『韓国訪問記』
2010年8月29日猛暑の大阪から、今年日韓併合100年の韓国の向かう。
早朝の関空からの旅立ち。わずか1時間20分でソウル仁川国際空港に着く。私にとっては10年ぶりの韓国だ。
ガイドの車貞愛さんに迎えられ、最初の訪問地天安市の「独立記念館」に向かって南へ南へとバスは走る。途中、東洋では一番長い橋、仁川大橋を渡る。下は海。広大な干潟が顔を出していた。
午後3時半、「独立記念館」に入る。何と今日8月29日はまさに100年前に日本が韓国、当寺の朝鮮を併合した日だと教えられる。広大な展示館を2時間余りかけて、今の韓国が独立に至るまでの歴史を学ぶ。日帝時代の展示物には、正視に耐えないものが多い。
小雨の中、「独立記念館」を後にしてソウル市内へ入って行く。夕刻7時過ぎ、夕食のカルビに舌鼓。生ダコにも挑戦するがあまり人気がなかった。午後8時半2日間の宿となるコリアナホテルに入る。
二日目30日は月曜日のため、公立の博物館などはお休み。当初の予定を変更し、市内めぐり。「景福宮」のみ開いており、午前中の見学に向かう。光化門(景福宮の正門)の所にあった植民地時代の「総督府」は跡形もなく撤去されて、堂々たる光化門がつい一週間前に復元完成したそうだ。この光化門をはじめ「景福宮」全体が、次々復元されつつある。正殿のみが私の記憶に残っていた。
朝鮮の国母、閔妃(ミンピ)が日本人によって暗殺された場所は、私の記憶では石碑のみ寂しくたたずんでいた所が、立派な御殿として復元されていた。ただし建物には彩色がされておらず、一抹の寂しさを感じた。あえて彩色しなかったそうだ。
北門も復元されており、そこから出ると正面に大統領府、「青瓦台」が護衛に守られ見ることができた。以前は見ることもできなかった。背景の北岳山が美しい。
午後からは、タプコル公園(3.1公園)日本からの独立運動が始まった場所だ。ハングルでサムイル公園と書かれた韓国風な門をくぐると右手に「独立宣言文」が大きな石に刻まれている。ここから韓国の各地に飛び火した独立運動は多くの悲劇を生みながら全土に広まった。その中でもチアムリ事件は最大の悲劇であったそうだ。今回訪れることは出来なかったが、チアムリ村の教会に村人が集められ、火を放たれて全員虐殺されたという。
公園の奥の12枚のレリーフには、各地での独立蜂起の様子が刻まれている。すべてのレリーフに、銃剣を持ったの本軍が描かれていた。あらゆる階層の人たちが蜂起している様子は凄い。
その後、疲れから一旦ホテルに戻り、免税品店や、明洞を散策。私はここで一旦みんなと別れ、なつかしい友人家族と夕食を共にした。20年くらい前に熱心に私に韓国語を教えていただいた先生だ。名残惜しかったが10時前、ホテルに戻る。
訪韓最終日31日は「ナヌムの家」、「西大門刑務所博物館」を訪問。ソウルからバスで1時間半ほどの少し山間に「ナヌムの家」はあった。社会福祉法人として、大韓仏教曹渓宗が運営している。韓国の仏教会も捨てたものでない。1時間半ほどかけて、日本人のボランティアから「日本軍慰安婦歴史館」の展示物説明を受ける。世界の軍隊でも慰安婦を連れて歩いたのは日本軍だけであるとの話には、驚きと戸惑いが走った。女性に対する性的虐待の極みではないか。その後入所しているハルモニとお会いし、お話を聞く。生野区にも住んでいたことのあるハルモニからは、身に詰まるお話を聞く。いずれこれらハルモニたちが亡くなっていった後、誰がこれらの証言を引き継ぐのか。本当なら、日本の国内にこういう施設を作るべきだと感じた。
その後、ソウルにもどり、最後の訪問地「西大門刑務所博物館」に入る。全体がきれいに整備されつつあったが、独房や、死刑場、屍躯門は正視できない場所だ。独立運動でジャンヌダルクと称された柳(ユ)ガンスの入れられたと思われる獄舎が印象に残った。わずか17歳にして獄門に散った彼女が、新しいお札の肖像になりかけたそうだ。
韓国滞在の残り時間も少なくなり、最後の昼食石焼きビビンバをいただいて空港に向かう。内容の濃かった3日間。以前訪問したときとはまた違った印象だった。
夜の9時前、猛暑の大阪に帰り着く。
2010年8月29日猛暑の大阪から、今年日韓併合100年の韓国の向かう。
早朝の関空からの旅立ち。わずか1時間20分でソウル仁川国際空港に着く。私にとっては10年ぶりの韓国だ。
ガイドの車貞愛さんに迎えられ、最初の訪問地天安市の「独立記念館」に向かって南へ南へとバスは走る。途中、東洋では一番長い橋、仁川大橋を渡る。下は海。広大な干潟が顔を出していた。
午後3時半、「独立記念館」に入る。何と今日8月29日はまさに100年前に日本が韓国、当寺の朝鮮を併合した日だと教えられる。広大な展示館を2時間余りかけて、今の韓国が独立に至るまでの歴史を学ぶ。日帝時代の展示物には、正視に耐えないものが多い。
小雨の中、「独立記念館」を後にしてソウル市内へ入って行く。夕刻7時過ぎ、夕食のカルビに舌鼓。生ダコにも挑戦するがあまり人気がなかった。午後8時半2日間の宿となるコリアナホテルに入る。
二日目30日は月曜日のため、公立の博物館などはお休み。当初の予定を変更し、市内めぐり。「景福宮」のみ開いており、午前中の見学に向かう。光化門(景福宮の正門)の所にあった植民地時代の「総督府」は跡形もなく撤去されて、堂々たる光化門がつい一週間前に復元完成したそうだ。この光化門をはじめ「景福宮」全体が、次々復元されつつある。正殿のみが私の記憶に残っていた。
朝鮮の国母、閔妃(ミンピ)が日本人によって暗殺された場所は、私の記憶では石碑のみ寂しくたたずんでいた所が、立派な御殿として復元されていた。ただし建物には彩色がされておらず、一抹の寂しさを感じた。あえて彩色しなかったそうだ。
北門も復元されており、そこから出ると正面に大統領府、「青瓦台」が護衛に守られ見ることができた。以前は見ることもできなかった。背景の北岳山が美しい。
午後からは、タプコル公園(3.1公園)日本からの独立運動が始まった場所だ。ハングルでサムイル公園と書かれた韓国風な門をくぐると右手に「独立宣言文」が大きな石に刻まれている。ここから韓国の各地に飛び火した独立運動は多くの悲劇を生みながら全土に広まった。その中でもチアムリ事件は最大の悲劇であったそうだ。今回訪れることは出来なかったが、チアムリ村の教会に村人が集められ、火を放たれて全員虐殺されたという。
公園の奥の12枚のレリーフには、各地での独立蜂起の様子が刻まれている。すべてのレリーフに、銃剣を持ったの本軍が描かれていた。あらゆる階層の人たちが蜂起している様子は凄い。
その後、疲れから一旦ホテルに戻り、免税品店や、明洞を散策。私はここで一旦みんなと別れ、なつかしい友人家族と夕食を共にした。20年くらい前に熱心に私に韓国語を教えていただいた先生だ。名残惜しかったが10時前、ホテルに戻る。
訪韓最終日31日は「ナヌムの家」、「西大門刑務所博物館」を訪問。ソウルからバスで1時間半ほどの少し山間に「ナヌムの家」はあった。社会福祉法人として、大韓仏教曹渓宗が運営している。韓国の仏教会も捨てたものでない。1時間半ほどかけて、日本人のボランティアから「日本軍慰安婦歴史館」の展示物説明を受ける。世界の軍隊でも慰安婦を連れて歩いたのは日本軍だけであるとの話には、驚きと戸惑いが走った。女性に対する性的虐待の極みではないか。その後入所しているハルモニとお会いし、お話を聞く。生野区にも住んでいたことのあるハルモニからは、身に詰まるお話を聞く。いずれこれらハルモニたちが亡くなっていった後、誰がこれらの証言を引き継ぐのか。本当なら、日本の国内にこういう施設を作るべきだと感じた。
その後、ソウルにもどり、最後の訪問地「西大門刑務所博物館」に入る。全体がきれいに整備されつつあったが、独房や、死刑場、屍躯門は正視できない場所だ。独立運動でジャンヌダルクと称された柳(ユ)ガンスの入れられたと思われる獄舎が印象に残った。わずか17歳にして獄門に散った彼女が、新しいお札の肖像になりかけたそうだ。
韓国滞在の残り時間も少なくなり、最後の昼食石焼きビビンバをいただいて空港に向かう。内容の濃かった3日間。以前訪問したときとはまた違った印象だった。
夜の9時前、猛暑の大阪に帰り着く。