いわきアッセンブリー教会ブログ 

恵みをシェアするブログ

思い込み

2018-09-21 | 日記
私たち人間は、何かにつけて「良し」「悪し」を決めつけてしまうことが多いのでしょう。

ある人は、その良し悪しは「思い込みにすぎない」と言っています。
その人が例に挙げていたのは、自閉症の人を見て、本人と家族をかわいそうと思い、良くないことと決めつけてしまうことは
思い込みなのだと言っています。自閉症の家族は困難も多いけれども、かわそうだ、あわれだ、不幸だと思っていないばかりか、むしろ、そうであったからこそ、教えられることも多く、喜んでいるという人も実際いるのです。

私自身の例を一つお話させていただくと
私は養護施設(孤児院)で18歳まで生活していたのですが、何度か、養護施設に入れられ「かわいそう」という言葉を聞いたことがあります。
今振り返ると分かるのですが、寂しいという思いがあったのは事実でありますが、かわいそうではなかったのです。
しかし当時の私は、この大人の言葉に捕らわれて自分はかわいそうな人間だと信じ込んでいたように思います。

親と暮らせずかわいそう、、、それは、自尊心や肯定感を奪う辛いものとなって私を苦しめたのです。

しかし施設の大人は、そういう私と向き合い、そこから解放させようと奮闘してくださったことによって、「私はかわいそうな人間で
生まれて来なければよかった人間ではない」ということを思わせくれるものとなったのです。

その施設での経験は今に生きています。
偏見は低く、皆のいのちは尊いと思えること。

人の良し悪しがあてにならないと思えるようになったのは、後になってから分かってくることが多いように思います。
その時は辛い経験かも知れませんが、決してすべてが悪いということは無いのかも知れませんね。


偏見と先入観で良し悪しというレッテルを貼り、人の権利や尊厳が奪われてはならないのだと思います。

欠点と思い込まれ、悪しきことと思い込まれていることも、実は、「良し」ということは沢山溢れています。

失敗、挫折、病、仕事、人間関係、、どれもこれも、表面的、人間的には、悪しことと思われることも
それは思い込みと疑い、違う視点から物事を見、特に良しの視点から見ることも必要ではないでしょうか。











静まること

2018-09-13 | 日記

現代を生きる上で欠かせないものとは何ですか、、、。
携帯電話やパソコンという人が多いのだと思います。
携帯電話を手放すことができず、何時間も携帯を見つめる人。
しかし、その情報に溢れた生活が、自分にとって本当に欠かせないものなのだろうか。


「静まる」こと。一人静り自己の心を見るとき、大切なことが見えてきたり、教えられたり、
誤ったことを反省し、矯正できたりします。そういうことは頭では理解しているが、携帯電話がやめられない。それは依存の症状と言われています。
何に依存するかで人生が変わってしまうのです。本当は恐ろしいことなのです。

もし「静まり」、いのちそのもののダイナミックさを味わうことができるとしたら。

自分自身を肯定でき、他者や状況も受け入れ、生きることに希望をもって、楽観的に、肯定的に、建設的に、前向きに
あきらめないで、生きる者へと変えられるのなら、静まりたいと思うはずです。

今日、静まってみて、自分は本当に弱い人間であることを痛く経験。これが私の本当の姿です。
正しいと言い張っても、自分で自分を肯定しようと頑張り、強がってみせても、自分を正しく見ることができれば
私は弱い人間だということは事実であります。そういう中で私は、信仰によって主が強くしてくださるという経験をさせていただいています。

静まり、本当の姿(仕事、経済、人間関係、健康)をありのままに見るということを避けてしまう私たち。ある意味、情報過多の世界にどっぷり
浸ったり、また何かに忙しくしていたら、本当の姿を見なくてよくて楽なのかも知れないが、そのつけは、結局のところ、自分に返ってくるものではないでしょうか。

あなたが順風満帆ときでも、試練のときにも、あなたのいのちが生きるために静まることができないでしょうか。
自分のいのちを生き生きとさせるものが何かを知ることができるよう強く思っています。
もし、あなたのいのちを生かす何かがあれば、どんな時でも希望をもって前進して行けるのではないかと思っているかです。

自分を生かすために「静まる」、そんな生活ができると、周囲も変わってくると信じます。


祝福

聖めてください

2018-09-04 | 日記

人生において、心の清さは何かを成し遂げるより大切ではないでしょうか。

クリスチャンは神様にあって聖くされることを勧められています。
神様から離れ、自己を絶対化し、神になって高ぶること、心の邪悪さ、苦々しい思い、このようなものを聖くされながら歩んでいかなければと思います。

主よ、他のだれでもない、私の心を聖めてください。