更年期の箱の中

更年期の毎日の中で思うことなどを書いています。

「うちの奥さんの話が長い」という話

2022-12-12 14:05:34 | 日記

 会社でよく、同年代の同僚が奥さんとの会話がめんどくさいという話をします。この書き出しが今日の言いたいこととうまく繋がるかどうかわからないまま書いていってみます。

 同僚曰く、奥さんはその日に起きたことを順序立てて経緯と脈略重視で話をするから話が長いと。更に、我慢して聞いているとオチがないから反応に困ると。そろそろ終わりかなという頃合いに、例えばその日の奥さんのお話が「がっかりした」というエピソードだったとしたら、がっかりしない結果を得るための方策を考えて「こうした方が良かったんじゃないの?」、「もっとこうしなければいけなかったんじゃないの?」といった類の提案をすると、奥さんは「どうしたら良いのかを聞いているのではない、ただ話を聞いてくれればいい」と言ってキレるので、迂闊に何も言えない、うちの奥さんは怖い、と言います。

 別の同僚は、自身は理系出身だから答えを導く思考回路で奥さんの話を聞く癖があるので、感情をプロセスする抽象的な話に付き合うのは苦手だと言います。30代から60代までの既婚男性から似たような話を本当によく聞きます。御多分に漏れず、うちもこれをやっています。理系だとか文系だとかの考え方は日本特有だと思うし、海外の夫婦からも同じような話を聞くので、あまり関係ない気がします。

 先日、我が家でもちょっとした口論をしました。口論と言っても、うちは熟年再婚だからか言い争いはほとんどしません。もうお互い別のパートナーと声を枯らすほどの口論を繰り返しやり尽くしたので、同じ轍は踏まないように気をつけているからかも知れません。それでも、年に1回か2回くらいは夫がヒートアップする現象が起こります。

 最近、夫の健康に関わる懸案事項がありました。いつもと違うことが起きたので、これからはお互いの心の平穏のためにも、何か健康面で心配なことがあったら病院に行って専門家に診てもらうことにしようと伝えていた時でした。夫の顔が歪んできて、「あなたに言われたことですごく嫌な気持ちになっている」と言われました。言いながら怒りの感情が表情にも口調にも出ていました。続けて「こんなに嫌な気持ちになっているのがあなたにわかるか?」と聞いてきました。「なぜ怒っているのかがわからないので、キョトンとしています」と伝えると、「わからないのか?怒っている理由を探して持って来いと言うのか?」と続き、もっと火に油を注いでしまいました。

 心の中では「なんだこれ」と思いながら、顔を真っ赤にして怒っている夫を見ていました。嫌な気持ちにさせられて怒っている、その理由がわからないようだからもっと腹が立つ云々のリピート再生を3回くらい聞き、会話を止めるために私が謝って謝って終わりました。

 夫は健康に関しては根拠のない自信を持っていて、健康は彼の自尊心に関わる繊細なことなのだと言うことはわかりました。おそらく、健康面で私に心配され、病院に行った方が良いのでは?なんて言われたことで彼のプライドを傷つけてしまったようです。でも、私に怒るのは筋違いです。夫が真っ赤な顔して怒りながら伝えようとしていた本心は、「あなたが言っていることは正論だけれど、これまで健康には自信があったので、健康について心配されるようになった、つまり老いという現実を認識することに強い抵抗を感じている。今は自分自身の中で処理が追いついていないので、申し訳ないけどこの話は別の機会にして欲しい」だったのではないかと。

 この筋違いな怒り、よくあるんです。今の夫にも、前夫にも、その間に付き合っていた人にも。一般論にしてしまうのは雑すぎるかも知れませんが、私の人生のサンプルは3つしかなく、この3つのサンプリングで同じ結果が出たという前提で話すと、男性は不快な感情を抱くと、それを感じているのが嫌なので、取り敢えず怒りに変えて発散してしまいがち。自分でもちょっと変だな、見切り発車しちゃったなと、どこかでわかっているのだとも思いますが、一旦怒りとして発散してしまうと後戻りができなくなって、自分は怒っているんだ!お前が悪いんだ!という構図を正当化できたと思えるまでリピートしてしまうんだなと。。。

 私は心理や脳神経の専門家ではないので感覚的な解釈ですが、男女で脳の構造が違うという話は聞いたことがあります。男性だから女性だからという枕詞の使い方には繊細にならざるを得ないご時世です。それでも、あちらこちらで男性が「うちの奥さんの話が長くてオチがない、良かれと思って代替案を提案すれば逆ギレする」って家の外で愚痴っているので、私も「男の人って不快な感情をプロセスするのがめんどくさいからって、取り敢えず怒りの球にして丸投げしてくるよねー」って言っちゃおうかな。

 


引っ越しし過ぎ

2022-12-08 14:11:52 | 更年期のお悩み

 これまでの人生、引っ越しを20回しました。19歳で実家を出る前が2回、それ以降が18回。なので18回は自分の意思で引っ越しをしており、最後の20回目の引っ越しは4年前で、その時は転勤と再婚のタイミングを合わせて、再婚相手が住まう地方に越してきました。

 それまではずっと日本国内では関東圏の都会近郊で生活していたことと、19歳から30代前半までは海外に住んでいたので、「地方」に対して無意識に偏見を持っていたような気がします。越してきてしばらくは、視界に高層ビルがないこと、駅に人がまばらなこと、満員電車が走っていないこと、個人経営のお店が多いことなど、プラス面の環境変化が新鮮でした。それ以降は、やっぱり探しても探しても文化的なインプットと刺激が絶望的に無いことが、ダラダラと気になっています。文化も実家も果てしなく遠い。これが20代・30代の頃だったらとても苦しかったはずです。50代を目の前に控えた今は、文化は旅費というプラスαを支払って取りに行けばいいと考えてはいます。でもそこまでするのが億劫で、インプットを求めて活発に出かけることも少なくなりました。

 30年間で20回も引っ越しをするとどうなるかというと、私の場合、モノへの執着が少なくなり、物事と選択の優先度を可動性と効率で見るようになりました。いつでも身軽でいようという意識が常にあります。本のページを捲りながら読書をすることは大好きでしたが、本は引っ越しとの相性が良くないので、余程の思い入れがない限り都度処分してきました。ここ数年はもっぱらKindleで読んでいます。荷造りと荷解きが異様に速いことが自慢です。出張や旅行から帰ってきたら、一息つく前に全ての荷物を瞬時に片付けます。

 こんな風な生活を30年もして来たからなのかどうなのか確かめようが無いけれど、朝、睡眠から目覚めに向かうほんの一瞬の間に、「今目覚めようとしているのはどこの誰なのか」、情報を集め直す時間が必要な時がたまにあります。場所がわからないだけではなくて、一番近い表現をすると「あれ?今って一体どんな設定でやってるんだっけ?」という感覚です。問いかけているのは紛れもなく自分自身なのだけれど、起きようとしているのが誰なのかがさっぱりわからない、まっさらな空間に覚醒します。その空間には時間の感覚もありません。面白いなと思うのは、自分の設定を思い出すプロセスでは、時代と性別をまず確認しようとします。その次に場所を思い出して「あーはいはい、これね!」となって、はじめて「目覚める」ことができます。ひどい時には目覚めてしばらく経っても窓の外など、視覚的な情報を入れないと季節の感覚がわからないという場合もあります。

 この感覚が起きる頻度が少しずつ増えているような気がします。これは生きている=死んでいくという過程にあるあるな現象なのか、それとも、これも更年期障害の症状なのか。婦人科に行ったら聞いてみようと思いつつ、変なおばさんの話なんかまともに聞いてもらえないような気がして、勇気が出ません。


落とし所

2022-12-07 16:08:37 | メンタルヘルス

 そもそもブログを書こうと思ったきっかけは、ある事情についての自分の頭と心の処理が追いつかなくなって、すがるような気持ちでNoteに浮かぶままを書いてみたら、ケロッと心が穏やかになったというマジカルな経験をしたので、メンタルヘルスを保つ意味でも、アウトプットの手段として取り組もうと思ったわけです。

 いざブログを開設して「よーし、書いちゃうぞー!」と意気込んでみたものの、その落とし所が定まらなくて悩んでいる模様を今日は書いてみることにしました。

 ある事象というのは、知人の言動によってトリガーされまくっている自分の心の動きのことです。

 この知人との関係は4、5年前、家族を介して始まりました。知人は20代後半の女性で既婚者です。Noteには、この知人についての私の極々個人的な分析をたくさん書いてしまったのですが、ものすごくスッキリした反面、知人に対してどこか後ろめたい気持ちがブクブクと膨らんでしまって、結局、記事を全て削除してNoteを退会しました。

 知人とは日常的に連絡を取り合う中ではなく、あくまでも家族を介しての関係なことと、個人的にその人を人類愛的なスケールでも「好き」と思えず、どちらかというと今は関わりたく無いと感じています。相手がどう思っているのかは全くわかりません。

 それなのにここ数年間、私の頭の中でこの知人が占める割合と、この知人のことを考えるために費やすエネルギー量が2倍速で増え続けています。寝ている時間以外は思考のどこかにこの知人がいます。「取り憑かれる」とはこういう状態を言うのかも知れません。知人について嫌だなと感じることを何度も何度も繰り返し思ったり、前回会った時に知人が言った言葉を頭の中でリピート再生したり、こうまでして好きでもなく興味もない人のことを無限ループにハマって考えてしまう私は、いよいよ医療機関に相談した方が良いのかもしれないと、数ヶ月前から心理カウンセリングを受けています。

 私がアウトプットしたいことは、知人に関する愚痴や、彼女の言動に対する個人的な判断や、私が悩んでいることを知っていて放置する家族への恨みつらみではない、それを今朝の通勤途中に思いました。不思議なことに、それを思った時からほんの少しだけ、嫌な気持ちが抜けました。

 心理カウンセリングでは、知人との関係をきっかけに、彼女の何に対して自分自身のどこが反応しているのかを把握して、今後も続くであろうこの関係の中で、もう少し上手く対処できるようになりたいという相談をしています。もしくは、逃げちゃっても良いんだよと誰かに言って欲しいのかもしれません。今は逃げることに強い罪悪感を感じるので、大脱走するとしてもそれはしばらく先のことになるだろうなと思います。

 刻みますが、47歳くらいから、どんな些細な心身の不調もすべて年齢と更年期のせいにするようになってしまいました。実際に婦人科で更年期障害の診断を受けたわけではないのに、なんかもうこの年齢だからこうなっちゃっても仕方ないよねって、極太マーカーで「更年期」と書いてある大きな段ボール箱に、なんでもかんでも投げ入れて片付いた気になっているというか、片づいだと思い込もうとしているので、もう少し丁寧に、結局何が言いたいのかを明確にして行こうと。なんだ、結局落とし所が見つかりませんでした。

 

 


アイメイク

2022-12-06 16:36:31 | 更年期のお悩み

 平日はほぼ会社と家の往復のみで通勤もバス一本。バスもほぼ毎日同じ顔ぶれの同じ時間のバスに乗るだけなので、ここ数年でメイクの手抜きが加速しました。45歳を過ぎた頃から、瞼の上のシワにアイメイクの粒子が流れ込み、本人が気づかないうちに瞼のシワが余計に際立つ変な色の線と化してしまうことから、アイメイクを一旦引退しました。変な色の線に気がついた初期の頃は、それでも抗おうと小まめにトイレに行って、シワの溝に集まった粒子を指でもう一度伸ばしたり、目の周りを保湿するクリームを塗ったりのお手当をしましたが、めんどくさいのと、何よりも気にすること自体アホらしくなり、アイメイクに関するコスメを全て断捨離して数年が経ちます。

 先週あたりから、なぜか急にアイメイクを再開しました。インスタで同年代の方たちがアイメイクを楽しむ様子を見たからなのか、イギリス人のPodcast番組でコスメに「アンチエイジング」という単語を使うのがタブー視される時代になっていることを聴いたからなのか、視覚と聴覚の刺激が脳内で反応し合ってアイメイクをしたくなる指令信号に変わったような感じです。

 思い立ったら吉日的な行動力だけはあるので、なるべく粒子の細かいシャドウと、ダマになりにくいマスカラと、老眼進行中の目にも扱いやすそうなアイラインを入手して、アイメイクを再開しました。先週1週間は日常生活の中で相変わらず色々あったのに(買い替えた洗濯機が洗濯機置き場には余裕で入ったのに、洗面所のドアに突っかかってドアが閉まらなかったので泣く泣く返品したことなど)、控え気味に言っても気分が良く、これは続けよう!となって、今日はアイシャドウのパレットを追加購入しました。賞与が出たばかりなので、デパコスのカウンターに行きました。欲しかった色合い(無難なゴールド系)をつけてみたら他の色も気になって仕方がなくなり、またアイメイク用の下地があると「発色も持ちも全然違うんですよ」とデパコスのお姉さん(私よりもお若いはず)に言われ、まんまと買ってしまいました。

 アイメイクを再開してまだ間もないけれど、アイメイク無しで過ごした日々よりも、目をしっかり見開いて物を見ているような気がします。マスカラもアイラインもしていると、無意識に目をちゃんと開こうとするものなのでしょうか。そうすると瞼のシワはもっと深くなるのでしょうか。そうであったとしても、今のところそれは別にいいやと思えるほど、とにかくすこぶるでも控えめに、気分がいいです。

 

 

 


ブログを始めることにしました

2022-12-05 16:30:27 | はじめに

自己紹介とブログを始めようと思った理由

 私は49歳会社員です。日本国内在住です。今は地方に住んでいますが出身は関東の割と都会です。性自認は女性でヘテロセクシュアルとして生活して来ていますが心の中は常に揺らいでいます。今は既婚者で現在の婚姻関係は2回目の結婚のもので、必然的に離婚を1回経験しています。それと成人している子供が一人います。再婚で成人している子が二人増えたので現在は一応子供の人数を聞かれたら「三人です。産んだのは一人です。」と答えるようにしています。

 今朝の通勤途中にブログを始めようと思いました。しばらく疼いていたというか、実際にしばらく前にほんの数週間だけNoteをやっていました。Noteを書こうと思ったきっかけはピンポイントに特定できるある事情があって、要は、自分の精神状態を日常生活に支障のない範囲内に保つために、必死で思いついた気持ちの整理方法として書いていました。短期間に新参者にしては大容量の情報を書いてアップして、それを読み返して自分の心とのキャッチアップをするような感じで使っていて、Noteの趣旨からすると、私の使い方はなんか間違ってるな、場違いだなと思ったので、数週間後に退会しました。

 それでもNoteを使っていた時の自分の心の動きは衝撃的で、ある事象に囚われて自分の判断能力や自尊心というのか、地に足をつけているために必要な、私を私たらしめるものが崩壊しているような状態で、自分の思っていることや話していることがまともなのかよくわからなくなりそうになる手前で、会社員としての社会的な責任を果たせるギリギリで、なんとか平常心のシーツの端っこにしがみつくことができました。そして、心穏やかになれたのです。

 汎用的なこととしては言えないけれど、私にとっては心穏やかでない時に、頭でそれをプロセスして、且つそれを目に見える、手につかめる形でアウトプットすることはとても大切なことなのだと思い知ったエピソードです。

 しばらく前に私をNoteに向かわせた事情は今も継続しています。きっとこれから先も継続します。なので、安定的にアウトプットできる場所を持つために、このブログを作りました。