いつもカジュアルな服装でやってくる通訳がスーツとネクタイで正装していた。
その日は、KGBの取材があった。
1991年ソ連邦の崩壊によって、KGBはこれまでの組織を解体し、ロシア連邦保安庁と対外情報庁などに分かれた。保安庁は警察組織、情報庁は対外諜報機関となった。
私は、そのソ連邦崩壊の前と後、両方の時期に現地で取材をした。
今回は、KGB分割の直前の話。
ソ連では、ゴルバチョフ大統領がペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を掲げて、民主化に傾いていた。
そのころ「KGBの民主化」もソ連邦で議論されていたが、その内容が不明だった。
「KGBの民主化をどのように実現するのか?」と取材依頼をしたら、
KGB本部から「取材を受ける」と返答があった。
取材協力しているロシアの通信社が「信じられない」というほど、異例の対応だった。
KGBは、外国のプレスに対して柔軟に対応することで、イメージチェンジしたかったようだ。
とはいえ、市民は、当時のKGBに対して良い印象はなかった。
それまでは、言論の自由がなく、あらゆることに統制や制限があった時代だったから、
KGBが民主化するなど、誰も信じていなかった。
しかし、改革は始まっていた。
KGB本部に入ると、広報担当がインタビューに対応した。
広報担当者は、どのような質問にも穏やかに応えていた。
私は「週刊プレイボーイの特派記者」としてプレスカードも所持していた。
当時のソ連邦でも「プレイボーイ誌」は有名な雑誌として知られていた。
そういうブランド価値があったからだと思うが、広報担当者は終始、にこやかだった。
そして、突然、私にこう聞いた。
「あなたは、ミスKGBに会いたいですか?」
えっ? 私は、通訳に、いま何って言った?と確認した。
「彼女が近くにいるのです。ミスKGBに会いたいですか?」
と広報担当者。
ええ、可能ならインタビューしたいです。
「ちょっと待ってください。呼んできますから」
1分ほどして、ミスKGB、カーチャ・マヨーロワが部屋に入ってきた。
私は、ミスKGBにインタビューした世界で数名のジャーナリストの一人になった。
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