俳優ジョージ・タケイの若い頃を記録する[72][73]。
2014年、フィーチャー映画『Under the Blood Red Sun 』 - 日系アメリカ人監督ティム・サヴェッジが、日系アメリカ人グレアム・ソースベリーのハワイでの13歳の頃の実体験を基にした小説を基に映画化した。サヴェッジの父親は真珠湾攻撃後強制収容されていた[74][75]。
2015年、ドキュメンタリー映画『Relocation, Arkansas 』 - ヴィヴィアン・シファーがアーカンソー州のローワー戦争移住センターおよびジェローム戦争移住センター跡地を訪れる[76]。
2015年、歴史小説『Allegiance 』 - カーミット・ルーズヴェルト著。アメリカ政府や最高裁判所での日系人の強制収容に関する法律上および倫理上の議論やあまり知られていない事実を基にしている。ハーパー・リー賞最終候補となった[77]。
2017年、ドキュメンタリー映画『Resistance at Tule Lake』 - 元被収容者へのインタビューを多く含む、トゥーリーレイク収容所の歴史を描いたドキュメンタリー。
2019年、ドラマ『二つの祖国』 - 日系人強制収容をテーマにした山崎豊子の「二つの祖国」を基にしたドラマ。

帯石観音の法華経の成立時期と奉納時期

2024年08月13日 19時27分36秒 | 帯石観音の金泥法華経八巻
帯石観音の法華経の成立時期と奉納時期

御醍醐天皇の忠臣千種忠顕が写経した法華経八巻はいつ写経され、いつ、帯石観音に奉納されたのであろうか?

「元弘3年 南 3月23日 太平記 後醍醐天皇伯耆船上山に皇居を置く」

と太平記は書くので1333年3月23日に船上山に居を構えたことが分かります。また、

「元弘3年 南 5月22日 太平記 後醍醐天皇伯耆船上山を立ち京師を目指す」

とされますので、この金泥法華経八巻は3月23日から5月22日までのわずか二か月の多忙な中で
書かれたもので南朝勝利を仏に祈ったものと思われます。巻末に「東夷」征伐を祈願しての写経である旨
を記していますので、北朝(武家方)征伐の執念の祈願写経となります。



なぜこのような重要な祈願写経が遠く周防屋代島帯石観音に奉納されたのであろうか?

奉納はだれがいつ行ったのであろうか?

延元元年 南 1月 千種忠顕は建武2年(1335年)11月、足利尊氏が新政から離反すると、建武3年(1336年)1月に新田義貞や北畠顕家らと共にこれを追い、足利勢を九州へ駆逐した
延元元年 南 1月28日 大日本史料 足利氏の党重久篤兼等、千種忠顕の雑掌と日向に戦ふ、明日、又、肝付氏の党と戦ふ、

とあるので、北朝を追って瀬戸内海を下ってきた1336年1月に帯石観音に千種忠顕本人が奉納したと思われます。

運んだのは南朝の忽那氏や村上氏と思われます。
南朝は屋代島の和田を根拠としますので、和田から帯石まで登って行ったものと思われます。

北朝との九州決戦を控え、帯石観音へ祈願奉納したと考えれば理由がわかります。
この時北朝の足利方を護って移送しているのは大内氏となります。

南朝には因島村上の祖とされる村上義弘が従っていたのでしょう。
能島村上の祖とする北畠顕家は下ってはきていません。

ともあれこの法華経八巻は「重要文化財」級ですので保管は厳重にして頂きたいと思います。

帯石観音の金泥法華経八巻

2024年08月13日 19時24分12秒 | 帯石観音の金泥法華経八巻
帯石観音の金泥法華経八巻

帯石観音のHPに下記の書き込みがある。

これは南北朝時代に南朝の 千種忠顕の法華経八巻が「寺寶」として伝わっていることをしるしています。
この法華経を誰が帯石観音に奉納したのか分からない。気になる「法華経」です。

なおこの時は北朝は大内氏であったので屋代島は北朝と南朝のせめぎあいの場となっていたのでしょう。

「千種忠顕、後醍醐天皇を漁船に奉じ隠岐を脱出し伯耆の名和長年を頼り船上山に行在を構える。普門寺家紋は、菊水。                      当地が、南朝方の領地となる。このころ、法華経八巻が奉納されたか。

昭和11年発行 【小松町誌 33 】完

2024年08月12日 13時50分42秒 | 昭和11年発行 【小松町誌】
昭和11年発行 【小松町誌 33】
    
   【 委 員 】

 昭和11年4月1日現在、小松町各委員は左の如し

 【米生産統計調査委員】

  金田 政一     廣田 亀吉     木村 本三

  砂岡 眞一     中元 真澄     是永 一郎

  中原 仲一     益田 喜助     森田 政人

  中島 慶一     

 【学務委員】

  吉田 紋次郎    矢田部 三四    井倉 安次郎

  佃 慶太郎     谷坂 俊郎     

 【少年救護委員】

  谷坂 俊郎

 【方面委員】

  木村 本三     中村 幸太郎    高瀬 太吉

  池田 才助     坂井 竹吉     岡村 儀兵衛

  山中 浄泉     

 【社会教育委員】

  谷坂 俊郎     川村 直吉     龍石 泰誠

  中島 慶一     木村 本三     佐村 友右衛門

  川村 イト     矢田部 ヒデ

 【経済更生計画樹立委員】

  委員長
  矢田部 宗太郎    

  統制部長
  奈良元 壽輔

  委員
  川村 秀雄     星出 武平     中島 慶一     森田 眞作

  池田 才助     吉谷 武三郎    大下 梅太郎    金田 政一

  経済部長
  吉田 紋次郎    

  委員
  荒川 林一     高瀬 太吉     川野 常蔵     蔵本 東一

  是永 一郎     中元 真澄     花田 政一     井川 市五郎

  古崎 雛吉

  経済部長
  久保田 勇治    

  委員
  矢田部 三四    相川 清右衛門    佐村 友右衛門  川村 直吉

  坂井 竹吉     中村 辰三郎     小林 辰一    木村 本三

  岡村 佐八     花田 清七      湯村 才助

  教化社会部長
  谷坂 俊郎     

  委員
  桝谷 豊吉     佐崎 憲治     細田 三太郎    島元 常助

  黒田 弥一     加藤 栄吉     山中 浄泉     龍石 泰也

  廣田 亀吉

 【産業統計調査員】

  小松町男子青年団員


  【 赤 愛 社 員 数 】

  昭和11年1月現在の赤愛社員数は左の如し

  【赤十字社員】
   特別社員 11名   終身社員 233名  正社員 40名   合計284名

  【愛国婦人会】
   特別会員 28名   終身会員 200名  通常会員 136名 合計364名


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    昭和41年4月25日発行  【非買品】

    山口県大島郡小松町
     発行所  小松町役場

    山口県大島郡小松町
     編 者  小澤 白水

    山口県大島郡小松町第97番地1
     印刷人  笹井 運人

    山口県大島郡小松町第97番地1
     印刷所  大島新聞社 印刷部

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【欄外手書き書込】

  昭和11年10月31日 町役場員大岡資治氏ハ奈良元助役ノ命ニ依リ配本セラル。

1940年(開戦前)ハワイに居た大島郡の人達 1

2024年08月10日 21時40分00秒 | 1940年(開戦前)ハワイに居た大島郡の人達
1940年(昭和15年)にハワイに居た山口県人たちの消息を知らせる本がヒロ市で発行されました。翌年に真珠湾攻撃を受けますので、これらの人は家族を含め、ハワイの強制収容所へ送られます。この中で、僧侶、神官、学校の先生、経営者、メディア関係者は日本人を扇動する可能性があるとして、問答無用で今度は本土の強制収容所へ移動させられます。そこでまた思想調査を行った上、振り分けの上、また別の強制収容所へ送られ転々とさせられます。最後まで日本の勝利を確信し、天皇を崇めた、所謂、「No! No! Boy」は最終的にツールレイク収容所に送られ、、最後に「勝組」は日本へ「違法」に送還されました。ハワイを含む米国で生まれた日系人は「アメリカの市民であり市民権」をアメリカの法律は保証しているにも関わらず、米政府は日本人のみ無視し、同じ敵国扱いした、ドイツ人、イタリア人は白人なので適用しませんでした。今も昔もアメリカはダブル スタンダードです。どこまでいっても日本人は白人からすれば「イエローモンキー」で有色人種扱いですから、気を付けなければなりません。昔、ロスアンジェルスの親戚を訪問したこのことを尋ねたら「ビロング ツウ ザ ホワイト」だから問題ないとしていましたが、また、トランプ大統領時代にアジア人蔑視が表面化しました。

下記は苦労した大島郡人です。ハワイ生まれは「市民権」があります。

注)尚、人数が多いので、当面、インデックス程度のUPとします。
  実際は家族構成や経歴が書かれていますが、個人的に必要なら 
  該当ページのコメント欄に必要な人名と理由を書いて送って下さい。
  時間があれば対応します。
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 『布哇日本人発展銘鑑』発刊によせて

   台湾在留内地人の間に「民勅」といふ言葉がある、これは「民間勅任官」といふ意味であって
  長年台湾に住み功労のあった人物に対する敬称だそうである。この言葉が妥当であるかどうかは
  別問題として、仮に布哇在留同胞の間に同じ意味で「民勅」に相当する人物を求めるならば、
  あらゆる分野にわたり、ずいぶん多数に上ることと思う。
   日本人が時の布哇王朝政府の招きに応じ、官約移民として布哇に渡航して以来、既に五十有五
  年の長き歴史を経過して居る。その間日本人の、布哇発展の貢献が如何に偉大なものであったか
  は今更、言うまでのないことである。これを端的に言えば布哇の発達史は同時にこれ布哇日本人
  発展史なのだ。而してこの布哇発達史、布哇日本人発展史の緯となり緤となる在留同胞各界の人物
  こそは所謂「民勅」の敬称に値する功労者と言ってよい。
   畏友布哇商業社主幹大久保源一氏の近業『布哇日本人発展銘鑑』は版を各県別に分ち、まず
  「防長版」を上梓し続いて広島版 熊本版 等布哇に残留多き各県版を続刊される計画と聞いて
  居る。本書は布哇在留各県人各界の代表的人物を広く網羅紹介することを主眼としているが、
  書中収められる、人物はその一人々々が、日本民族海外発展の第一線に立つ平和の戦士であり、
  同時に布哇の今日を築く上に、程度の差こそあれ、それぞれの寄与をなし来つた「民勅」的
  功労者なのだ。この意味に於いて本書は布哇日本人発展の生きたる人的史実の輯録とも言ふ
  を得べく、永く我らの兒孫に傳ふべき好個の記念物たり、且つ文献としての重要なる意義を有
  する出版物と言ふも敢て過言ではあるまい。
   久保氏は新聞人として二十有余年間の経験を有する練達の士である。氏の手によりてこの
  意義ある企画が行はることはまことにその人を得たるものと信じ、本書を廣く紅潮に推薦する
  所以である。

  1940年6月1日       ホノルル市カイムキの寓居にて
                                浅 海 庄 一
                                   【日布時事編集長】


【1940年(開戦前)ハワイに居た大島郡の人達】

1)小林 政一 Kobayashi Masaichi
  明治22年1月5日生
  本籍地 大島郡屋代村中片山
  現住所 ホノルル市北キング街227
  職業  商業
  経歴  明治41年広島県立広島商業学校卒業、大正2年来布、渡布前、三菱合資会社
      若松支店勤務たりしことあり、着布後、精々堂商店、布哇清酒会社に勤め、
      1919年小林呉服店を開業、傍ら1926年キースター式布哇洋裁専門学校を経営
      業務発展して今日に至る。尚、氏は山口県人同志会理事、ホノルル日本人商業
      組合理事、山口県大島郡人会理事長歴任、キースター式布哇洋裁専門学校主事。


2)中司 キチ 「Nakatukasa Kichi」
  明治26年3月10日生
  本籍地 大島郡安家下庄町
  現住所 カウワイ島ケカハ
  職業  長男 機関師
  経歴  大正12年10月15日来布。カウアイ島ケカハ耕地就労、今日に至る。長男中司
      丑蔵君は大正12年母と同伴現地に来りてミールの機関師として今日まで勤務す。
      氏は日本生まれである。


3)西岡 利太郎 Nishioka Ritaro
  明治12年4月生
  本籍地 大島郡和田村小泊
  現住所 ハワイ島ヒロ市ホナハワイ街
  家庭  ウメ夫人(明治23年2月生)1909年結婚、長男玄太、次男茂、三男實、四男美人、
      長女サダコ、二女ハルヨ、三女ミキエ、四女テルコ
  経歴  氏は明治32年11月布哇島カイヴィキに上陸、1936年妻並びに子供三人同伴帰国し
      約一ケ年滞在の後、現住所のポナハワイに来る。妻ウメさんは1907年4月14日
      アメリカ丸にてホ府上陸。長男玄太、三男實君は日本に在り。長女サダコさんは
      1934年山口県大島郡森野村出身、末岡清氏と結婚、現在ブーエオに在住。
      

4)三浦 治平 Miura Jihei
  明治30年8月7日生
  本籍地 大島郡久賀町字古町
  現住所 カウワイ島カパア町
  家庭  1935年1月15日結婚、夫人ウメ子(明治42年1月5日生)長男正、次男勝
  経歴  氏は明治42年10月30日来布。最初カウアイ島カパア町に上陸、父の経営せるカパア
      三浦商会に働き1927年に店主となり1921年倉庫土地家屋を購入し1929年住宅地を求め
      尚、20エーカーの耕地を買収し年とともに繁栄、カウアイ島屈指の大商店として一般に知らる。
  趣味  海遊び


5)本城 繁蔵 Honjyo Shigezo
  明治27年10月3日生
  本籍地 大島郡安下庄町
  出生地 ハワイ島パパケオ 【日系市民】
  現住所 カワイ島ハナペペ町
  職業  土木建築請負業
  家庭  1918年8月31日結婚 夫人キク(明治34年11月8日生)長男繁、次男岩夫、三男孝、
      長女ハル子、二女ヨシ子
  経歴  氏は3才の時、父母に連れられてカウアイ島ハナパペに来りて同地の日本語学校及び
      公立校に学び当時15才にして卒業。その後、マクブライド耕地会社に勤めること1年
      次に同島、カパアヘ移傳請負業に従事すること20ケ年の後、現地に移住、立派な自宅を
      建てて居り屈指の成功者である。氏は社会公共事業に多大な貢献をなし、カウアイ市民協会
      副理事長、ハナパペ市民協会会長、日本人会監査等を歴任、現在カウアイ島日本人会
      副理事長たり。
  趣味  花作、魚釣り


6)中川 平次郎  Nakagawa Heijiro
  明治15年11月2日生
  本籍地 大島郡森野村
  現住所 ハワイ島ヒロ市キラウエア街アアラレーン
  家庭  夫人ハル(明治24年2月24日生)大正2年6月結婚、
      長男武男、次男和彦、長女フサエ
  経歴  明治40年ガワイ島ハカラウ耕地に上陸、二ケ年勤務の後、パパイコウに傳耕、同耕地
      に三ケ年勤務の後、更にヒロに出て建築請負に従事今日に至る。氏は大正2年10月帰国
      し、大正4年再渡航し、更に昭和2年3月帰国、同年8月来布す。妻ハル子さんは大正4年
      来布せし者にて大島郡森野村、中山與作氏の次女なり。長男長女はヒロハイ校出身、
      次男和彦君はヒロジュニアハイ校通学中。
  


7)池田 傳治郎 Ikeda Denjiro
 明治3年6月9日生
  本籍地 大島郡沖浦村戸田
  現住所 カワイ島ワイポウリ
  家庭  明治38年2月結婚、夫人ウサ(明治10年11月16日生)長男謙一、次男誉志男、長女サカヱ
      次女ミサヲ、三女ヒナコ、四女ハナコ
  経歴  氏は明治25年1月山城丸にて渡航され最初ハワイ島ヒロ、オノメア耕地に在住三ケ年就労後
      カウに赴き六ケ年働き更に現地カウアイ島ソイボリに移転、間もなく大工職となり同地に
      務めること26年今日に及ぶ。三女ヒナコさんはヒロ明照に寄宿しヒロ、ハイスクールに通い
      卒業後父母の許に帰りて同地の医師、秦忠雄氏経営の病院に2ケ年助手として務め、後
      アメリカに赴きパシフック・ユニオン・カレッジに通学、1940年5月卒業、次いで
      グレンデル・ニテルヤムに勤務さる由、同女史の将来が期待される。尚、池田氏はカウアイ
      島カパア浄土院副団長を務めらる。
  趣味  読書



8)西村 金右衛門 Nishimura Kinuemon
  明治14年8月1日生
  本籍地 大島郡安下庄町
  現住所 カワイ島ハナペペ町
  家庭  明治40年結婚、夫人ツネ(明治15年10月10日生)
      長男博、次男四郎、長女アヤ子
  経歴  明治32年2月8日、米国船キールン丸にて渡航、マウイ島プウネネに一週間就労の後
      同地クラアシュバーに来りて事業経営六ケ年、更にハワイ島ヒロ市に転じ在住する
      事一ケ年、其の後カウアイ島に渡りて漁業を始め、郷里山口より妻ツネさんを呼び
      寄せ共に働き、同1920年魚仲買を始む。1930年11月同店の建築に掛かり同31年2月
      初旬、生魚兼野菜店開業経営現時に及ぶ。カウアイ日本人会社会部長。
  趣味  仕事


9)藤本 栄治  Fujimoto Eiji
 明治21年5月13日生
 本籍地 大島郡蒲野村東三蒲1723-2
 現住所 ハワイ島ヒロ市 PO.Box211
 家庭  23年前結婚 夫人 ユキヨ(明治30年5月14日生)
     長男 晃、長女 千恵子、二女 笑子、三女 英子
 経歴  明治40年1月モンゴリア号に来布。氏は20年間ホノルル在住中、旭商会及び
     住田商会に勤務、而して今より11年前来廣、令兄経営の藤本貿易商会支配人
     として活躍。仝商会が布哇島邦人屈指の卸商として隆々今日の繁栄を見るに
     至るもの之氏の敏腕に待つところ多大なる云うまでもない。
 趣味  スポーツ
 


10)橋爪 運平  Hashizume Unpei
   慶応元年3月13日生
   本籍地 大島郡屋代村字屋代
   現住所 カワイ島カパイア
   経歴  氏は明治19年来布。カウアイ島ハナマウイに勤続の功労者である。
       後、カパイヤに移住今日に至る。