ある人がしばらく入院していて、退院して復職してきた。
ちょっとだけ、会話しました。
まぁ、無理しないで。
>長く生きても仕方がない
>苦しまないで、痛くなく死にたい。
再発率とか、再発するとか、病状とか、病名は知らない。
ただ、普通に、その人は、人生が送ってこれた、ように私には思えた。
私にはなんとも言えない。
前にも書きましたけど
私は幼い時からよく思うのです。
なぜ、人はこんなにも苦しまないと死ねないのだろう。と。
AIに確認すると、
”聖書、特にキリスト教の視点では、死や苦しみについて深い考察があります。まず、旧約聖書の『創世記』では、人間の苦しみや死は原罪(アダムとエバが神の命令に背いたこと)に由来するとされています。つまり、苦しみは人間の堕落した状態の一部として存在する、という考え方です。しかし、新約聖書では、イエス・キリストの十字架上の死と復活を通じて、苦しみや死に意味が与えられ、救いの道が開かれたとされています。例えば、『ローマ人への手紙』8章17節では、「もしキリストと共に苦しむなら、共に栄光を受ける」とあり、苦しみが無意味ではなく、神との関係の中で変えられると示唆しています。
ただし、聖書が「なぜ個々の人が苦しまなければならないのか」に具体的な答えを常に与えているわけではありません。むしろ、『ヨブ記』のように、苦しみの理由が人間には完全には理解できない場合もあると認めています。ヨブは正しい人なのに苦しみに遭い、神に問いかけますが、最終的に神の答えは「私の計画はあなたを超えている」というものでした。つまり、苦しみには人間の視点を超えた目的があるかもしれない、ということです。
他の宗教ではどうでしょうか。例えば、仏教では、苦しみ(「苦」)は人生の本質的な一部であり、四聖諦を通じてその原因(執着や無知)と克服法が説かれています。死の苦しみも含めて、輪廻の中で繰り返されるものとされ、悟りを得ることで解放されると考えます。ヒンドゥー教でも、カルマの法則に基づき、苦しみは過去の行いの結果として現れるとされますが、最終的には魂が解脱(モークシャ)することで苦しみから自由になるとされています。
結論として、聖書や他の宗教は「なぜ苦しまないと死ねないのか」という問いに直接的な「はい/いいえ」の答えを与えるよりは、苦しみや死をより大きな枠組みの中で理解しようとする視点を提供していると言えます。キリスト教なら救い、仏教なら悟りといった形で、それぞれが苦しみに意味や乗り越え方を見出そうとしています。”
確かに、神の愛と人間の愛、には大きな乖離があり、その断端は分かっているつもりです。