失敗。田舎暮らし ブログ

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ミスKGBとジョージア娘

2022年03月03日 19時01分52秒 | 出版

いつもカジュアルな服装でやってくる通訳がスーツとネクタイで正装していた。

その日は、KGBの取材があった。

 

1991年ソ連邦の崩壊によって、KGBはこれまでの組織を解体し、ロシア連邦保安庁と対外情報庁などに分かれた。保安庁は警察組織、情報庁は対外諜報機関となった。

 

私は、そのソ連邦崩壊の前と後、両方の時期に現地で取材をした。

今回は、KGB分割の直前の話。

ソ連では、ゴルバチョフ大統領がペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を掲げて、民主化に傾いていた。

 

そのころ「KGBの民主化」もソ連邦で議論されていたが、その内容が不明だった。

「KGBの民主化をどのように実現するのか?」と取材依頼をしたら、

KGB本部から「取材を受ける」と返答があった。

取材協力しているロシアの通信社が「信じられない」というほど、異例の対応だった。

KGBは、外国のプレスに対して柔軟に対応することで、イメージチェンジしたかったようだ。

 

とはいえ、市民は、当時のKGBに対して良い印象はなかった。

それまでは、言論の自由がなく、あらゆることに統制や制限があった時代だったから、

KGBが民主化するなど、誰も信じていなかった。

 

しかし、改革は始まっていた。

 

KGB本部に入ると、広報担当がインタビューに対応した。

広報担当者は、どのような質問にも穏やかに応えていた。

 

私は「週刊プレイボーイの特派記者」としてプレスカードも所持していた。

当時のソ連邦でも「プレイボーイ誌」は有名な雑誌として知られていた。

そういうブランド価値があったからだと思うが、広報担当者は終始、にこやかだった。

 

そして、突然、私にこう聞いた。

「あなたは、ミスKGBに会いたいですか?」

 

えっ? 私は、通訳に、いま何って言った?と確認した。

「彼女が近くにいるのです。ミスKGBに会いたいですか?」

と広報担当者。

ええ、可能ならインタビューしたいです。

「ちょっと待ってください。呼んできますから」

 

1分ほどして、ミスKGB、カーチャ・マヨーロワが部屋に入ってきた。

 

私は、ミスKGBにインタビューした世界で数名のジャーナリストの一人になった。

 

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