お陽さまブログ

食・自然・生き方・精神世界等についてつぶやきます。

卑下慢

2021-02-26 02:01:26 | 日記




こんなに自分を下げられる私は偉いと思う心はありませんか?

卑下慢(ひげまん)とは、自分ほど、お粗末なものはありません。不出来なものですがどうぞよろしくお願いしますと深々と頭を下げることで、「どうだ、こんなに頭の低いものはいないだろう」とうぬぼれる心を卑下慢と言います。
何か仕事がうまくいったとき、周りから「すごいですね、さすがですね」と褒められた。それに対して「いやー、まぐれですよ」と答える。すると、相手が「本当にまぐれですね」と言ったら、カチンと腹が立ちませんか?
腹が立つということは、まぐれではないと思っているからです。「実力です」というとうぬぼれている奴と思われるので「まぐれですよ」と卑下して言ったということですね。
ケンカしたときに「ごめんわたしが悪かった」と謝り、相手が、「こっちも悪かったわ」と言ってくれたら、仲直りできます。ところが、「ようやく気が付いたの、あんたが悪いに決まっているでしょう」と相手がさらに突っ込んで来たら、「お前だって悪いだろう」と反撃したくなりますね。
自分を卑下していても、卑下することにうぬぼれる心がありますから、自惚れの心から離れきることはできないのです。

仏教辞典より。


我慢

2021-02-23 07:48:28 | 日記




本当は失いたくなかった友達や恋人とケンカして別れてしまった経験はないでしょうか?

できれば今でも仲直りしたい。だけどできない。それは、あなたの心に、強い意地やプライドがあるからです。
意地やプライドのことを、仏教では我慢といいます。自分が間違っていたと分かっても、どこまでも自分の考えを押し通す心です。つまり、「自分の考えは正しいのだから、絶対に謝らないぞ」と思う心のことです。
人は自分が間違っていたと分かっても素直にそれを認められず、自分の体裁を守るためにその間違いを押し通してしまいます。こんな心を仏教で我慢といいます。
この我慢は年とともに強くなっていくような気がします。
小学生の頃、友達とケンカして、「おまえとは絶交だ!!」と言っても、次の日になると「昨日はごめん……。やっぱり遊ぼう……」と仲直りできました。
中学生や高校生になると、そんなに簡単にはいきません。
「簡単に謝れるか」という我慢の心が強くなるからでしょう。
大人になってケンカすると、さらに仲直りが難しくなります。
お互いに向こうが謝るまでは絶対に謝らないと我慢は年を増すごとに強くなるようです。ちょっとしたことなのに、自分の非を認められず、離れ離れになる夫婦や友達、恋人はどれほどいるか分かりません。
「ごめんなさい」「悪かった」と素直に言えたら、かけがえのない人を失わずに済んだのに。そんな後悔が年とともに増えていきます。
私たちの意地やプライドは、大切な人たちを失ってまで守らなければならないほど大層なものなのでしょうか。
ほとんどの場合、後で振り返ると、くだらないことにこだわっていたと後悔するのです。
素顔の自分は本当は謝りたいと思っていながら、意地やプライドがじゃまをして言葉にできず、失いたくない人が自分から離れていくのを後悔しながら、どうしようもできずにいるのです。
そんな時、勇気を出して、素直に謝ってみましょう。勇気がいるかもしれませんが、大事な人を失う心の痛みと後悔に比べたら、大したことはないのではないでしょうか?

仏教辞典より。

過慢

2021-02-22 01:33:13 | 日記




条件が同じなら本当は自分の方が上なのにと思う心はありませんか

次に過慢とは、同じレベルの相手に対して、自分のほうが優れていると威張る心のことです。例えば、テストの成績で相手が七十点、自分も七十点で同じとすると、「相手は親が金持ちで家庭教師がついている。でも、私は塾にも行かずに独りで勉強している。条件が同じなら、本当は私のほうが成績は上だったのに」と思う心です。
同じ成績なら、ライバルだと思って切磋琢磨すれば、お互いの向上になるのですが、「条件が同じなら」という言い訳を付けて、本当は自分が上だと相手を認めることができない心ですね。

人間は他人との競争ばかりを考えて来た結果お互いが疲弊してしまい両方ダメになる。本質は他でもない自分自身との我慢比べではないでしょうか。

お釈迦様の教え。仏教辞典より。


結果は後から。

2021-02-19 00:47:44 | 日記


結果を求めて動くのではなく、結果は自分の行動による報酬として宇宙から与えられるもの❓らしい。

今までの時代は結果に向かい頭で考え行動してきたが、これからの風の時代は自分のワクワクややりたい事をまず精一杯やった事が結果になる✨そういう生き方が大切なんだそうだ。たしかにそう思う。

もしかしたら、地の時代とか風の時代とかは本来は関係なく、魂の領域でいえば人間がこの世で生きていくというのはそこが本質なのかもしれないと思う。

100万円欲しいからこれをやる❗よく思われたいからこうしていこう❗とかではなく、自分の思いや心から湧き上がる思いや考えに素直に従えば結果、思い描く現実が与えられるのだろうと思う。

周りにはいくつもの小さな幸せとワクワクが本当に沢山あることにも気付く事が出来たらまたさらに幸せな結果が訪れ心安らかな日々がおくれますね😊✨

他人の目は気にしない

2021-02-14 17:42:56 | 日記



他人の評価に振り回されて疲れていませんか?

最初の「他人鏡」とは、他人の目に映った自分の姿ということです。
私たちは他人からどう思われるのかを、大変気にしています。
そして、少しでも他人の目によく映ろうと無理してよそ行きの仮面をかぶったりしています。
誰しも、よく思われたいという名誉欲がありますから、他人からどう思われるかを全く気にせずに生きていくことは不可能です。
しかし、他人の評価=自分の全存在と思っているとしたら、これは大変危険なことです。
なぜなら、他人の目という鏡は、あなたをちゃんと見て正当に評価しているのかというと、全くそうではありません。他人の目とは、その人の都合によってコロコロ変わるゆがんだ鏡なのです。
室町時代の有名な禅僧、一休宗純の歌に、
今日ほめて、明日悪く言う人の口、泣くも笑うもウソの世の中というものがあります。
この歌の意味は、今日まであなたはいい人ねと褒めていても、都合が悪くなるとそんな人とは知らなかった、だまされていたよと、途端に態度を変えて悪口を言いだすのが他人なのだよ、ということです。
たしかに、あの人はいい人あの人は悪い人とよく言いますが、その基準は何かといえば、それを言う人の都合ですね。自分にとって都合のいい人はいい人に思えます、自分にとって都合の悪い人は悪い人に思えてしまいます。
【都合によってコロコロ変わるのが他人の評価】

こういう話があります。フランスの英雄ナポレオンが、民衆を前にして喝采を受けている時、部下が「閣下、あの民衆の称賛をごらんください!」と言いました。
すると、ナポレオンは、民衆の称賛ほど当てにならぬものはない。ひとたび戦争に負けると、私を断頭台に送れと言うのだからと言ったそうです。
このように、人は、ある人が勢いのいい時は、「頑張れ、頑張れ」と褒めそやします。逆に、その人の旗色が悪くなると、手のひらを返したように非難します。これが「他人の目」という鏡の実態なのです。
「周りから悪く言われた、けなされた」=「あなたが悪い」ということではありません。
あなたの行いが、あなたをけなした人の都合に、たまたま合わなかっただけなのです。
逆に、あなたが周りから褒めはやされても、自分はすごいんだと舞い上がって有頂天になるのも危険です。
あなたの行いが、たまたま、あなたを褒めた人の都合に合っただけだからです。
都合が合わなくなると、そんなひどい人だったのか。だまされていたと、見方がコロリと変わってしまいます。他人の評価に惑わされてはいけないのです。

もちろん、周りからよく思われたいという気持ち自体は大事なことです。よく思われたいという気持ちが、善い行いをしようとする原動力になるからです。
だけれども、無理をしていい人を演じようとするのは、無意味で疲れるだけではないでしょうか。他人の評価というコロコロと転がる玉の上に、何とか上手に乗ろうとしても、いつ引っ繰り返るか分かりませんから、不安で疲れてしまいます。

ブタは褒められてもブタ、ライオンはそしられてもライオンという格言があります。たとえ褒められたとしてもブタはブタです。けなされたからといって、ライオンはライオンです。周りから褒められようが、けなされようが、あなたそのものは変わらないのです。

仏教辞典より引用。