http://diamond.jp/articles/-/47645?page=5
「忘れることの出来ないことは、昭和二十三年の暮、同氏の熱烈な勧めによって、私が日本で始めてテレビ放送事業を興す決意をした出来事である。(略)鮎川さんは戦前古くからアメリカで出来たテレビジョンに深く興味を持っておられて、将来は日本で之を実現させる為にその研究機関として、日産コンツェルンの全盛時分に、現在のビクターとコロムビアの両レコード会社を買収して、その傘下に入れて両社を中心にテレビの計画と研究を立てて居られた」(正力松太郎、前掲書、1968)。
清水与七郎と正力松太郎の回顧によると、戦後のテレビ放送創始時代に鮎川がこの2人を説得して日本テレビ放送網を設立させた、と読める。敗戦を挟んで鮎川はテレビというイノベーションに執着していたわけだ。まったく驚くほかはない。
日本ビクター蓄音器の親会社、RCAは1939年にテレビ受像機を発売した会社である。また、放送局のNBCを1926年に設立していた。米国コロムビアは大恐慌のさなかに経営危機に陥り、1938年に子会社の放送局CBSに逆買収されている。英国コロムビアは1931年に英国グラモフォンと合併し、EMIとなっていた。
本田美奈子さんの生前最後の3年間(2003-05年)は日本コロムビアと契約していた。デビューした1985年から90年までは東芝EMIと契約していたが、そのEMIである。1930年代、日産が買収するまで、日蓄=コロムビアの親会社は英EMIと米国コロムビアになっていたのである。
非常に複雑な企業統合史でわかりにくいが、EMIは英国コロムビアと英国グラモフォンの合併会社で、合併時に英米コロムビアの資本関係はなくなっている。英国グラモフォンはその名のとおり、米国ベルリナー・グラモフォンが設立した英国法人だ。ベルリナー・グラモフォンはビクター・トーキングマシンに改名しているので、1930年代の英EMIと米RCAビクターの源流は同じエミール・ベルリナーにたどり着くことになる。
日蓄=コロムビアは英米コロムビアと資本関係がなくなっても業務提携は続けている。日本ビクター蓄音器は、日産が買収したあとも、RCAビクターは出資を続けていた。鮎川義介のねらいどおり、最先端のテレビジョン技術は、日蓄と日本ビクターにも入ってくることになる。ところが、事態は急変した。
日産は満州へ移駐、レコード2社は売却
日産コンツェルンの傘下に入った日蓄=コロムビアとビクターだが、鮎川が日本ビクター蓄音器会長に就任してからわずか半年後、1937年12月30日にビクター会長を退任し、38年1月20日に日本蓄音器商会会長も退任、両社を東京電気に売却してしまう。
鮎川は満州国総務庁と関東軍の依頼を受けて満州開発に乗り出したのである。その要諦は、日産コンツェルンの満州移転だった。
状況は短期間で動き、37年11月6日に日本産業が移駐、11月12日付で満州重工業開発と改称、鮎川は総裁に就任する。満州国政府も出資して半官半民となったため、「社長」ではなく「総裁」である。「重工業開発」にレコード事業は入らず、2社を売却することにしたというわけだ。
つづく
「忘れることの出来ないことは、昭和二十三年の暮、同氏の熱烈な勧めによって、私が日本で始めてテレビ放送事業を興す決意をした出来事である。(略)鮎川さんは戦前古くからアメリカで出来たテレビジョンに深く興味を持っておられて、将来は日本で之を実現させる為にその研究機関として、日産コンツェルンの全盛時分に、現在のビクターとコロムビアの両レコード会社を買収して、その傘下に入れて両社を中心にテレビの計画と研究を立てて居られた」(正力松太郎、前掲書、1968)。
清水与七郎と正力松太郎の回顧によると、戦後のテレビ放送創始時代に鮎川がこの2人を説得して日本テレビ放送網を設立させた、と読める。敗戦を挟んで鮎川はテレビというイノベーションに執着していたわけだ。まったく驚くほかはない。
日本ビクター蓄音器の親会社、RCAは1939年にテレビ受像機を発売した会社である。また、放送局のNBCを1926年に設立していた。米国コロムビアは大恐慌のさなかに経営危機に陥り、1938年に子会社の放送局CBSに逆買収されている。英国コロムビアは1931年に英国グラモフォンと合併し、EMIとなっていた。
本田美奈子さんの生前最後の3年間(2003-05年)は日本コロムビアと契約していた。デビューした1985年から90年までは東芝EMIと契約していたが、そのEMIである。1930年代、日産が買収するまで、日蓄=コロムビアの親会社は英EMIと米国コロムビアになっていたのである。
非常に複雑な企業統合史でわかりにくいが、EMIは英国コロムビアと英国グラモフォンの合併会社で、合併時に英米コロムビアの資本関係はなくなっている。英国グラモフォンはその名のとおり、米国ベルリナー・グラモフォンが設立した英国法人だ。ベルリナー・グラモフォンはビクター・トーキングマシンに改名しているので、1930年代の英EMIと米RCAビクターの源流は同じエミール・ベルリナーにたどり着くことになる。
日蓄=コロムビアは英米コロムビアと資本関係がなくなっても業務提携は続けている。日本ビクター蓄音器は、日産が買収したあとも、RCAビクターは出資を続けていた。鮎川義介のねらいどおり、最先端のテレビジョン技術は、日蓄と日本ビクターにも入ってくることになる。ところが、事態は急変した。
日産は満州へ移駐、レコード2社は売却
日産コンツェルンの傘下に入った日蓄=コロムビアとビクターだが、鮎川が日本ビクター蓄音器会長に就任してからわずか半年後、1937年12月30日にビクター会長を退任し、38年1月20日に日本蓄音器商会会長も退任、両社を東京電気に売却してしまう。
鮎川は満州国総務庁と関東軍の依頼を受けて満州開発に乗り出したのである。その要諦は、日産コンツェルンの満州移転だった。
状況は短期間で動き、37年11月6日に日本産業が移駐、11月12日付で満州重工業開発と改称、鮎川は総裁に就任する。満州国政府も出資して半官半民となったため、「社長」ではなく「総裁」である。「重工業開発」にレコード事業は入らず、2社を売却することにしたというわけだ。
つづく