山口県周防大島物語

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戦時中米国の日系人の強制収容 2 ウイキ

2024年08月14日 09時31分28秒 | 米国日系人強制収容
施設
強制収容所内には、急ごしらえの粗末な住居や各種工場や農場、病院、商店、学校、教会、劇場などが作られており、これらの施設で働くものには給与が与えられた。また、強制収容所内における移動は自由に行われたが、一部の許可されたもの以外は、強制収容所内の病院で治療することのできない病気や怪我にならない限り外部に出ることはできなかった[18]。

住居
強制収容者の住居にあてがわれた建物は、いずれの強制収容所においても急ごしらえの木造の「バラック」というべき粗末なもので、その後もきちんとした建物に建て替えられることはなかった。また暖房も冷房もなく、さらに砂塵などが部屋の中にも容赦なく吹き込んだ。

また、家具も粗末なものしかあたえられず、トイレの多くはしきりすらなかった。また、このように衛生管理が不十分であったため、集団食中毒や集団下痢などが多発した。

食事
なお、電気や水道こそ外部から供給されていたものの、戦時中で一部の食料の配給制限が行われているということもあって、日系人の好みに合う食料の調達が難しかった。このことから、食料などは基本的には自給自足でまかなう事が求められており、強制収容所内における食生活(全ての食事は食堂で行われた)の多くは強制収容所内の農場で獲れた作物があてられていた。特に、アメリカで生産された米の4割が、戦時転住局に買い上げられた年もあった程だった。

その多くが農民であった一世は野菜作りを得意としており、野菜以外にも養豚や養鶏、豆腐や醤油の製造、漬物作りも行っていたほか、日本酒やワイン、ビールの密造なども盛んだったという[19]。

リクリエーション
また、強制収容者へのリクリエーションとして相撲、剣道、野球やバスケットボールなどのスポーツが行われた他、「アメリカ化」への思想教育の一環としてボーイスカウトが組織された。

ボーイスカウトの日系アメリカ人の団員は、当然のことながらアメリカ国家に対する忠誠を宣誓し、常にアメリカ国旗を掲げているにもかかわらず、「普通のアメリカ人」として扱われず、逃亡防止のために銃を向けられた強制収容所から出ることができないという異常な状況下での活動を強いられていた。

情報伝達手段
強制収容所内ではラジオの所持は許可されたものの、戦前よりロサンゼルスなどの日系人が多く住む地で発行されていた「羅府新報」などの日本語新聞の発行は許されず、わずかに強制収容所内の情報のみが英語で書かれ、収容所の管理者に事前に検閲を受けた情報誌の発行が許されただけであった。

このように強制収容所内の情報を外部に発信することがほとんどできなかったため、強制収容以前に自ら移転先を確保して立ち退いた日系人の間では「収容所では遊んで暮らせる」との誤解も広まった。当時のアメリカ国内における日系人への迫害の影響から、自ら移転したものの移転先で生計を立てることがままならない者は少なくなかったため、一部には自ら希望して収容所入りするものも現れた[20]。

日系人部隊編成への動き

強制収容所に収監される母親を手伝う日系人兵士(1942年5月11日)
このように、アメリカ政府により日系人に対し酷い人種差別が行われていったものの、アメリカへの愛国心、忠誠心に突き動かされた日系人によって、収容者や非収容を問わずアメリカ軍内に日系人部隊を組織するような動きが活発化した。なお、非収容者による日系人のアメリカ軍人は戦争前から存在した。

1942年2月23日 全員日系二世からなる大学勝利奉仕団が、ハワイ準州で第34戦闘工兵連隊のもとに編成される。6月にはハワイ在住の日系人による陸軍第100歩兵大隊が編成された。11月24日にはマイク正岡らの主導で陸軍省に日系人部隊を組織するよう建白書を提出、翌年1月28日に請願が許可された。

忠誠心調査と分離

合衆国旗への「忠誠の誓い」をする子供たち(1942年4月)
このような動きがあったものの、1943年初頭に戦時転居当局は、アメリカに対し忠誠心を持った収容者を西海岸から離れた地での住居と仕事を供給する事を目的に、17歳以上の日系アメリカ人収容者に対し「出所許可申請書」と題された忠誠心の調査が行われ[21]、特に

質問27:貴方は命令を受けたら、如何なる地域であれ合衆国軍隊の戦闘任務に服しますか?
質問28:貴方は合衆国に忠誠を誓い、国内外における如何なる攻撃に対しても合衆国を忠実に守り、且つ日本国天皇、外国政府・団体への忠節・従順を誓って否定しますか?
の2つの質問が、忠誠登録の核となった[22]。

しかし、質問27と28は収容所内に混乱を招いた。女性と老人は質問27に困惑し、日本生まれで日本国籍を持つ一世は質問28へ「Yes」と答える事によって無国籍になる事を恐れ[21]、両方の質問に「No-No」と答えざるを得なかった[22]。

結果、両方の質問に「Yes」と答えたのは調査対象者の84%となった。両方の質問に「No」と答えた「No-No」は不忠誠と見なされツール・レイク収容所に送られた。「No-No」の中にも天皇崇拝者、強制収容に対する怒りから質問に回答した者、日本が戦争に勝つと信じていた者、様々だった。家族で違った回答をしてばらばらになるのを恐れた一世の親に説得された二世もいたという[23]。ちなみに、少数ながら「No-Yes」と答えた者もいたが、その場合も「No-No」と同じ扱いを受けることとなった[24]。

1943年2月19日には、ツール・レイク収容所で忠誠登録を強制されたことに反感を持つ17〜8歳の35名の二世が、「徴兵局に登録する意思は全く無い。しかし、日本への送還には何時でも署名する。」との抗議文を手渡す為に、管理局までデモ行進を行う、という事件が起きた。これに対し、管理局側は見せしめとして35名を検挙すべく、収容所の近くに駐屯していた陸軍の一個中隊を派遣することを決め、デモから2日後の2月21日夜に一斉検挙に踏み切った。このこともあってか、ツール・レイク収容所では3000名の二世が、忠誠登録の質問27と28を「No-No」若しくは無回答とした。徴兵に応じたのは僅か59名で、息子が徴兵に応じた家族は、他の収容者から邪険に扱われ、食堂内に「イヌの席」と書いた札を立て、その席で食事をすることを強要された[22]。

アメリカ政府が忠誠登録を行ったのには、兵役選考だけではなく、1942年から1946年の5年間で1億9000万ドルにも及んだ戦時転住居の予算を軽減することや、戦時下において、工場や農場では労働力が極度に不足しており、それらを補わせるべく、抑留者の社会復帰を促すことにもあった。いわゆる「危険人物」を野放しにすることは出来ない為、忠誠審査において「Yes」と答えた者だけを仮出所させ、出所した二世たちは中西部ならびに東部の大学に編入学したほか、労働力不足に悩む工場や農場での職を得た[19][22]。

1944年7月1日に希望した収容者にアメリカ国籍の放棄の権利を与える「Public Law 405」がフランクリン・D・ルーズベルト大統領の署名により成立すると、5589人の日系アメリカ人がアメリカ国籍を放棄し、その内1327人は終戦後に日本に送還された。多くの者は強制収容に対する怒りや抗議の意味で国籍を放棄したが、終戦後司法省が国外追放の用意を始めると事の重大さに気付いた[25]。

アメリカ国籍を放棄した5589人の内、多くのすでに送還された者もふくむ5409人が戦後にアメリカ国籍の回復を願い出た。ウェイン・コリンズ弁護士の尽力により極限的状況においてなされた多くの国籍放棄は無効だと証明され国籍の回復を果たした。1971年にはリチャード・ニクソン大統領によりすべての国籍放棄は無効化された[25]。

しかしアメリカ政府により赦されたあとも「No-No」と答えたものや国籍を放棄した者は日系アメリカ人の多くから冷たい目で見られ、一部の「No-No」は自分の過去を恥じ、家族に隠している事もあるという[25]。

暴動
僻地にある粗末な強制収容所に収容され、行動や表現の自由だけでなく、仕事も社会的地位も奪われた日系人の不満は鬱積し、強制収容所内ではハンガーストライキや暴動が多発した上、盗難や殺人などの犯罪も数多く起きた。また、強制収容所での生活に嫌気がさし、脱出しようとし射殺されてしまった者もいた。

著名な収容者
フレッド・コレマツ - コレマツ対アメリカ合衆国事件の原告
ミノル・ヤスイ
ゴードン・ヒラバヤシ(社会学者。戦後、アメリカ連邦政府を相手取り、日系人収容違憲裁判に勝訴。アメリカ・カナダの日系人補償に先駆的役割を果たした)
ノーマン・ミネタ ‐ アメリカ合衆国運輸長官
マイク・ホンダ - アメリカ合衆国下院議員
ジョージ・タケイ(『宇宙大作戦 (Star Trek) 』シリーズなどで有名な日系アメリカ人俳優。少年時代であった戦時中をツール・レイク収容所で過ごした)
ケン・エトウ(モンタナ・ジョー)(シカゴ・アウトフィットに属したギャングスター。トーキョー・ジョー(Tokyo Joe)とも呼ばれた)
イサム・ノグチ(日系芸術家)
ジョージ・ナカシマ
シンキチ・タジリ
ジミー佐古田 - ロサンゼルス市警刑事
パット・モリタ
ジミー・ツトム・ミリキタニ(ツール・レイク収容所で3年半を過ごした日系アメリカ人画家。ドキュメンタリー映画『ミリキタニの猫(The Cats of Mirikitani)』〈2006年、アメリカ映画〉には当時を振り返るシーンが多数出てくる)
フランク安田(アラスカでジャパニーズモーゼと呼ばれ、ビーバー村をつくった日系一世。アラスカからアメリカ本土にかけて4ヶ所の収容所に4年間過ごした)
サダオ・ムネモリ
高野虎市 - 喜劇王チャールズ・チャップリンの秘書。
国府田敬三郎
原田重吉
宮武東洋(写真家。収容所内での日系人たちの様子を写真で収めた)
小圃千浦(画家・カリフォルニア大学バークレー校教授、日系人収容所内で美術学校の設立者。瑞宝章受賞者)
石元泰博(写真家。1969年日本に帰化。1996年文化功労者に選ばれた)
山本紅浦(画家・ニューヨーク・マンハッタンのソーホー地区にある紅浦墨絵学校の設立者。ニューヨークで墨絵を教える第一人者)
山川浦路
ユリ・コウチヤマ (活動家。マルコムX支援者[26])
リチャード・アオキ(英語版)(ブラックパンサー党元メンバー、活動家)
ヒサエ・ヤマモト(作家)
ヨシコ・ウチダ(作家。「強制収容を扱った作品」参照)
トシオ・モリ(作家)
ワカコ・ヤマウチ(劇作家)
ミネ・オオクボ(画家、イラストレーター。「強制収容を扱った作品」参照)
ミツエ・ヤマダ(詩人。「強制収容を扱った作品」参照)
ジョン・オカダ(作家。「強制収容を扱った作品」参照)
甲斐美和 (ピアニスト、司書)
ジェームズ・シモウラ(ミシガン州弁護士)[27]
城戸三郎(カリフォルニア州弁護士、第二次世界大戦下の日系アメリカ人市民同盟会長)
被害
財産放棄

「閉店セール」を行う日系人経営の商店
上記のように、準備期間すら満足に与えられなかった上、わずかな手荷物だけしか手にすることを許されず、着の身着のままで強制収容所に収容された日系アメリカ人及び日本人移民は、強制収容時に家や会社、土地や車などの資産を安値で買い叩かれただけではなく、中にはそのまま放棄せざるを得なかった者も沢山いた。

しかもその後長年に亘り強制収容時に手放した財産や社会的地位に対する何の補償も得られず、その結果全ての財産をこの強制収容によって失ってしまった人もいた。

なお、大統領行政令9066号の発令に伴うこのような措置に対してフランシス・ビドル(en)司法長官は「西海岸の反日感情に迎合し日系人の所有する農地を手に入れようとする利益誘導が絡んでいる」[6] と強く批判している。

ミシガン州の弁護士で日系アメリカ人3世のジェームズ・シモウラ(James Shimoura)は、家族や親族が日系人強制収容所に入れられ、農地・自宅・財産を全て奪われたと述べている[27]。シモウラはビンセント・チン事件当時、アジア系コミュニティを支えた1人でもある[27]。シモウラ家は祖父の仕事の関係で1914年に徳島からミシガンへ渡米し、母方の親戚はサンフランシスコ・ベイエリアで農業に従事していた[27]。

財産保全
なお、強制収容の開始に際しアメリカ政府は、「申し出があった場合に限り、収容される日系アメリカ人及び日本人移民の財産の保全を政府管理の下で行う」旨の通告を行ったが、申し出を行う時間的余裕さえ十分に与えられていなかった上に、強制収容という差別的かつ過酷な仕打ちを行うアメリカ政府を信用して財産保全の申し出を行うものは殆どいなかった。また、もし申し出た場合でもそれらは実際には記録されず、さらには地元政府によって保全の申し出自体が否定されるケースも相次いだ。

また、政府に対する財産保全の申し出を行わなかったものの、国府田敬三郎や原田重吉のほか、子供・孫が非日系人と婚約・結婚していた人物など、日系人以外の知人に、強制収容所に収容されている間に資産を管理・保全してもらうことに成功した者もいたが、当時の反日的な風潮から、そのような措置に成功したのは、ほんの僅かであった。

アメリカ国内における批判

日系人の強制収容を報じる新聞
日系人の強制収容が開始された当時は、黄色人種に対する人種差別が激しかっただけでなく、上記のように日本軍によるアメリカ西海岸への本土上陸が危惧されたうえに、その後もアメリカ本土への攻撃や空襲が行われ、さらにアメリカ軍の敗退が続いたためにアメリカ国内で表立って批判する政界や法曹界、報道の者は少なかった。

また、このような状況下においても「なぜ白人のドイツ系やイタリア系は強制収容せず、なぜ黄色人種の日系人だけか」という疑問を唱えるものすら殆どいなかった。さらに、日本軍が各地で連合国に対し劣勢になり、日本軍によるアメリカ本土への攻撃の可能性が少なくなった1944年以降も、ルーズベルト大統領以下のアメリカ政府と軍内部からは、日系人の強制収容を止めるべきという意見は殆ど出てこなかった。

しかし、強制収容そのものや、強制収容のやり方などについて批判する者も、中央政府や4州やそれ以外の州の上層部、法曹界に少数ながら存在した。

ジョン・エドガー・フーヴァー
当時FBI長官だったジョン・エドガー・フーヴァーはFBI捜査官に有色人種をほとんど起用しないなど人種差別的な人物だったが、日系人の強制収容に対しては「スパイと思しき者たちは真珠湾攻撃の直後にFBIが既に拘束している」として反対していた[28]。

カー・コロラド州知事

ラルフ・ローレンス・カーの銅像
そのような状況下で、アマチ収容所が置かれたコロラド州知事のラルフ・ローレンス・カーは、日系アメリカ人および日本人移民に対する内陸部への強制移住こそ賛成したものの、強制収容に対しては「非人道的でありアメリカ憲法違反である」として州知事クラスの政治家として唯一反対の意思を表明した。

さらに日系アメリカ人や日本人移民がアマチ収容所に到着した際に地元の反対派が抗議に現れたが、飛行機で現地に飛んで暴力的な行動を止め、日系アメリカ人を受け入れるよう呼びかけた。

しかし、このような戦時中における日系アメリカ人の基本的権利を保護するという勇気と良識のある言動が、アメリカ合衆国上院議員という将来展望も含めたカーの政治生命を絶ったと見られている。実際、カーはこれらの発言を行った同年に行われた1942年の上院議員選挙で、現職の民主党のエドウィン・ジョンソンにわずか4000票という僅差で敗北している。

ライシャワー博士
日本生まれのハーバード大学の東アジア研究学の講師で、開戦直前まで国務省で嘱託職員として勤務していた後の駐日アメリカ大使のエドウィン・O・ライシャワー博士は、1942年3月30日のマサチューセッツ州の「ボストン・グローブ」紙で、日系アメリカ人の祖国 (アメリカ) に対する忠誠心を指摘し、日系アメリカ人に対する強制収容政策を批判した[29]。

ビドル司法長官
また、「敵性外国人」である日系アメリカ人の家を令状なしに捜査する権限を与えたものの、上記のようにその後の行き過ぎた状況を憂慮していたビドル司法長官は、権限を与えてからちょうど2年後の1943年12月30日に、「善良なアメリカ市民を、その人種を理由に必要以上に強制収容所に抑留している現在の処置は危険であり、政府の基本方針と矛盾している」と発言している[10]。

ロバート最高裁判事
1944年12月18日には最高裁判事のオーエン・J・ロバートも、当時アメリカ政府が日系人および日本人が「強制収容」されている「強制収容所」のことを「Relocation Centers(転住センター)」と言い換えていたことに対して、「『転住センター』という表現は単なる『強制収容所』の言い換えにすぎない」と、批判した[10]。

強制収容の終焉
帰還命令

閉鎖されるアマチ強制収容所
1945年8月15日に日本がアメリカを含む連合国に対して降伏し、翌月の9月2日に連合国への降伏文書に署名したことで、日本とアメリカの間の戦闘状態が終結した。なお、日系人の強制収容を推し進めたルーズベルト大統領は、日米間の終戦の4か月強前の4月12日に死去していた。

戦闘終結に伴い、西海岸及びハワイに居住する日系アメリカ人及び日本人移民に対する強制収容の必要性がなくなったことにより、全ての強制収容所はこの年の10月から11月にかけて次々と閉鎖され、すべての強制収容者は着のみ着のままで元々住んでいた家に戻るように命令された。

「二級市民」扱い
しかし上記のように仕事や家、その他の財産のほとんどを放棄させられ長年に亘って強制収容された、西海岸4州及びハワイに居住する日系人及び日本人移民が、元通りの社会的立場に社会復帰することは容易ではなかった。

その後も、アメリカに住む日系人は、アメリカ国民であるにもかかわらず、旧敵国である日本にルーツを持つということだけを根拠に1952年6月に行われたマッカラン・ウォルター移民帰化法の施行までの長きの間、母国であるアメリカの市民権さえも剥奪された(なおドイツ系アメリカ人やイタリア系アメリカ人はこのような仕打ちを受けることはなかった)。

その上に、日本との戦争によって、今までにも増して酷い人種差別にさらされることとなった日系アメリカ人及び日本人移民の多くは、その後長い間「二級市民(英語版)」としての立場に耐え忍ぶことを余儀なくされ、その結果、多くの日本人移民が、生まれ故郷の日本に戻ることとなった。


戦時中米国の日系人強制収容 3  ウイキ

2024年08月14日 09時31分01秒 | 米国日系人強制収容
アメリカ政府による謝罪と賠償
日系アメリカ人
1948年7月2日に、日系人の強制収容に対する、連邦政府による補償策としては、最初のものとなる「日系人退去補償請求法(英語版)」が、ハリー・S・トルーマン大統領によって署名された。しかし、国家補償の対象となる日系人の損害・喪失は、文書によって証明できる不動産・私有財産に限られ、精神的苦痛や教育・職業によって見込まれた、逸失利益に対する補償は否定された。また、1件当たりの補償額の上限は2,500ドル、請求権の時効期間も1年半と定められた。

1948年法に基づいた請求は、時効を迎えるまでに22,945件提出され、その4割は限度額である2,500ドルを越えたものだった。しかし、立証責任が請求者に課せられた事から、手続きに時間がかかり、1950年末までに処理された請求は、僅か137件に止まった。それ以降も、1951年の修正法では、補償額を請求額の75%または限度額より少ない額とする事とされた。更に1956年の再修正法では、示談により総額10万ドル以内で補償額を決定する事が基本となり、請求者が不服を申し立てた場合は、連邦請求裁判所(英語版)において裁決が行われる事とされた。

同法に基づいた補償処理は、1965年に終了したものの、補償総額は請求総額の約25%、日系人の損害総額の10%未満に過ぎなかった[30]。

そうした中で、1950年代半ば頃からアフリカ系住民による公民権運動が展開された結果として、1964年に公民権法、翌1965年には投票権法が、各々制定される事となった。こうした動きに触発された日系人達により、1948年法では考慮されなかった、無形の損害や日系人の自由及び尊厳の回復を求めた、所謂「リドレス運動」が、1970年より展開される事となった[31]。

1976年2月19日にジェラルド・R・フォード大統領は、「大統領令9066号」の正式な終了を確認する布告「アメリカの誓い」に署名し、「我々は、当時から理解するべきだった事を、今日知った。日系人の強制収容は、誤りだっただけではなく、彼らは当時も今も、忠実なアメリカ人である」と述べた[32][33]。

また、当初は強制収容政策の実施を支持したものの、その後批判に転じたビドル司法長官は、戦後発刊された自書の中で自己批判を行っている。他にも、かつて収容を支持していたカリフォルニア州のウォーレン検事総長も、後に自伝の中で、「誤っており(wrong)」「深く後悔している(deeply regretted)」と述べその過ちを認めている[34][35]。

1979年に日系アメリカ人市民同盟は、強制収容所の実態を調査する為の連邦委員会の設置を提案した。これを受けた、民主党のダニエル・イノウエ上院議員とジム・ライト(英語版)下院議員によって、

「大統領令9066号」に関する事実と、その影響に関する調査
軍による指令の検証
適切な救済策の提示
を目的とした、「戦時における民間人の転住・抑留に関する委員会(英語版)」(CWRIC)の設置を要求する法案が、連邦議会に提出された。同法案は1980年7月31日に、ジミー・カーター大統領によって署名された。その後、1981年7月から12月にかけて、公聴会が開かれた。ワシントンD.C.・ロサンゼルス・サンフランシスコ・シアトル・アンカレッジ・ウナラスカ・シカゴ・ワシントンD.C.(2度目)・ニューヨーク・ボストンの順で実施された会では、計20日間に亘って、750名の関係者が証言する事となった[36][37][38][39]。

1982年12月にCWRICは、『拒否された個人の正義(Personal Justice Denied)』と題した、467ページにも及ぶ報告書を、連邦議会に提出した。翌1983年2月24日に、同報告書の内容は公表され、そのうえで「日系人の強制収容は、軍事的な必要性ではなく、人種差別・戦時中の集団ヒステリー・政権の失策に基づいた、不当なものだった」と結論付けられた。また、1983年6月22日にCWRICは、存命している元収容者約6万人に対し、1人当たり2万ドルの賠償金を支払う事を、連邦議会に対して勧告した[33][38][40][41]。


「市民の自由法」に署名するレーガン大統領と、その様子を見守る(左から)スパーク・マツナガ上院議員、ノーマン・ミネタ下院議員、パット・サイキ下院議員、ピート・ウィルソン上院議員、ドン・ヤング下院議員、ボブ・マツイ下院議員、ビル・ローリー(英語版)下院議員、ハリー・カジハラJACL会長。
1988年8月10日に、ロナルド・レーガン大統領は「市民の自由法(英語版)」(別称: 日系アメリカ人補償法)に署名。「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と、憲法で保障された権利を侵害した事に対して、連邦議会は国を代表して謝罪する」として、強制収容を経験した日系人に対して、公式に謝罪を表明した。また、1人当たり2万ドルの賠償金が、存命者にのみ支払われる事と、全米の学校において日系人の強制収容に関する教育を行う為の、総額12億5千万ドルの教育基金が設立される事も、同時に発表された[37][38][42][43]。

なおレーガン大統領は、第442連隊戦闘団(強制収容所の被収容者を含む日系アメリカ人のみによって構成された部隊 ヨーロッパ戦線で大戦時のアメリカ陸軍部隊として最高の殊勲を上げ、ダッハウの強制収容所付属のフルラッハ衛星収容所解放も行った[44])に対しては、「諸君はファシズムと人種差別という二つの敵と闘い、その両方に堂々と勝利した」と特に言及し讃えている。

1992年には再びジョージ・H・W・ブッシュ大統領が国を代表して謝罪すると同時に、全ての現存者に2万ドルの賠償金が行き渡るように4億ドルの追加割り当て法に署名し成立させた。1999年に賠償金の最後の支払いが行なわれ、11年間に総額16億ドルが82,210人の収容された日系アメリカ人、もしくはその子孫に支払われ賠償を終えた[45]。


フレッド・コレマツ
1942年に日系アメリカ人であるフレッド・コレマツが「日系アメリカ人の強制収容は違憲」と主張し提訴したが、最終的には1944年に違憲ではないとの判断が下った。この判決自体は現在でも覆ってはいないが、2011年にはアメリカ合衆国司法省が公式的に過ちだったことを認めた[46]。なお、1998年にコレマツは、アメリカにおける文民向けの最高位の勲章である大統領自由勲章を受章した。ホワイトハウスにおいて執り行われた勲章を授与するための式典において、ビル・クリントン大統領は「我が国の正義を希求する長い歴史の中で、多くの魂のために闘った市民の名が輝いています。プレッシー、ブラウン、パークス…。その栄光の人々の列に、今日、フレッド・コレマツという名が新たに刻まれたのです」と述べた[47]。


元第442連隊戦闘団らの前で議会名誉黄金勲章を授与する法案に署名するオバマ大統領(2010年)
また2012年6月6日にロサンゼルス郡参事会は、1942年に行われた日系人強制収容を行うように求める決議を改めて取り下げ[48]、マーク・リドリー・トーマス郡参事は、「この事実を無視し、無解決事件のように扱うことはできない」、「正しいことをするのに遅すぎることはない」と述べた。


マンザナー強制収容所内に設けられた慰霊碑
2020年2月20日、カリフォルニア州議会で、大統領選挙を控える中、日系人強制収容に対する謝罪の決議が全会一致で採択された。アル・ムラツチ州議会議員が他の議員数名と連名で決議案を提出した。ムラツチ議員は、ドナルド・トランプ政権による不法移民政策に対して日系人が懸念を抱いているという認識を示した。[49] ムラツチ議員は、議員就任以来毎年、2月19日を日系人強制収容所の被害者追悼の日とするよう求める法案を提出している[50]。

2021年2月19日、ジョー・バイデン大統領は強制収容を「アメリカ史で最も恥ずべき歴史のひとつ」と位置づけ非難し、「日系アメリカ人はただ出自のみによって標的とされ、収容された。連邦政府の行いは不道徳で、憲法にも反していた」との認識を示し、正式な謝罪を再表明した[51]。

またバイデン大統領は、大統領令9066号の発令から80年目の『追憶の日』を控える2022年2月18日にも、発表した公式声明において、「アメリカの最も恥ずべき章の一つだ。取り返しのつかない被害を受けた日系人への、連邦政府の公式謝罪を再確認する」「80年前に日系アメリカ人を収監した事は、人種差別や恐怖などの増長を許した時、招く事になる悲劇的な結果を、今日の私達に思い起こさせる」としたうえで、『ベインブリッジ島日系アメリカ人排除記念碑』から引用した「二度とないように」という言葉を日本語で記し、過ちを繰り返さない事を約束すると同時に、国内における人種差別問題に向き合う決意を強調した[52][53]。

ワシントンD.C.には捉えられた鶴を日系人に喩えた「碑」と、経緯を記した「碑文」によって形作られたJapanese American Memorial to Patriotism During World War II(全米日系米国人記念碑)が2001年に完成した。

日系ペルー人
またアメリカ政府は、日系ペルー人に対しては戦争終結後はアメリカから強制退去させたが、ペルー政府による入国拒否により、多くの日系ペルー人が含まれるにもかかわらず900人が日本に送還させられた。それ以外の者はアメリカ国内で仮釈放され、その後アメリカ政府に対して強制退去に対する異議申し立てを行ってアメリカに残留し、1952年にアメリカの市民権を獲得した。

その後、1999年にアメリカのビル・クリントン大統領は、正式にアメリカ国内の強制収容所に収容されていた日系ペルー人に対して謝罪し、原告一人当たり5,000ドルの賠償金と謝罪の手紙を出した。 また、2011年にペルーのアラン・ガルシア大統領は、日系ペルー人が拘束、財産を没収しアメリカの強制収容所に送り込まれた事を会見で正式に謝罪した[54]。

史跡保存
2006年に、アメリカ上下両院はマイク・ホンダ議員等の日系議員が中心になって提案した、カリフォルニア州やアリゾナ州、ユタ州の砂漠の中などに点在する日系人の強制収容所を国立公園局によって「アメリカの歴史にとって重要な史跡」として保存する法案を可決した[55]。

記録
写真家アンセル・アダムスが1943年にマンザナー収容所で日系人の収容所生活の様子などを撮影した写真と随筆集「Born Free and Equal」が、アメリカ議会図書館に収容されている[56]。

他の連合国における強制収容
なお、在留日本人および日系人に対する戦争時の強制収容は他の連合国でも行われたが、直接日本と交戦状態に置かれるか置かれないか、または日本人および日系人の数が多いか少ないか、または日本との間に開戦した時期によってその対応はまちまちであった。

ブラジル
国交断絶

ヴァルガス大統領とルーズベルト大統領(1936年/前列)
親米派で、しかも戦前から日本人学校の閉鎖や全ての日本語新聞の発行停止処分などの、日系ブラジル人及び日本人移民に対する同化政策を進めていたジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス大統領の政権下にあったブラジルは、日英米間の開戦後も中立を保っていた。

しかし1942年1月28日に、アメリカの圧力により日本を含む枢軸諸国と国交断絶させられた。なお、国交こそ断絶したものの、ブラジルによる日本への宣戦布告は長く行われず、1945年6月6日になりようやく宣戦布告した。

各種処分の執行
国交断絶後にブラジル政府や日本人人口が多いサンパウロ州政府は、日本人に対して公共の場所での日本語の会話の禁止や移動の自由の制限、財産処分の禁止、日本人が多く集まる地域からの立ち退きなどを命じたほか、事実無根のスパイ容疑で多くの日本人を逮捕した[57]。なお、日系ブラジル人及び日本人移民人数が多いこともあり、アメリカに強制連行させるような要求こそなかったが、一部の日本人移民は1942年7月に運行された戦時交換船で帰国させられた。

強制収容の執行

ブラジル内陸部で働く日系移民
その後1943年8月には「日本海軍船艇との連絡をさせないこと」を目的に、日本人移民および日系人ブラジル人はサントスなどの全ての大西洋沿岸都市から退去させられた上に、その多くはサンパウロ州の内陸部に設けられた強制収容所に一時的に収容された[58]。このため、サントスに住む多くの日系人が職業を奪われた上に資産の凍結も行われ、自宅などの不動産を二束三文で手放すことを余儀なくされた。彼らはサンパウロ州内陸部の未開拓地に強制的に移住された。

内陸部への強制移住は大戦が終結した間もなく後に解除されたものの、資産の没収、凍結の解除は、日本とブラジル間の国交が回復した後の1950年代まで続けて行なわれ、その際に解除を忘れられたままとなった没収資産の一部は、2000年代に至るまで返還されなかった。

「勝ち組」と「負け組」
なお、戦後のブラジルの日本人移民の間においては、戦時中に日本語新聞の発刊が停止された事による情報の枯渇、教育程度の低さとポルトガル語能力不足などから、日本が戦勝したと信じる「勝ち組」と、日本の敗戦を受け止めた「負け組」との間で争いが勃発し、両者の間の暴動により数十名の死者が出る騒ぎとなり社会問題となった。

後に両国の国交が回復し、特命全権大使がリオ・デ・ジャネイロに再度赴任した後の1950年代初頭に、教育程度の低い地方に多かった「勝ち組」に対して大使自らが説明を行うに至るまで、両者の間の対立が続くこととなった。

ペルー
同じくアメリカの圧力により日本を含む枢軸諸国と1942年に開戦、国交断絶させられたペルーでは、多くの日系ペルー人と日本人移民がアメリカに強制連行され、日系ペルー人に対しては戦争終結後はアメリカから強制退去させたが、ペルー政府による入国拒否により、多くの日系ペルー人が含まれるにもかかわらず900人が日本に送還させられた。

アルゼンチン

ファン・ペロン
大戦勃発後は中立を保ちつつも親ドイツ派の政策を取り続け、1943年6月のクーデターによって絶対中立派政権(事実上の親枢軸政権)が成立したアルゼンチンでは、1945年まで日本を含む枢軸国への宣戦布告は行われなかったことと、当時軍の高官であり、労働長官でその後副大統領となったフアン・ペロン将軍が日系アルゼンチン人を重用したこともあり、日本への宣戦布告後には政府による日系団体の監視や在アルゼンチン日本公使の追放が行われたものの、万単位で日系人が居住する国としては唯一大規模な弾圧が行われなかった。

メキシコ
メキシコは、ブラジルと同じく日系メキシコ人及び日本人移民人数が比較的多いこともあり、ブラジルと同じくアメリカに強制連行させるような要求こそなかったものの、その多くが「日本海軍船艇との連絡をさせないこと」を目的に太平洋沿岸から離れた2ヵ所の強制収容所に収容され、その資産は没収、または凍結されることとなった。

カナダ
詳細は「en:Japanese-Canadian internment」を参照

ブリティッシュコロンビア州内陸部に設けられた強制収容所
カナダにおいても、日系カナダ人に対する財産没収や強制収容が行われた。

日加間の開戦後すぐに日系カナダ人と在加日本人の財産は没収され、さらに1942年初頭にバンクーバー島の軍施設が日本海軍の艦艇に攻撃されたことや、その後もカナダの太平洋沿岸部で多くの連合軍の船艇が日本軍の潜水艦に撃沈されたこともあり、ブリティッシュコロンビア州の内陸部にあるタシュミ強制収容所に移された後、ベイ・ファームスとレモン・クリークにある強制収容所への移動を余儀なくされた。

なおこれらの強制収容所に抑留された日系カナダ人は、終戦後4年が経過した1949年まで沿岸部160キロ以内に移動することが許されなかった。

「日系カナダ人#抑留」も参照
オーストラリアおよび周辺諸国
オーストラリアにおいても、日系オーストラリア人及び日本人移民と、ニュージーランドやフィジーなど周辺のイギリス連邦諸国及びその植民地や、同盟国のオランダ領東インド諸島などに在住していた日本人移民と日系人に対する強制収容所への収容が行われ、全体で約4,000人が強制収容された[59]。なお戦後そのほとんどが日本に強制的に送還させられた。

強制収容を扱った作品
1946年、解説入り画集『市民13660号 ― 日系女性画家による戦時強制収容所の記録』(前山隆訳、御茶の水書房、1984年)。画家ミネ・オオクボがタンフォラン仮収容所・トパーズ戦争移住センターで描いた画を編纂したもの。
1956年、小説『ノー・ノー・ボーイ』 - 収容体験を持つ日系人作家ジョン・オカダによる小説。シアトルに住むイチローが家族と共に収容され、忠誠心調査での最後の2問で「ノー」と応える。戦後の太平洋岸北西部の様子が描かれている[60]。
1971年、自伝的小説『強制収容所 トパーズへの旅 ― 日系少女ユキの物語』- ヨシコ・ウチダ著(柴田寛二訳、評論社、1983年)。
1973年、ジーン・ワカツキ・ヒューストン(英語版)と夫のジェームズ・ヒューストン(英語版)が共著で回想記『マンザナールよさらば』を出版した。1976年、ジョン・コーティ(英語版)監督はこれをもとに、同名のTV番組を制作し、米三大ネットワークのNBCで放送された。
1976年、児童文学作品『わすれないよ いつまでも ― 日系アメリカ人少女の物語』- ヨシコ・ウチダ著(ジョアナ・ヤードリー (イラスト)、浜崎絵梨訳、晶文社、2013年)。
1976年、詩集『収容所ノート ― ミツエ・ヤマダ作品集』- ミツエ・ヤマダ著(石幡直樹、森正樹共訳、松柏社、2004年)。
1980年、漫画『がんがらがん』 - 長谷川法世原作の青年漫画。当時の日系アメリカ人への迫害の様子や、収容所内での暮らしぶりなどを描いている。
1982年、自伝的小説『荒野に追われた人々 ― 戦時下日系米人家族の記録』- ヨシコ・ウチダ著(波多野和夫訳、岩波書店、1985年)。
1984年、ドラマ『山河燃ゆ』 - 日系人強制収容をテーマにした山崎豊子の「二つの祖国」を基にしたNHK大河ドラマ。
1987年、小説『写真花嫁』- ヨシコ・ウチダ著(中山庸子訳、學藝書林、1990年)。後半はトパーズ戦争移住センターを舞台とする。1943年4月、見張りの米兵に銃殺された63歳の日系一世の男性ジェイムズ・ハツキ・ワカサの話を織り込んでいる。
1988年、詩集『砂漠行』- 上記『収容所ノート ― ミツエ・ヤマダ作品集』所収。
1990年、映画『愛と哀しみの旅路』 - アラン・パーカー作、監督。日系アメリカ人女性と駆け落ちするアメリカ人男性の物語[61]。
1994年の小説、1999年の映画『ヒマラヤ杉に降る雪』 - マンザナー強制収容所でのイマダ家の様子が描かれている[62][63]。
1997年、ジョージ・カーリンのネタ - 個人の権利や、アメリカ合衆国の政治への批判のネタの中で、日系アメリカ人が収容所に送られたことを語った[64]。
1998年、マイケル・O.タンネル, ジョージ・W.チルコート 著, 竹下千花子 訳『トパーズの日記 : 日系アメリカ人強制収容所の子どもたち』金の星社, ISBN 4-323-06072-6
2000年、写真集『約束の大地/アメリカ』新正卓 みすず書房。
2002年、小説『天皇が神だったころ(英語版)』 - ジュリー・オオツカ著。名もなき日本人一家がユタ州にあるトパーズ戦争移住センターに収容される。オーツカ一家の経験に基づいて描かれている[65]。
2005年、曲『ケンジ』 - フォート・マイナーのアルバム『The Rising Tied 』に収録されている。マイク・シノダの祖父のキャンプでの経験について描かれている。
2006年、小説『草花とよばれた少女』- シンシア・カドハタ著。ポストン戦争強制収容センターを舞台とする小説。
2007年、映画『アメリカンパスタイム 俺たちの星条旗』 - デズモンド・ナカノ監督。ユタ州のトパーズ戦争移住センターを舞台とする映画。
2008年、『親愛なるブリードさま : 強制収容された日系二世とアメリカ人図書館司書の物語』柏書房 - 収容された日系人の子どもに本を送り続けて励ました司書クララ・ブリード(英語版)。ISBN 978-4-7601-3388-8
2009年、小説『あの日、パナマホテルで(英語版)』 - ジェイミー・フォード(英語版)』著。シアトルにて、中国人少年が日本人少女と共にオスカー・ホルデンのジャズのレコードを買う。少女がそのレコードを持ったまま、一家は強制収容所に送られてしまう。大人になった少年はそのレコードを探す[66]。
2010年、ドラマ『99年の愛〜JAPANESE AMERICANS〜』 - TBSテレビの開局60周年記念として放映されたTVドラマ。当時の日系アメリカ人への迫害の様子や、マンザナー強制収容所内での暮らしぶりなどを描いている。
2011年、曲『Go For Broke 』 - ジェイク・シマブクロのアルバム『アイ・ラヴ・ウクレレ(英語版)』の収録曲。日系アメリカ人で構成された第442連隊戦闘団からインスパイアされた[67]。
2012年、ミュージカル『アリージャンス』 - カリフォルニア州サンディエゴで初演された。主演のジョージ・タケイの収容所での実体験にインスパイアされた[68]。
2013年、小説『Camp Nine 』 - ヴィヴィアン・シファー著。アーカンソー州のローワー戦争移住センター内外を舞台にしている[69]。
2013年12月、ドラマ『Hawaii Five-0』81話『父に捧ぐ』 - 約70年前のホノウリウリ抑留キャンプでのコールド・ケースとなった殺人事件を解決する[70]。
2014年、ドキュメンタリー『The Legacy of Heart Mountain 』 - ワイオミング州のハートマウンテン移住センターでの生活を探る[71]。
2014年、ドキュメンタリー映画『To Be Takei 』 - 数年間強制収容所で過ごした俳優ジョージ・タケイの若い頃を記録する[72][73]。
2014年、フィーチャー映画『Under the Blood Red Sun 』 - 日系アメリカ人監督ティム・サヴェッジが、日系アメリカ人グレアム・ソースベリーのハワイでの13歳の頃の実体験を基にした小説を基に映画化した。サヴェッジの父親は真珠湾攻撃後強制収容されていた[74][75]。
2015年、ドキュメンタリー映画『Relocation, Arkansas 』 - ヴィヴィアン・シファーがアーカンソー州のローワー戦争移住センターおよびジェローム戦争移住センター跡地を訪れる[76]。
2015年、歴史小説『Allegiance 』 - カーミット・ルーズヴェルト著。アメリカ政府や最高裁判所での日系人の強制収容に関する法律上および倫理上の議論やあまり知られていない事実を基にしている。ハーパー・リー賞最終候補となった[77]。
2017年、ドキュメンタリー映画『Resistance at Tule Lake』 - 元被収容者へのインタビューを多く含む、トゥーリーレイク収容所の歴史を描いたドキュメンタリー。
2019年、ドラマ『二つの祖国』 - 日系人強制収容をテーマにした山崎豊子の「二つの祖国」を基にしたドラマ。

帯石観音の法華経の成立時期と奉納時期

2024年08月13日 19時27分36秒 | 帯石観音の金泥法華経八巻
帯石観音の法華経の成立時期と奉納時期

御醍醐天皇の忠臣千種忠顕が写経した法華経八巻はいつ写経され、いつ、帯石観音に奉納されたのであろうか?

「元弘3年 南 3月23日 太平記 後醍醐天皇伯耆船上山に皇居を置く」

と太平記は書くので1333年3月23日に船上山に居を構えたことが分かります。また、

「元弘3年 南 5月22日 太平記 後醍醐天皇伯耆船上山を立ち京師を目指す」

とされますので、この金泥法華経八巻は3月23日から5月22日までのわずか二か月の多忙な中で
書かれたもので南朝勝利を仏に祈ったものと思われます。巻末に「東夷」征伐を祈願しての写経である旨
を記していますので、北朝(武家方)征伐の執念の祈願写経となります。



なぜこのような重要な祈願写経が遠く周防屋代島帯石観音に奉納されたのであろうか?

奉納はだれがいつ行ったのであろうか?

延元元年 南 1月 千種忠顕は建武2年(1335年)11月、足利尊氏が新政から離反すると、建武3年(1336年)1月に新田義貞や北畠顕家らと共にこれを追い、足利勢を九州へ駆逐した
延元元年 南 1月28日 大日本史料 足利氏の党重久篤兼等、千種忠顕の雑掌と日向に戦ふ、明日、又、肝付氏の党と戦ふ、

とあるので、北朝を追って瀬戸内海を下ってきた1336年1月に帯石観音に千種忠顕本人が奉納したと思われます。

運んだのは南朝の忽那氏や村上氏と思われます。
南朝は屋代島の和田を根拠としますので、和田から帯石まで登って行ったものと思われます。

北朝との九州決戦を控え、帯石観音へ祈願奉納したと考えれば理由がわかります。
この時北朝の足利方を護って移送しているのは大内氏となります。

南朝には因島村上の祖とされる村上義弘が従っていたのでしょう。
能島村上の祖とする北畠顕家は下ってはきていません。

ともあれこの法華経八巻は「重要文化財」級ですので保管は厳重にして頂きたいと思います。

帯石観音の金泥法華経八巻

2024年08月13日 19時24分12秒 | 帯石観音の金泥法華経八巻
帯石観音の金泥法華経八巻

帯石観音のHPに下記の書き込みがある。

これは南北朝時代に南朝の 千種忠顕の法華経八巻が「寺寶」として伝わっていることをしるしています。
この法華経を誰が帯石観音に奉納したのか分からない。気になる「法華経」です。

なおこの時は北朝は大内氏であったので屋代島は北朝と南朝のせめぎあいの場となっていたのでしょう。

「千種忠顕、後醍醐天皇を漁船に奉じ隠岐を脱出し伯耆の名和長年を頼り船上山に行在を構える。普門寺家紋は、菊水。                      当地が、南朝方の領地となる。このころ、法華経八巻が奉納されたか。

昭和11年発行 【小松町誌 33 】完

2024年08月12日 13時50分42秒 | 昭和11年発行 【小松町誌】
昭和11年発行 【小松町誌 33】
    
   【 委 員 】

 昭和11年4月1日現在、小松町各委員は左の如し

 【米生産統計調査委員】

  金田 政一     廣田 亀吉     木村 本三

  砂岡 眞一     中元 真澄     是永 一郎

  中原 仲一     益田 喜助     森田 政人

  中島 慶一     

 【学務委員】

  吉田 紋次郎    矢田部 三四    井倉 安次郎

  佃 慶太郎     谷坂 俊郎     

 【少年救護委員】

  谷坂 俊郎

 【方面委員】

  木村 本三     中村 幸太郎    高瀬 太吉

  池田 才助     坂井 竹吉     岡村 儀兵衛

  山中 浄泉     

 【社会教育委員】

  谷坂 俊郎     川村 直吉     龍石 泰誠

  中島 慶一     木村 本三     佐村 友右衛門

  川村 イト     矢田部 ヒデ

 【経済更生計画樹立委員】

  委員長
  矢田部 宗太郎    

  統制部長
  奈良元 壽輔

  委員
  川村 秀雄     星出 武平     中島 慶一     森田 眞作

  池田 才助     吉谷 武三郎    大下 梅太郎    金田 政一

  経済部長
  吉田 紋次郎    

  委員
  荒川 林一     高瀬 太吉     川野 常蔵     蔵本 東一

  是永 一郎     中元 真澄     花田 政一     井川 市五郎

  古崎 雛吉

  経済部長
  久保田 勇治    

  委員
  矢田部 三四    相川 清右衛門    佐村 友右衛門  川村 直吉

  坂井 竹吉     中村 辰三郎     小林 辰一    木村 本三

  岡村 佐八     花田 清七      湯村 才助

  教化社会部長
  谷坂 俊郎     

  委員
  桝谷 豊吉     佐崎 憲治     細田 三太郎    島元 常助

  黒田 弥一     加藤 栄吉     山中 浄泉     龍石 泰也

  廣田 亀吉

 【産業統計調査員】

  小松町男子青年団員


  【 赤 愛 社 員 数 】

  昭和11年1月現在の赤愛社員数は左の如し

  【赤十字社員】
   特別社員 11名   終身社員 233名  正社員 40名   合計284名

  【愛国婦人会】
   特別会員 28名   終身会員 200名  通常会員 136名 合計364名


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    昭和41年4月25日発行  【非買品】

    山口県大島郡小松町
     発行所  小松町役場

    山口県大島郡小松町
     編 者  小澤 白水

    山口県大島郡小松町第97番地1
     印刷人  笹井 運人

    山口県大島郡小松町第97番地1
     印刷所  大島新聞社 印刷部

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【欄外手書き書込】

  昭和11年10月31日 町役場員大岡資治氏ハ奈良元助役ノ命ニ依リ配本セラル。