お陽さまブログ

食・自然・生き方・精神世界等についてつぶやきます。

自分自身を見つめて

2021-05-04 08:01:39 | 日記




なぜ自分に起きたのか、それは自分にしかない原因があったから

あるところに真面目で、とても親切で、近所でも評判の奥さんがいました。ところがその奥さんはいつも一人になるとしくしく泣いていました。なぜかというと、その夫が、ろくに働きもせず、酒を飲んで、ギャンブルに明け暮れ、文句を言うとすぐに手をだしてしまうとんでもない夫だったからです。こんな場合は、夫のせいで、奥さんが苦しんでいるのですから自因自果とは言えないのではないでしょうか。

ところが、お釈迦様は、間違いなく、自因自果なのだよとお釈迦様は説かれます。どういうことなのでしょうか。

なぜ結婚したのか、それは好きになる業があったから

この奥さんはどうして、こんな男性に苦しめられねばならなかったのでしょうか?
それは、そんな男性と結婚してしまったからです。
どうしてよりによって、そんな男性と結婚してしまったのでしょう。
それは、明確な理由があるわけではなくて、何かぐっと魅かれるものがあったのでしょう。
周りの人は、「あんな男は絶対にやめときなさい」と反対したのですが、その奥さんは、そんな男性を好きなってしまう業(因)が奥さん自身にあったのです。

他の女性は、そんな男性がそばにいても、好きになってしまうとう業がありませんでしたから、結婚して苦しむという結果にはなりませんでした。

他の人にはなく、奥さん自身にしかない、こんな男性を好きになってしまうという深い業があったから、この奥さんがこんな男性と結婚して苦しむという結果が起きたのです。

なぜ自分に現われたのか、他の人にない原因が自分にあったから
そういう意味で、自因自果と言われます。

もちろん悪いのは夫ですが、それは因ではなく縁となったのです

では、「夫は悪くないのか?悪いのは、そんな男を好きになった奥さんというのか?」と思われる方もあるでしょう。

ここで、誤解されないようにしてほしいのですが、どちらが、良いのか悪いのかということを言われているのではないのです。

真面目に働かない夫はもちろん、倫理道徳的に見ても、善いとはいえません。ですが、そんな男性は、世の中、必ず、いるものです。
しかし、どうして、私がそんな男と結婚して、苦しまねばならなかったのかということは「夫が原因」では、説明が付きません。

なぜ私だったのか、それは私にしかない原因があったからということなのです。
奥さんと夫、どちらが悪いかといえば、当然、夫が悪いに間違いありません。しかし、それは原因ではなく悪い縁となったと説かれるのです。

因はあっても縁がなければ結果は生じない

どんな結果にも必ず原因がありますが、原因だけでは結果となりません。因に縁が合わさって初めて結果になるのです。
奥さんが、こんな男性を好きになってしまうという業を持っていてもそんな男性が周りにいなければ、一緒になって苦しむという結果は起きませんでした。
ところが、因と縁がそろってしまったのです。
奥さんのまわりの女友だちは、こんな男との縁はありましたが、そんな男性を好きになるという業(因)はありませんでしたので、結婚して苦しむという結果は起きなかったのです。

縁を恨んでも、苦しみの縄から抜け出すことはできない

苦しいことやうまくいかないことが起きますと自分自身に目を向けず、環境や条件、関わっている他の人に、その原因を求めます。
この奥さんの場合だと、夫をウラミ、自分が苦しむのはこの夫のせいだと思うでしょう。
しかし、相手を恨んでも、今の苦しみから抜け出すことはできません。
仮に、別れても、自分の内面に目を向けることができなければ、同じような人と出会って同じような苦しみが続くかもしれません。
縁を切ってしまうことも一つの方法でありますが、大事なことは、どうして、そういう人を選んでしまったのかという自分の内面に目を向けていくことが大事です。


日日是好日

2021-04-23 03:28:06 | 日記


日日是好日・毎日が幸せのタネまきができる素晴らしい日

確かに、道理理屈で考えても、日にいい、悪いがあらかじめ決まっているというのはおかしな考えです。もし、いい日、悪い日が決まっているのなら、いい日には、地球上の全人類にいいことが起きなければなりません。悪い日には、同じく、全人類に悪いことが起きなければなりません。

大安に結婚したカップルと仏滅に結婚したカップルとでは、仏滅のカップルのほうが離婚率が高いことにならねばなりませんが、そんな統計データを聞いたことがありません。
また、合格発表の当日、試験に合格した人はいい日ですが、不合格だった人には残念な日になってしまいます。同じ日でも、人によって、良い日になったり、悪い日になったりします。

だから、お釈迦様は、もともと、日によい、悪いが決まっているという考え方は、根拠のない迷信なのだよ、そして、根拠のないことをどれだけ信じていても幸せにはなれないのですよと教えられています。

では、私たちの今日の一日が、良い日になるのか悪い日になるのかは何によって決まるのでしょうかそれは 1人1人の行いが違うから、1人1人の1日は、まったく違うものになるのだよと教えられています。

結婚後の生活が、上手くいくかどうかは、結婚式を挙げた日によってきまるものではありません。その後のお互いの努力や思いやりによって決まるのです。試験に合格するかどうかも、受験した日や、合格発表の日で決まるのではありません。それまでのそれぞれの努力によって決まるのです。

最初から、悪い日というのは決まっていません、どんな人でも、幸せの種まきに心がければ、今日の一日をすばらしいものにできるのです。
自分の悪い種まきが、今日の一日を後悔の一日にするのです。どんな、雨風台風の日でも、一生懸命、良い種まきに心がければ、一歩前進、意味ある一日になります。

仏教の言葉に日日是好日(にちにちこれこうにち)という言葉がありますが、どんな日も、幸せのタネをまくことができる すばらしい日(好日)ということです。

お釈迦様の教え仏教辞典より。


自業苦

2021-03-26 18:55:50 | 日記


地獄とは、ナラカともいい、苦しみの世界のこと

人間の実相のたとえの最後に説かれている深海とは一体、何を明らかにされているのでしょうか。
この深海とは、地獄を例えています。
地獄という言葉を聞いたことはあると思いますが、そもそも、地獄とはいったいどういう意味なのでしょうか。
地獄というのは、古いインドの言葉で、ナラカと中国で訳されたものです。
ナラカは、漢字をあてると、奈落(ならく)になります。
これは、苦しみの世界という意味です。地獄とは、苦しみの世界ということです。
地獄絵図など描かれる、針の山を登らされたり、血の池地獄で苦しむ罪人の姿を見て、そんな世界、一体、誰が作ったのかと思う人もあるでしょう。
このことについて、こんな歌で教えられています。

火の車つくる大工はなけれども己が造りて己が乗りゆく

火の車とは、地獄(苦しみの世界)のことです。火の車(地獄)を作った大工はいない、自分で作った苦しみの世界に、自分で乗り込んでいくのだと説かれています。

仏教の地獄とは、自分の行いが生み出した世界です

仏教で説かれる地獄とは、自分の行いが生み出す世界です。
ですから、物理的な「地獄」という世界があるわけではなく、それぞれの業が生み出す苦しみの世界です。(業界)
ですから、地獄のことを、自業苦と、字を当てて教えられることもあります。
例えば、借金地獄とは、「借金地獄」という場所があるわけではなく、借金という行いが生み出す苦しみの世界を、借金地獄というのです。借金地獄で苦しんでいる人は、自分の借金という業が生み出した地獄で苦しんでいるのです。
あくまで、自業自得を一貫して説かれていることが分かります。


信念をもてば

2021-03-25 00:18:12 | 日記


信念を持って精一杯1日1日を生きていたら必ず同じ思いや志し。価値観のあう環境や人達が集まってくる。とにかく周りはどうでも良い。自分がどうあるのか?
波動と振動を高く強くして、自分で自分の環境を変えて行きましょう!
必ず自分が変われば周りも変わるのだなとつくづく最近の出来事に感謝感謝の日々です。
時間と労力はかかりますが、まだまだこれからです💪
ありがとう✨幸せです✨
弥栄ソワカ🙏

命の長さ

2021-03-21 16:45:46 | 日記




ブッダの説かれた命のはかなさ

四十二章経に、次のようなブッダのやり取りが説かれています。
ブッダが、修行者たちに命の長さについてどのように思うかを尋ねられました。
一人が「私も大分、命の短さが知らされてきました。一生といっても、一週間ほどの長さに思います。」といいました。
次の一人は、
「命の長さは五、六日なんてありません。 まあ、食事をいたす間ぐらいでございます。」と答えた。
最後の一人は、
「いやいや、命の長さは一息つく間もありません。吸うた息が出なかったら、それでおしまいです」と答えたところ、釈尊は最後の答えを大いに称賛され、
「そうだ。そなたの言う通り、命の長さは吸うた息が出るのを待たぬほどの長さしかないのだ。命の短さが身に染みて感じられるようになるほど、人間は人間らしい生活を営むようになるのだ」と仰いました。

出息は入息を待たず、命終わる

経の中に、釈尊は、
出息入息不待命終と説かれました。
出息とは、吐く息のことです。入息とは、吸う息のことです。
吐いた息が吸えなければ、吸った息が吐きだせなけれな、その時をもって命は終わります。
最初の男は、一生の短さを、一週間ほどだと答えましたが、一週間、生きておれると誰が保証できるでしょうか。2番目の男は、食事をする間ほどだといいましたが、その間、命があると言い切れるでしょうか。
真実は、吸う息、吐く息の今しかなく、吐いた息が吸えなければ、命は終わるのです。
このことが深くわかれば、無常を観ずるは菩提心の一なりと言われるように、今の一瞬、一瞬はかけがえのないものだということが知らされるでしょう。

仏教辞典より