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授かりもの

2020-08-28 20:53:28 | 随想

「書簡からみた日蓮」の中で北川前肇氏は、「(八十四才で遷化した師匠の)荼毘に臨んでは大地に跪き号泣し涙をとどめることが出来ないほどでありました」(注1)と二十二年前の自身の体験を回想している。

(注1) 
「書簡からみた日蓮(全二十六講)」(北川前肇)(NHKラジオ第二放送、2005年4月~9月)の「第四講 悲母への追慕」(4月24日放送)。 
以下の引用も「第四講 悲母への追慕」から。

 

氏は今は亡き師との出会い、そしてその人となりを次のように語っている。


私は福岡県の農家に生まれ、小学校を卒業すると同時に近くの寺に入門いたしました。これが私にとって仏教を学ぶ第一歩でありました。

師匠は多くの人たちから尊敬を受ける人物で、しかも自らを律するに厳しく、自ら弟子に対して日々厳しい生き方の範を示されました。また、社会に対する奉仕の精神を兼ね備えた有徳の人で、その生き方を目の当たりにして、私などの遥かに及ばない存在であることを学んだのであります。

未熟な私ではありましたが、多くの弟子たちと同様に、平等に育てられ、中学校高等学校の時代、その師匠の膝下にありました。

 

その後も、「人生の節目に当たって、厳しくしかも将来を見通した言葉を与えてくれた師は、昭和五十八年(1983年)一月四日、八十四才をもって、遷化いたしました。」

北川氏自らが語るその師弟関係を想えば、氏が恩師の死に際し、「号泣し涙をとどめることが出来ない」ほどの悲しみを体験したことに何の不思議も認められない。それは師と呼べる人を持たない私にも想像し得る類の悲しみであるように思われ、そこにはどんな胡乱な要素も見出し得べくもないと思われる。

それでも考えてみたい。氏に大いなる悲しみを掻きたてることになった「喪失」についてである。

十二歳で仏門に入った北川氏である。その氏が出会い、やがて生涯の師となる人物は、氏自ら時間と労力を費やし探し求めた末にようやくめぐり会えた師ではないと考えて差し支えあるまい。誠に幸いなことに、氏は得がたい師との結縁を偶々授かったのである。そして、氏は現し身の恩師を亡くしたとは言え、天寿を全うし世を去った恩師との結縁までも亡くしたわけではない。

北川氏は「授かった恩師(との結縁)」という私的幸運を語り、「授かった恩師の遷化」という私的喪失とそれによって掻きたてられることになった深い悲しみを語った。氏は何を見せびらかすでもひけらかすでもなく、ただおおよそ次のようなことを語ったのである。

《私は偶々素晴らしい結縁を、得がたい師を授かった。その師を失った際の私の悲しみは号泣し涙をとどめることが出来ないほどだった。師との結縁まで失われたわけではないとは言え、そのときの私は無性に悲しかったのだ……》

悲しみの深さこそ偶々授かった幸運の有難さの証しであった。

従って、偶々授かった素晴らしい父母を誇らしげに語る人――いる。

また、幼い生命を親の手で絶たれた人――いる。

また、哀れにもむごたらしい父や母のことを語る幼くして生命を絶たれた人――いない。未だ幼かったその人たちはもはや誰一人として語れない。

また、父や母に苛まれる幼少時代を過ごした(過ごしている)人――いる。その人たちはむごたらしい父や母のことを(殆ど)語りはしない。(とても)語れやしない(語れるときまで生き残れないかもしれない)。

言挙げの対象となるような素晴らしい父や母、そして容易に(時には決して)言挙げの対象とはなり得ないむごたらしい父や母。

 得難い師を偶々授かるという幸運を縷縷語り、その恩師の死をひたすら悲しむ――肉汁(屍肉に残存する体液)滴る焼肉に無邪気に喰らいつくヒトの顔が喜色満面であるのと同じくらい自然のことだ。そこに「何の不思議も認められない」としても不思議ではない。

ところで、人生の帰趨に決定的影響を与えるのはいかなる要素なのか。

この問いの答えとして二つの選択肢(運と努力)を示した後、人生はすべからくこれらがないまぜになったものであると語る論者がいる(注2)。

(注2) 
   Test your political philosophy with one simple question: which matters most in determining where people end up in life? 
   The first is "luck" - by which I mean the pre-birth lottery, that inherited package of wealth, health, genes, looks, brains, talents and family. "Luck" is all those gifts or curses for which we can neither take credit nor be blamed. 
   Choice No. 2 is individual effort, hard work and personal character. 
   Obviously this is a false choice; every life is a blend of both. 
(Taking Luck Seriously By MATT MILLER, The New York Times ON THE WEB, May 21, 2005)

また、知能指数や学校教育や親の懐具合と同様、努力できるという資質さえどうやら授かりもののようだと指摘する論者もいる(注3)。

(注3) 
Does it matter whether your place in life is determined by your IQ or your schooling or your parents' wallets? All of these are beyond your control. 
As we learn more about the human mind, even qualities such as self-discipline seem to be a matter of luck, not grit. 
(Mobility Vs. Nobility By Michael Kinsley, Washington Post.com, Sunday, June 5, 2005; B07)

さて、親(の懐具合)は、ときには師も、授かりもの[luck]である。かくして、その出来不出来[gifts or curses](注2)もまた時の運[luck]である。

子はどうか。

宮崎勤(死刑囚)の父君は自死を遂げたという(注4)。

(注4) 
1989年7月23日 宮崎勤(逮捕時27歳)逮捕
同年 8月13日 真理ちゃん、絵梨香ちゃんの誘拐殺人を自供
同年 9月5日 正美ちゃんの誘拐殺人を自供
1994年11月21日 父君自死 
(http://tasa5600.hp.infoseek.co.jp/miyazaki/miyazaki1.html)

 

在りし日のその胸中を想う。

 

(了)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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