今、マスメディアは大きな批判にさらされています。被害者の葬儀にかけつけてところかまわずマイクを向け、写真をとる無神経さなど、口ではメディアスクラムを反省するかのようなことを言いながら、あいかわらずの報道姿勢です。そのマスコミの独善性が、政治家による言論封殺を招き、「マスゴミ」という呼ばれ方までする始末です。今回は自省の意味も込め、報道のあり方や言論の自由について語り合いました。
A>今やネットの世界を中心にすさまじいメディア批判が起きている。新聞記者の一人として正直言って悔しい。ただ、事件や事故の被害者をさらしものにするかのような報道に僕自身、これが報道の使命かという思いが強い。
B>そういうふうに思っている記者は意外と多いよ。ただ、ほとんどの記者は、そんなことを考えもしない。報道のあり方なんてことは何も考えずに動いているだけ。しかも、僕らのようなペーペーの新聞記者は、組織の歯車の中で回るだけ。回るのをやめようとするとたちまち弾き飛ばされてしまう。
C>大きな事件事故が起きるたびに被害者の私生活まで書き立てるヒステリックなほどの報道が正義だとは思わない。今は誰もが新聞もテレビも、メディアなんてものが正義じゃないことに気づいている。ここらで一度立ち止まって、真剣に報道のあり方を考えなくちゃならないのに、旧態依然たる編集幹部の連中はそんなことにも気づかない。
D>どうしてこんななんだろうねえ。福知山線の脱線事故でも、メディアが一生懸命になっていたのは被害者の話ばかり。それもまだ遺族が遺体に対面もしていない段階で取り囲む。「メディアスクラムを防ぐために取材の仕方に気をつけた」なんてことをどの社も言っている。じゃあ、どうしてメディアスクラムが今回も起きたのか。すべての社が報道被害が起きないように気をつけたなら、メディアスクラムが起きるわけがない。そんなことも気づかずにアリバイ的に、事故報道を検証した特集を載せ、「被害者の人柄、遺族の悲しみを報道することが、悲惨な事故をなくすことにつながる」なんて言っている。
A>もちろん、そういう報道がまったく必要ないとは思わない。被害者の人柄や遺族の悲しみをつづることが、世の中を動かす原動力になったこともあるだろう。でも、悲しみを伝えるのが事件直後である必要はない。せめて葬儀が終わるまで遺族への取材を控える、それぐらいの人としてあたりまえの心遣いがあってもいい。遺族がある程度落ち着くまで待ったとして、それで報道の価値がなくなるとか、風化するなんて考えるのは間違っている。正直言って、新聞記者を続けているとだんだんあたりまえの人間性がなくなっていくような気がする。
B>以前、サツ回りだったころ、先輩記者と飲みに行った時に、僕が、担当していた警察に警戒電話(定期的に事件事故が起きていないか確認する電話)をしたんだ。「もしもし、事件事故はないですか」って。事故はあったんだけど、物損。先輩が「何かあったか」と聞くから物損ですって答えたら、その先輩は「何だ、死ななきゃ商売にならん」。さすがに何なんだこの人はって思ったよ。冗談でも「死ななきゃ商売にならん」なんて言葉を吐くべきじゃない。事件記者を長くやったせいで、完全に感性が狂っている。人の死が商売なんて、それじゃあ、新聞記者は本当にただの寄生虫になってしまう。もともと新聞記者なんてのは、社会の生産になんの貢献もしていない。でも世の中を少しでもよくしようと頑張っているから、存在する理由がある。だのに、人の死を待ち望んでいるかのようなことを言うなんて、本当、これじゃあ、世の中に寄生しているだけだ。
A>そういう記者って多いよね。だから、被害者の葬式の時に平気な顔をして笑えるんだろう?
B>生き死にの話じゃなくて悪いんだけど、台風で何時間も大規模停電が起きたことがあってね、とにかくずっと停電なんだ。わが社は地方紙だから、そういうニュースもかなりきめ細かく載せるんだけど、夜の10時ごろにね、何を思ったのかデスクが「●●団地がまだ停電している。停電で困っている人たちの怒りの声を拾って来い」って言うわけよ。アホかっていうの。夜の10時だよ。しかも停電してて電気もつかないし、テレビも見れないんだから、とっとと寝てるよ。そんな時間に押しかけろって言うあんたの感性に腹が立つよ。
A>それでどうしたの。取材にいったわけ。
B>アホくさかったから、取材行くふりして車の中で寝てた。で、30分ぐらいしたところで「皆さん、もう寝てました」ってデスクに電話を入れた。デスクは「何とかしろ」って電話で騒いでたけど、「はいはい」って適当に答えてまた寝た。そしたら締め切りが来たんで終わり。おかげでそのデスクとは今でもちょっとね…。
C>ははは…。ところでさあ、毎日新聞が7月31日付朝刊で「被害者名発表 判断は警察任せとは暴論だ」という見出しの社説を載せてただろう。政府の犯罪被害者等基本計画検討会が、被害者名を公表するかどうかの判断を警察に委ねる旨を盛り込んだ基本計画の骨子案について書いた社説だ。
この社説は「それでなくとも警察当局による匿名報道が増えている折、警察の裁量が広がれば、捜査活動がますます不透明になりかねない。メディアの公権力監視機能を無視した暴論と言える」と訴えている。
それでね、「警察が被害者の名前などを明かさなくなれば、警察の発表をうのみにせざるを得なくなりかねない。極論すれば、警察が虚偽の発表で報道を誤導する余地さえ生じてくる」「一昔前、新聞などが匿名報道を原則とする少年や精神障害者による事件で、冤罪(えんざい)が繰り返されたことも忘れてはならない。警察など捜査当局の情報は可能な限り市民に公開するのが健全な民主社会のあり方でもある。不祥事を隠ぺいする体質でも分かるように、不都合なことを隠そうとする警察に、実名か匿名かを選択させるなど言語道断だろう」と。
確かにその通りなんだ。実際のところ、一人一人の警察官にはとても人間的な人が多い。ところが、いったん警察という組織になった途端、組織防衛が一番になる。裏金問題のような都合の悪い情報は隠すし、多くの冤罪も生んできた。だから、メディアがしっかりと監視していくのは重要なことだと思う。
ただね、現実には、この社説が書いているように「事件、事故が起きると、担当記者は警察が公表した情報をもとに加害者、被害者本人や周辺からの取材で裏付けを取った上で、事実を報道するべく努めている」なんてことは、世間の注目を浴びるような大事故や大事件をのぞけば、ほとんどない。日々の小さな事件事故では、ほとんど加害者から話を聞くなんてことはしない。
確かにデスクやキャップは「警察の発表を鵜呑みにするな、もっとよく取材してこい」とは言うよ。でも大事件を除けば、「もっとよく取材してこい」というのは、加害者にも取材しろという意味じゃない。警察から「発表資料に書いてないこと一つでも多く聞き出せ」ということだ。取材対象は同じ。実際、今の新聞記者は、昔のように昼間から麻雀するような暇はない。あまりにもゆとりがないもんだから、じっくり一つのネタを追いかけることもできない。冤罪事件だって、新聞やテレビのおかげで、冤罪とわかったケースなんてほとんどない。だって、加害者どころか、その弁護士にだって取材しないケースが大半なんだから。
D>その社説なら読んだよ。社説の中で「一部メディアの興味本位の報道が、悲しみに沈む被害者本人や家族、遺族らを傷つけたケースは少なくない。事件報道にプライバシー保護などの面で特段の慎重さが求められるのは当然だが…」とか「犯罪に社会として取り組まねばならぬ折、メディアに良識ある判断と自制が求められるのは当然だが」とか書いてあるけど、いかにもアリバイ的だったね。僕は毎日新聞は好きな新聞なんだけど、この社説はちょっとね。社説が言う「一部のメディア」というのは他人事みたいだ。日本の新聞、テレビで被害者のプライバシーを無視した報道をしていないところはないだろう。
だから、権力につけ込まれる。なすべきことをなさずに、事件や事故があった時に、被害者の気持ちを無視してマイクを向け写真をとる。葬儀の場に押しかけるどころか、病院に駆けつけた家族をわっと取り囲む。犯罪報道でも、警察の発表を現実には垂れ流している。そうしたマスメディアのやり方に国民の多くが怒っている。当たり前だ。僕だって、自分の家族が事故に巻き込まれた時に、「どんなお気持ちですか」なんてマイクを向けられてアホな質問をされたり、フラッシュをピカッとやられたら怒り狂うよ。そんなの人間として当たり前だ。
A>そう。それでどうなるか。「マスコミは自浄能力がない」となる。そして、被害者保護を建前にして、政治家がメディアや表現、言論を規制しようとする。個人情報保護法や人権擁護法案のようなメディア規制に反対する声を上げても、誰も共感してくれなくなる。今、国民の反メディア感情に乗じて、急速に政治家たちがメディアを縛ろうとしている。これはメディアの商業主義やわけのわからない独善的な「正義」が招いた結果だ。
C>残念なことだけど、マスコミの多くは、社内的な言論の自由がない。議論はしても、紙面構成をどうするかというような話ばかりで、今の報道のあり方のようなもっと根本的なことをじっくりと話し合うことがない。官僚にも負けないほど前例主義に陥っている。
B>それでも何とかして言論、表現の自由を守るべきだ。政治家たちはいろんな理由をつけて表現の自由、言論の自由を縛ろうとする。僕も、こんなもの守る価値なんかないって思うような雑誌だってある。だけど、守る価値がある言論や表現だけを守っていたんじゃ、表現の自由も言論の自由も守れない。守る価値があるのかないのかなんてのは多分に主観の問題だ。僕みたいな人間は、タカ派の言説に価値があるとは思わない。でも、逆にタカ派の連中からしてみれば、僕のような人間の言説を守る価値があるとは思わないだろう。
政治家にしてみれば、自分たちの失政を報道するマスコミに、守る価値があるなんて思わないに違いない。
本来、表現の自由とか言論の自由というのは、権力に対して物申すためにしっかりと保護されなくちゃならない。権力が守る価値があるかどうかを判断し、決めるようになれば、残されているのは北朝鮮のような独裁国家への道だけだ。
それに、守る価値があるのかどうか境界線上の事例だってある。エロ、グロ、ナンセンスの中にだって政治批判がある。いや、エロ、グロ、ナンセンスに見えるものが、権力に対抗するための武器であることも多い。守る価値があるかどうか境界線の事例では、自分の表現が保護されるかどうか分からないから、危ない橋を渡るのはやめようと自己規制も働く。そうなれば、笑うのは権力の側だ。
だからこそ、メディア批判はどんどんしてもらっていいけれど、読者には表現とか言論の自由なんていらないという考えだけは持たないでほしい。
C>長野を除くと今やすべての都道府県に青少年育成条例がある。「青少年の健全育成」のためにエロ本の販売を規制したりしている。「青少年の健全育成」なんていっている政治家が、変態疑惑を持たれたり、愛人問題が出てきたりと、とても健全育成なんて言えるような連中じゃないんだから、笑ってしまう。それに、実のところ何が青少年の健全育成に良くないのかなんてことはいくらでも定義しようがある。「セックス描写はダメ」の次に来るのが、「反政府的な言動は青少年に悪影響を与える」なんてことにだってなりかねない。今、タカ派の政治家たちがいっているのは、まさにそれ。「自虐的な歴史観が、若者の愛国心をなくした」と言っている。
D>そうだね。それと勘違いしちゃあいけないのが、政治家のプライバシー。僕は、政治家のプライバシーと一般の国民のプライバシーとは明確に区別されるべきだと思っている。娘の離婚問題を書いた週刊文春の出版を田中真紀子が差し止めしようとしたことがあったよね。「家族は関係ない。プライバシーの侵害だ」というわけだけど、冗談じゃない。
実際、多くの政治家たちが資産を妻や子供の名義にして資産公開をすり抜けるようなことをしている。選挙になれば、家族ぐるみで応援する。まして今や、自民党所属の国会議員の半数以上が二世や三世の世襲議員。つまり政治家と家族は一身同体だ。
B以前、ある事件の取材で政治家の自宅に押しかけたことがあるんだ。するとその政治家は「自宅まで押しかけるとは何事か」と怒り狂った。冗談じゃない。自宅だろうと、休みだろうと、政治家には説明責任がある。何か事件があった時に「今日は休みだから取材に答えない」なんてことが許されるわけがない。そんなことを許せば、政治家は不都合なことがあれば、家に逃げ帰ってしまえばいいことになる。権力というのは、常に腐敗して暴走する危険性がある。だから、権力を監視するためにも政治家のプライバシーは制限されて当然だ。
A>言論や表現の自由を規制して政治家がやろうとすることは、何のことはない、自分たちに不都合なことを書かせないようにすること。政治批判なんてのは、実のところ名誉毀損と紙一重のようなところもある。
残念ながら、新聞はどちらかというと、決定的な証拠がない限り、政治家の不正を書かない。ところが雑誌ジャーナリズムは違う。決定的な証拠がない段階でも不正を書く。そうやって明らかになり、結果的に刑事事件に発展した政治家の不正はいくらでもある。でも決定的な証拠がない段階で書くということは、一歩間違えると名誉毀損だ。そんな名誉毀損を繰り返す「言論」は規制してしまえとなる。
政治批判だって、「●●首相は独裁者だ」と書くことが名誉毀損にだってなりかねない。結果的にどうなるか。先ほどBが言ったように「これは名誉毀損で訴えられるかもしれない。危ないからやめよう」と自己規制するようになる。
「●●首相は独裁者だ」が危ないなら「●●首相はまるで独裁者のようだ」も、そして「●●首相は、周囲の意見を聞かず独裁的だ」も危ないという具合に、どんどん自己規制が広がっていく。この自己規制というやつは、いったん始まるとどんどん加速していく。
言論とか表現の自由というのは、それぐらい脆い。だからこそ政治家の言論介入を防がなくちゃならないし、そのためにも、マスメディアはつけ込まれるような隙を見せちゃあいけない。日本は、かつて今の北朝鮮にも負けないぐらいの言論統制をした経験がある。油断すれば、また同じようなことになりかねない。右翼だろうと左翼だろうと、こと言論の自由の問題については一緒になって戦うべきだ。そして、胸を張って一線の記者が戦えるよう、もう悲しみ、苦しんでいる被害者を追っかけまわすような無意味な取材はやめるべきだ。
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