いわきアッセンブリー教会ブログ 

恵みをシェアするブログ

子育て論

2017-06-30 | 日記

幼児期の両親との「人間的な触れ合い」が幼児の健やかな成長に必要であることは言うまでもないことでしょう。
幼児は身体を通してコミュニケーションをとり、身体で親の愛情を体験するからである。

娘は保育園で社会性を始め、さまざまなことを学んでいますが、愛情において
保育園に丸投げし、かまけるならば、後でツケが回ってくることは必至。


亀口憲治(臨床心理士)は次のように言っています。

問題を抱えた子どもの心理相談で出会う母親の中には、
「この子は幼いときは少しも手がかからない良い子だったのに、どうしてこうなってしまったのでしょう」
と訴える者が多い。つまり、要求がましくない、ひとりで機嫌よくしている子どもは、親の愛情を十分に
受け取る好機を逸する危険性を抱えていることになる。(家族の問題)

保育園で手のかからない子で良い子になることは成長を実感できるので嬉しく思いますが、、
危険も潜んでいることを忘れてはならない。


結局、両親の価値観が子育てに影響する。どんな人間になってほしいのか、、、、
ということが問われている。何を優先すべきか、、、。
こういうことをもっともっと考える場があってほしいと、、願う。



亀口は更に、幼児期の身体的触れ合いは、愛される体験が子どもの成長だけにとどまらず、
今度は子どものほうが他者を愛せるようになるための基本体験となると言っている。
また、両親も周囲の人々を愛する能力を高めることにつながる。とも言っている。

相互補完的な絆の役割を担っている。


確かに、そうだなと。。

今日も父親の力強い触れ合いを注いであげたくなる娘。

たまに嫌がることも、、、それも成長のあかしですね。適度な親密と境界を保って今日も歩む。。












隠れた善

2017-06-29 | 日記

画家ミレーは有名ですね。

落穂ひろい・・ぐらいしか思い浮かびませんが、、、
落穂ひろいなんかは聖書の背景を知っているとより深みのある見方にされると思います。


ところで、巨匠ミレーと言われる彼も売れない貧しい時期がありました。

そのころのお話しをご紹介します。

まだ名が知られていない頃、貧しさで飢えと寒さとに震えて過ごしていました。
そんな時、友人セオルド・ルソーが訪ねてきました。

ミレーが最近描き終えたばかりの「接木をする農夫」が部屋の隅にあるのをルソーが見つけ、

「これは素晴らしい。実は、ある人からよい絵があったら欲しいと頼まれていたところだ。
この絵を5百フランでゆずってほしい」と、喜んで買って行きました。

ミレーは思わぬ収入で、あったかい食事とストーブで、久しぶりのだんらんの時を過ごすことができました。
みじめな冬は明るい日々となりました。


それから数年が経ったある日、ルソーの家へ久しぶりにミレーはやって来ました。
この頃には、ミレーの絵も売れだしていました。

ルソーの家に入ると、その壁には、かつてミレーが描いた「接木をする農夫」の絵がかけているではありませんか。

すべてを悟ったミレーは、親友ルソーを抱きしめ「ありがとう」と言ったそうです。



このような経験を私もさせて頂いて分かることは、その人のこととされたことをいまだに覚えているということです。


誰かのために生きることは素晴らしいことです。

ルソーは絵を買ったことで当時、苦しかったかもしれません。

でも、それ以上の幸せを体験できた人ではないでしょうか。感謝











見るもので人生が変わる??

2017-06-02 | 日記

教会へ来た人の中にこんなことを言う人がいます。

驚きつつ「こんな近くに教会あったの知らなかった」。。。
それを聞いて、こちらがびっくりです。。。

自分の関心のないことは「見ようとしない」こと、確かにありますね。
私が車で行き来している通りに鹿島通りという道がありますが、
ある日、あるお店を探していると「ここにも、ここにも、ここにも、、、
美容院がある」すこし脇道に入っても美容院があり激戦地ということを知りました。。。

人は自分の見たいものだけを見ていること多いのだと思います。


他にも見ない原因あるようです。

近所で小学生の標語の看板に
「かんけいない、見ないフリも いじめです。」

見ていても、見ないフリ、、、鋭い小学生です。
これも確かにあります。
見ないフリをするようなこと、、、その隣にあるものは「人生の宝」になるようなものなのかも知れません。


見たいものだけでは真に豊かな人生、幸せな人生を歩めるのでしょうか。

人は苦しみや挫折の時、本当に大切なものが見えてくるというのは真実なことと多くの人々が認めていることです。
そう考えると、、、苦しみはただ苦しいものではなく、真に大切なことを見させ、教えてくれる教師であると考える人へなれないでしょうか。
苦しみは真に大切なことを「見つめ」させてくれる良き機会です。


あの苦しみは「幸せだった」と振り返えられますように。。。