ムツ兄の、てげてげ人生日記

シマッチュ(奄美人)のムツ兄が、奄美での「テゲテゲ」(気まま)な暮しを記します。

私の時代は終わった…元ブラジル代表・ロマリオが引退表明

2008年04月15日 20時00分00秒 | サッカー
 禁止薬物に陽性反応を示したとして科された120日間の資格停止処分は今年2月に撤回されたが、「昨年11月以来プレーしておらず、体重が3、4キロ増えた。この年齢では、プレー出来る体に戻すのは難しい」と語った。

 ロマリオは、1994年ワールドカップ(W杯)米国大会で優勝に貢献するなどブラジル代表では73試合に出場して56得点。バルセロナ(スペイン)など国内外のクラブでも活躍した。昨年は自己申告の数字ながら、「生涯通算1000ゴール」を達成した。
(2008年4月15日19時14分 読売新聞)

ペレ以上、ジーコ以上にブラジル国民から愛される本能のストライカー。ゴール前でボールがこぼれる所には必ずといっていいほどロマーリオが持ち受けており、そのボールを難なくゴールネットにパスするのは彼の専売特許とも言えるものだった。
 ブラジルの名門バスコダガマ所属時に注目を浴び、1986年、母国ブラジルで得点王のタイトルを獲得。PSVアイントホーフェン所属時とバルセロナ所属時にもそれぞれ得点王に輝き、己が唯一無二の存在である事を世界に知らしめる。特にアイントホーフェン所属時の活躍振りは驚異的と言うに相応しく、3年連続で得点王に輝く離れ業をやってのけ、チームのリーグ4連覇の原動力となる。
 だが、そんな天才ロマーリオにもフィットしきれないチームがあった。そのチームとは、皮肉にも彼が最も情熱を傾けたブラジル代表だった。1990年ワールドカップは僅か1試合の出場にとどまり、ロマーリオを冷遇したブラジル代表は決勝トーナメント1回戦で敗れる屈辱を味わう。1994年ワールドカップではベベットという最高のパートナーがいたこともあり優勝に輝くが、当時のロマーリオの実力を知る者ならば彼が本領を発揮していない事ぐらいは明白だった。
 1998年、2002年は代表監督との確執もあり本大会のメンバーから外れる屈辱を味わい、記者会見で人目もはばからず涙を見せる。自身の性格が災いしたと考えるのが最も適当な考えだが、ロマーリオはその事を全く恥じておらず、ブラジル国民は余りに無垢な"我らの息子"を溺愛した。
 人民のヒーローとは、常に悲劇と隣り合わせにあるものだ。アルツール・フリーデンライヒがそうであり、ガリンシャがそうであったように。


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