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三島由紀夫の「切腹」 その"ザッハリッヒ[sachlich]"な有り様を推理する (その四)

2020-09-20 11:29:02 | 日記

"ブックサーフィン"という愉楽――あるいは書淫
 

天皇との距離 三島由紀夫の場合』への助走
 

 

第一部

三島由紀夫の「切腹」  

その"ザッハリッヒ[sachlich]"な有り様を推理する

 

その四

 

解剖所見(ウィキペディア「三島事件」)の記述をそのまま受け入れるとすれば、切創の左端の傷は二人共に深さ4センチ、切創の長さはそれぞれ三島14センチ、森田10.4センチ。両人で少なくとも複数回、切腹の作法・手順、短刀の使い方、腹を切る深さと長さ、介錯の頃合などを確かめ合ったことであろう。もし「まず切っ先を深く食い込ませ」と打ち合わせていたのだとしたら、三島は、「切っ先を深く食い込ませ」た時点で意識を失う可能性を果たして想ったであろうか。

異物を皮膚下に突入させた時点に於て八十三例中八十例までは、喪心又は失神状態に陥るものである。
(矢切止夫「切腹論考」、『切腹論考』中央公論社、1970年10月31日初版所収、10頁)

さらに、

三島の切腹傷のように、ここまで腹部に深く短刀を突き刺した場合には腹部内臓に分布する血管迷走神経を刺戟して血管迷走神経反射を起し、血管の拡張により脳血流が保てなくなり失神に陥る。
(ウィキペディア「三島事件」の〔注釈12〕)

すでに「その二」で「文句なしに面白くも刺激的、ときに痛快でさえある上に、11月25日以前にすでに三島の机の上にあったという証言もある10月31日初版発行のこの『切腹論考』については後述する」と述べておいた。

「切腹論考」が十月始めに中央公論社から出版された後、十日あたりだったか三島邸へ伺った編集者の某氏が、「机の上に本がありましたよ。読んで居られたようです」と私の許へ教えにきてくれた。
(矢切止夫、三島由紀夫追悼文「切腹の美学」、『新評 臨時増刊 全巻 三島由紀夫大鑑』1971年1月25日発行所収、209頁)

(注)ここでの「切腹論考」とは矢切止夫『切腹論考』中央公論社、1970年10月31日初版発行。

「十月始めに中央公論社から出版された」は「発売された」のことであろう。発行日は書籍が店頭に並ぶ日(発売日)よりかなり先の日付にすることが通例であるらしいから、「10月31日初版発行」の『切腹論考』が十月始めには店頭に並び、経緯はともかく、その本が三島の机の上にあったとしても驚くほどのことではない。「十日あたり」は「十月十日あたり」と考えるのが妥当であろう。

三島は机の上の『切腹論考』から、取り分け巻頭の論考「切腹論考」から目を逸らすことができなかったはずだ。三島にとっては喫緊の重要課題そのものであるこの論題を目にしながら、頁を繰らないという選択肢は三島にはなかったであろう。「編集者の某氏」の言うように、「読んで居られた」と考えて差し支えあるまい。そうであれば、「切腹論考」の指摘、闇雲に深く切ると苦痛で七転八倒するのみである、という知識は三島の頭にしまい込まれていたと考えていい。

そのことから導き出せるのは、一方では、苦しみもがくだけに終わる可能性のある切り方をするはずはない、という推断であるかもしれず、他方では、目を通していたからこそ深く切れば苦痛で七転八倒するだけで容易には死ねるものでないと承知しながらも、三島は既に深く切ると決意していたが故に、介錯を用意したのだ、という推断であるかもしれない。しかしその場合、三島はなぜ深く切ると決意したのか、という疑問あるいは謎は、四方八方に跳ね返り反響し、収拾に大いに手を焼かざるを得なくなるのは目に見えているのだが。

実際、三島は、関心ある主題の書物については小まめに目を通していたようである。「図書新聞」1971年1月1日号の記事「運命の完成のための一触」(田坂昂)には、田坂昂が1970年8月末に出した『三島由紀夫論』(風濤社)の「感想をかき記した丁寧な手紙(9月3日付)を貰った」とある。三島からの手紙の末尾には「私に残されたことは、あとはただ運命の完成のための一触しかありません」とあったという。「運命の完成のための一触」について思い巡らし、「うん、そうか、なるほど」は後思案に過ぎない。

あれは、ぼくが田坂さんにすぐ手紙を書いたくらい嬉しかった本です。
(「三島由紀夫 最後の言葉」、『決定版 三島由紀夫全集 第40巻』所収、769頁)
(「図書新聞」1971年1月1日号三面)
(注)「あれ」は田坂昂『三島由紀夫論』。「カセット」にこの箇所はない。

すでに「その一」の冒頭で、

『決定版 三島由紀夫全集 第40巻』の「三島由紀夫 最後の言葉」の取り扱いには最高度の注意を要する。

と書き、その理由を示す(注)も付けた。怪しい、と言えば、田坂昂のこの『三島由紀夫論』も三島の愛読書『葉隠』も見当たらない『定本 三島由紀夫書誌』の「蔵書目録」も怪しさいっぱいであるが、『決定版 三島由紀夫全集 第40巻』所収の「三島由紀夫 最後の言葉」には更に多量の胡散臭さといかがわしさが漂う。しかし、上記の「あれは、ぼくが……」の箇所は、三島が実際に口にしたのかもしれない、と思わせる内容である。

「切腹の美学」には更に興味深い記述が続くが、一点だけ紹介して、とりあえずこの件はこれくらいで片付けることにする。

矢切の記述。

そして私は自分の本を読み返してみた。

「葉隠」の読み違えを訂正し、切腹を美化し賛美するかのごとき「武士道」の虚妄をつき、

(屠腹は、とても一人では致死できえない。全治何週間かの手当で命拾いするか。さもなけば出血多量で死ぬ為にはのたうち廻る)

と、切腹のすすめではなく、その反対をかいたのを逆手にとられた感がする。

古来、切腹をする側が介錯人を同伴して行くなどという事は、作法にもなければ前例にもないからである。」(矢切止夫「切腹の美学」209頁)(句読点は原文のまま)

『切腹論考』所収の「切腹論考」には「屠腹は、とても一人では致死できえない。全治何週間かの手当で命拾いするか。さもなけば出血多量で死ぬ為にはのたうち廻る」に該当する箇所は見出せない。数箇所の記述をまとめたものと思われる。つまり矢切は「自分の本を読み返して」そこから引用しているわけではなく、「自分の本を思い起こして」記憶を頼りに書き綴ったということになる。

その数箇所を引用してみると、

「出血多量で死ぬ迄は七転八倒のひどい苦しみ方をするぞ。今ならば、腸を切ったかどうかぐらいだから縫合すれば助かる」(矢切止夫「切腹論考」8頁)

「二十五年前の夏には、阿南陸相を初め多くの軍人や宮城前では集団の男女が、歴史の嘘に騙されて切腹という苦しい死の中でのたうった。」(同書、29頁)

「腹を切っても容易に死ねるものではないから、阿南大将は拳銃を、宮城前の男女は、もがき苦しみ最後は手榴弾によって自分で自分らの腹切りの始末をつけねばならなかった。」(同書、29頁)

「逆手にとられた感がする」という矢切の思いは、1970年10月31日初版の『切腹論考』(取り分け書名にもなっている巻頭の論考「切腹論考」)に目を通した三島が、腹を切っても苦痛にのたうち廻るだけで、それだけでは容易には死ねるものではない、という矢切の指摘を目に留め、切腹全体の組み立てを改めて考え直したかもしれないということだ。切腹を己一人の手で完結するつもりなら、腹部の横一文字の傷は浅いものにとどめ、致命となる傷は頚動脈を切るか心臓を突くというものになる。介錯人が控えているとなれば、下腹部を思い切り深く刺し貫いた段階で意識を失おうと、激痛に身悶えしようと、数瞬後には介錯の太刀で首を落とされ、全てが終わる。

矢切の指摘に目を留めたことが、短刀をまず腹に突き刺すときの深さを慎重に検討する契機になったという可能性は残る。その反面、介錯役を引き連れて市谷に乗り込んだということは、短刀を突き刺す深さは慎重な配慮の対象ではなくなっていた、という可能性も示唆する。三島は既に、矢切の論考に目を通す前に介錯人を用意することを決めていたのであれば、「逆手にとられた感がする」という矢切の思いは思い過ごしということになろうし、決行の日が目前に迫ってから決めたのであれば、三島の決断に重大な影響を与えたどうかはともかく、多くのことを改めて考させる契機とはなったであろう。結局のところ、介錯人を用意することをいつの時点で三島が決断したのか、にかかる問題になる。

三島が「森田は介錯をさっぱりとやってくれ、余り苦しませるな」と言ったのは、11月3日、「小川は森田から介錯を依頼されて承諾した」のは11月10日のようである。(注一)

この箇所は「深く切るからきっと苦しむことになる。腹を切り終えたら、長い間苦しませるな。さっさと介錯してくれ」と読みたくなる。大過なき読み方であると思う。

真剣で巻き藁を切るくらいの下準備は不可欠であろうから、決行直前に介錯役を割り当てられるものではない。

結局のところ、矢切の論考が三島の行動計画にいかほどの影響を与えたのかを測るのは至難である。しかし、「逆手にとられた感がする」云々は、およそ矢切にしかなし得ない類の意表をついた極めて刺激的な指摘である。

虚実を大いに怪しんでしかるべき「その瞬間の証言」が事件直後の週刊誌には残されている。

午後零時十五分 再び総監室にとって返した三島は、やにわに上衣を脱ぎ、上半身裸となる。

益田氏「これは本当に死ぬ気だな、と瞬間感じました。しばられたまま『やめんか!命は大切にしろ!』と何度も叫んだ。しかし、三島さんは私の左側三メートルほどのところに坐ると、『ヤーッ』と大声をあげざま、短刀を腹に突き立てたのです。

間髪を入れず介しゃくの刃がひらめいたときの気持ちは、とても言葉には表わせない。……」
(「週間現代」1970年12月10日号、25頁)(下線は引用者)
(注)益田氏は当時、陸上自衛隊市ケ谷駐屯地東部方面益田兼利(ましたかねとし)総監。

「『ヤーッ』と大声をあげざま、短刀を腹に突き立てた」の箇所は「短刀(の切っ先)を下腹部に当て、『ヤーッ』と大声をあげざま、上半身を前傾させた(上半身が前傾した。)」であることが必要であろう。「間髪を入れず介しゃくの刃がひらめいた」のでは、三島が4センチの深さに食い込んだ短刀を、殆どその深さのまま数ミリであれ十数ミリであれ右に引き回し、さらに「ヘソを中心に右へ5.5センチ、左へ8.5センチの切創」をつけるだけの時間的余裕はない。ここに引用されている証言そのものが雑なのか、証言記述者の表現が雑なのか、いずれにせよ全体的に極めて大雑把であることに変わりはない。東部方面益田兼利総監(当時)に加え、記述者もその周辺も切腹に格別の知識も関心も、加えて観察眼も想像力も、なかったということが明らかになる。

「間髪を入れず介しゃくの刃がひらめいた」のとは全く対照的な状況を伝える以下の記述は全体的に、そして取り分け下線部は眉につばをつけて読まねばならない。

カーキー色の隊服の前を開いて腹を出した。下にはなにも着けておらず、白いサラシの六尺ふんどし一本だけの上に、隊服をまとっていたのだった。

三島は短刀を引き抜くと静かに腹に当てた。そしてとても大きな声で「ヤーッ」と叫んで腹に短刀を突き立てた。この声は「ウォーッ」「ワーッ」という音響となって吹き抜けの方まで響いてきた。

一瞬、ブーッと血がほとばしり出て、短刀をにぎりしめた両手を赤く染めていく。三島は歯をくいしばり、懸命になって左から右へ向かってジワリ、ジワリと短刀をすべらせていく。血は文字通りドクドクと音をたててあふれ、ジュウたん(原文のママ)は血の海と化していった。約十三センチかき切った。古式の切腹作法にかなったものだった

(中略)

森田はもう一度刀をふりかぶった。ビュッと風を切って振りおろされた刃はこんどは三島の首を垂直に切り落としていた
(「週間実話」1970年12月14日号, 20---21頁)(下線は引用者)この記述の大部分は記述者の想像の産物、一部は『憂国』の切腹場面(注二)を借用であろう。

この記述の大部分は記述者の想像の産物、一部は『憂国』の切腹場面(注二)を借用であろう。

「腹に短刀を突き立てた」の箇所は、上記の「益田兼利氏の証言」の場合と同じく、「静かに腹に当てた短刀の刃先を、身体を前傾し、腹に食い込ませた」とあるべきところである。4センチの深さまで食い込んだ短刀をそのまま更に十数センチ右に引き回すのは至難というより不可能に近い。そのまま短刀を数ミリであれ十数ミリであれ右に引き回し、次いである程度短刀を引き抜いてから右に十数センチ引き回し終えるまで、十数秒か数十秒か、或いはそれ以上の時間経過があったはずである。短刀を右に引き回して出来た傷の大部分は浅いものであり、出血は極めて少なかったであろう。解剖所見や検視結果にあるように「深さ4センチの傷からは腸がはみ出し」たからには、飛び出した腸が傷を塞ぎ、結果的に、多量の出血を防ぐことになったと思われる。

三島の首を落としたのは、三島が激しく身悶えするため介錯にてこずった森田ではなく、古賀正義だった。(注三)

「古式の切腹作法にかなった」とあるが、いかなる文献に「古式の切腹作法」を、取り分け「自裁としての切腹」の作法を見出せるか。ましてや、下腹部にあてがった短刀を思い切って深く刺せ、という類の記述を残す指南書は存在しないはずである。三島が、新渡戸稲造の『武士道』に延々と引用されている滝善三郎の凄絶な割腹場面を読んでいる節もなく(注四)、14センチの切創の左端の傷が深さ4センチであることは「古式の切腹作法にかなった」というよりむしろ、およそ「切腹作法」とは無縁の腹の切り方であったと考えられる。三島の頭に生じていた「深さ4センチ」(「深く刺す」ということ)の出所は何処であったのか。敢えて苦痛に身もだえすることになる腹の切り方をしたのはなぜか。第二部以降に論じ、思いをめぐらすことになる難題である。

「古式の切腹作法にかなった」切り方はむしろ「浅く切れ」であろう。短刀の代わりに扇子や木刀で済ますことさえ出来たのであり、その場合、切ること自体が不要になる。

この週刊誌記事の筆者に「古式の切腹作法にかなった」と言わせているのは、舞台や映画で目にする切腹は「古式の切腹作法にかなった」ものであるという筆者氏の認識であり、従って筆者氏はむしろ「舞台や映画で目にする切腹作法にかなった」と語るべきであったろう。

映画、テレビドラマ、舞台などの切腹場面は、矢切止夫の指摘によれば、「見せ場」となるように都合よく作り上げられたものである。

腹を切るという動作は、一つずつ節がついて区切れるから、舞台のメリハリがきく。「おのれッ」とまず突きたて、それから、「無念」と横に動かして見得が切れる。

つまり「見せ場」という要素がとれるからして、あらゆる歌舞伎には、この腹切りが挿入された。
(矢切止夫「切腹論考」、『切腹論考』中央公論社、1970年10月31日初版所収、12--13頁)

こうした切腹が指し示す意味合いを矢切はある種論理的に整理している。

刑罰以外の切腹というのは明快にいえば、

「本来の自殺行為の目的の前に、抗議つまり自己主張がある」ということ。裏返せば、

「自己の言い分を通すために、附加的に己れの生命を放棄する」という、純粋自殺行為からはまったく離脱したものである
(同書、32頁)切腹という習俗の観点からはこの指摘は「自裁としても切腹」の急所を言い当てている。三島の切腹は紛れもなく「刑罰以外の切腹」であったし、その全体を見回すと、「『自己の言い分を通すために、附加的に己れの生命を放棄する』という、純粋自殺行為からはまったく離脱したもの」と見えて来ないでもない。そして「ハラキリは絶対に自殺ではない」(同書、32頁)とは三島の切腹のザッハリッヒな有り様を検討し続けるうちに、ますます強まってくる思いである。

では、「三島の切腹」は何であったのか。

既に述べたように、切腹について、取り分け「自裁としても切腹」について知るべきほどのことを知るものは、武士の時代においてさえ、極めて乏しかったのである。作法とてなかったであろうと言ってもいいほどである。

新渡戸稲造は Bushido, the Soul of Japan 中に九百余語に及ぶ大量の英文を、《正確無比以上に》正確無比に引用している。 アルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォードの『古き日本の物語』から備前藩士・滝善次郎の事細かに描写された切腹場面である。一字一句たりとも過ちのない驚嘆すべきほど正確無比の引用で、新渡戸稲造という人物の極めて几帳面な性格を垣間見る思いがする。引用している箇所の冒頭の一節では、文の途中から引用してあるため、原文では"we"だが新渡戸は" We (seven foreign representatives)" と補足している。原文 "misterious "を" "myterious"と修正している(注 bushido)参照。

しかし、 切腹についての極めて興味を惹かれると共に実に示唆的な多くの記述は新渡戸稲造の『武士道』に引用されている箇所ではなく、その箇所を一部とするTales of Old Japan(Algernon Bertram Freeman-Mitford)の補遺[APPENDICES]中の一章"AN ACCOUNT OF THE HARA-KIRI"(pp.329--364)に見られる詳細な記述である。

こうした点は、第二部以降の話である。

恐るべき几帳面さを垣間見せてくれる新渡戸の正確無比な引用と、よく言えば融通無碍、批判的に言えば不正確であることを歯牙にもかけぬ矢切止夫の適当な引用は、まさに天と地ほどの際立つ対照を呈する。それを今なら、国家の紙幣に肖像が載る程の押しも押されぬ偉人、教養人(注五)と世に知る人とて少ない奇矯な説を連発した異能作家という対照、と言うことも出来る。

以上の雑談(断じて道草ではない)を第二部(『武士道』(矢内原忠雄訳)対「切腹の美学」(矢切止夫))へのつなぎとして第一部を終わる。

 

(その四 了)

(第一部 了)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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