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新聞記者の雑記帳
新聞記者嵐山太郎がお贈りするプログです。社会、政治からマスコミまで取り上げます。
 



JR福知山線脱線事故報道は、多くの記者にとって実は疑問の多いものとなりました。
JR福知山線の脱線事故から2カ月。わが社も含めてマスコミ各社ともあいかわらずの過熱報道だった。
この2カ月の報道を見てみると、だいたい3種類の記事に分けられる。一つは事故原因を探ろうとするもの、そして二つ目が、JR西日本社員の「不適切な行為」を糾弾する記事、最後に遺族の思いや被害者の人柄を紹介する記事だ。毎度毎度、この手の事故が起きるとそうなるけれど、事故原因を探ろうとする記事が一番お座なりだ。これこそがメディアの使命だと思うんだが…。
今回特にすごかったのが「不適切な行為」糾弾記事だね。新聞紙面には連日のようにJR社員の「不適切な行為」に関する記事が掲載された。「事故当日にJR社員がボウリング大会を開いていた」「韓国旅行に行っていた」「車掌が宴会をしていた」と、ヒステリックなほどの糾弾記事が続いた。
しまいには、脱線事故から2週間もたった5月8日に、事故現場から30キロ離れたゴルフ場で民主党の参院議員らがゴルフコンペを開いていたことまで批判の対象となった。こうなると、もう何でもありだ。民主党議員の「不適切な行為」は、「週刊朝日」が最初に書いたんだけど、「スクープ」と銘打たれていた。コンペ参加者の中には、「事故の原因追及をする要職にある議員も複数いた」そうだけれど、だからといってこんな記事のどこがスクープなんだろうか。いくらなんでも、2週間もたってから休日にゴルフをしていたことで攻められるいわれもないだろう。
僕も経験があるけど、大事件が起きると、とにかく上司から連日、「続報」を書くように求められる。しかも1本や2本じゃない。一面にも社会面にも、内政面にも、どんなネタでも続報を書かなくちゃならない。ネタがあってもなくても。事故の原因究明こそが重要なのに、どうしても、本質から離れた内容でも記事にしなくちゃならなくなる。
翌朝のライバル紙に、デカデカと続報が載っているのに、自分のところだけまったく関連記事がないというわけにいかないからね。だったら、もっと本質の部分に人員を割いて徹底的に究明すればいいのに、上司も原因究明よりも、糾弾ネタや遺族回りの方に人員を割く。結果的に本質的な問題の方は、国土交通省なんかの発表ものばかりで、何の独自性もない。
事故の原因究明なんて手間はかかるけど、なかなか結論が出ないからね。しかも、新聞記者はしょせんは素人。専門知識がないから、原因究明という部分では判断ができない。それでも時間をかけて徹底的に探っていけばいいのだけれど、報道合戦の中じゃあ、そうする余裕もない。
今回の場合、「不適切な行為」と並ぶ糾弾記事に「オーバーラン報道」がある。「どこそこの駅で、停車位置から何メールも行き過ぎた」「あっちの駅では何メートルだ」というやつだ。実際のところ、オーバーランなんてのはそう珍しいことでもない。こういう事故があると、普段はベタ記事にもならないようなものまで報道合戦になる。
その点、「サンデー毎日」の5月29日号に乗った牧太郎氏のコラム「青い空 白い雲」は冷静だった。タイトルは「『不適切!』と言われたら反論できない嫌~な時代」。本質から外れた報道を「JR西日本の社員は人命救助もしないで遊んでいる人、とでも言いかねない論調(中略)その世間のお怒り度に、僕はそら恐ろしいものを感じた」と書いていた。さらにちょっと大げさな気がしないでもないが、「何か、一億火の玉で米英に立ち向かう第二次世界大戦直前の雰囲気。史上最悪の脱線事故を契機に (あるいは利用して)国民の価値観を統一するキャンペーンが始まったのではないか、と疑りたくなる」と指摘していた。こういう冷静な声が、同じ新聞記者から上がると救われる思いだ。
事故から2カ月たち、各新聞社が事故報道の検証をしているけど、どう思う。
これも、あいかわらずだね。最近はメディア批判の声も大きいから、何か大事故や大事件があると、必ず報道の検証記事が載るんだけど、それでメディアがまともになるかといったら、何も変わっていない。
共同通信の検証で、遺族の一人のコメントが載っていた。「メディアはJR側の不祥事など書きやすいことばかり書いているように見える。再発防止を考えるなら、事故原因の解明にもっと力を注ぎ、安全対策の不備を追及する報道を心掛けるべきだ」という指摘には、まったく反論できない。
それでも各社とも何とか、自社の取材を正当化しようとしている。朝日新聞の検証記事は、いきなり「突然の事故で人生を断ち切られた人たちの生きた証しを、紙面に残したい。そんな思いで、記者らは遺族取材を続けた」だ。おい、おい、本当かよって思うね。確かに、そういう記者が一人もいないとは言わない。だけど、同じ記事中にあった「他社が取材したら取材しないわけにはいかない」というのが本音だろう。
共同通信の検証でも女性記者が「先着した記者数人は取材を終えていた。『出遅れた』と焦りインターホンを押す」と正直なところを書いている。
実際のところ、「生きた証しを、紙面に残したい」という記者は本当に少数派だろう。だから、事故現場で談笑したりするし、会社に戻れば、仲間内で馬鹿話もする。正直言って、大部分は上司の命令か、あるいは単に事件報道の昔からの慣例に従っているだけだ。だいたい「生きた証しを」なんて言うのなら、何も大切な家族が亡くなって茫然自失としている時に取材に押しかけなくてもいい。それこそ、事件から少しばかり時間を置いてからでもいいはずだ。ところが、遺体の確認も終わっていない遺族に、「どなたが亡くなられたんですか」と数十人の記者が殺到する。近所迷惑も考えずに遺族宅にも押しかける。真夜中だろうとお構いなしだ。遺族に顔写真の提供を拒まれると、近所や友人の家まで回って手に入れようとする。
残念ながら、マスコミの人間というのは、自分たちの正義をこれっぽっちも疑わない人種が少なくないからね。それで出てくるのが「犠牲者一人ひとりの人柄や日常生活を知ることで、事故の悲惨さが理解できるし、真相究明につながる。対策を求める世論にもつながる」というマスコミ特有の論理。確かに、犠牲者の人柄を知ることで、事故の悲惨さは強調されるかもしれない。だからといって、遺族の思いを踏みにじっていいわけじゃない。Cも言うように、事件から少し時間を置いて取材すればいい。何も1年も2年も待てというわけじゃない。せめて葬儀が終わるまで待つべきだろう。そうやってじっくりと取材した記事のほうが、実際は多くを語ってくれる。
結局、こういうところがマスコミ批判につながり、「報道の自由を制約すべき」という声が普通の市民からも上がるようになってきた原因だ。ほとんどの新聞記者は、記者になったばかりのころは、本当の意味での情熱を持っていた。それがどんどん会社の論理に流されていってしまう。しかも、へんてこりんな論理を振りかざすようになってしまう。
で、それを今後は政治家たちが利用するようになる。もうそろそろ、さして根拠のない独善的な論理を振りかざすのをやめないと、それこそ「報道の自由」が危ないことになる。


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コメント
 
 
 
スピードの悪魔 (標準戦艦)
2005-06-24 16:24:29
福知山線の事故原因は、それほど難しい原因で起こっている訳ではありません。

単純にスピードオーバーただそれだけです。

で、新聞社が本来問題にしなければいけないのが、何故事故は起こったかの要因と今後の対策だけのはずです。新聞記者は素人で良いのです。

一般人も素人ですから、素人が思う疑問を聞いて記事にする、ただそれだけで事が足ります。

では、何故過剰報道や的外れな報道が多くなるのでしょうか?

それは、現在の環境がスピードと情報に頼り、固定観念に捕われていて、インターネットで情報が速く入り、その全てが正確だと勘違いしている事が、大きな要因でしょう。

現場では何が起こっているかを、肌で感じ土地柄や風土などの情報も拾い上げるために、現地に記者を向かわせるのではないでしょうか。 せめて報道側は、スピードを求め過ぎた国民性位を、問題にして欲しいですね。
 
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